第7話 調査の始まり
翌朝から悠月が行ったのは、前のアパートで自殺した女性についての情報を集めることだった。
事故物件だと不動産業者から知らされていた。そのことを承知で借りた。
だが、こんなことになるとは思っていなかった。
自分は何もかも、甘く見ていたのだと思う。自分で体験するまで、この世にあのような恐ろしいものが存在するとも思っていなかった。
今でも、全ては脳の誤作動だという、半信半疑の気持ちがある。
だが、それを判断する専門家には、門前払いを食らっていた。だから、精神科へのアクセスは試みない。今から受診しようとしても、どうせ半年以上先しか予約が取れない。
――まずは、ウエブで。
事故物件についての情報提供をするウェブサイトにアクセスすれば、過去に起きた事件や事故、火災などについて情報がつかめる。
悠月はそこに前のアパートの住所を入力してみた。
不動産業者は『若い女性の住民が、二年五ヶ月前に室内で自殺』としか教えてくれなかった。ウエブでの情報提供もほぼそれと同じ簡潔な記載だったが、日付が記されていた。
だからそれを頼りに、インターネットで記事を探すことができた。
ゴミのような記事に邪魔をされながらも、どうにか目的のものを探し出すことができる。
――『二十代女性が首つりで自殺』 これか!
だが、その後、どれだけ検索しても、詳しい情報が引っかからない。諦めて、悠月は立ち上がった。
自分にあのアパートを紹介してくれた不動産業者なら、もう少し情報があるだろう。
一縷の望みをかけて悠月はその記事をプリントアウトし、店舗まで足を運んだ。
いつも対応してくれた糸目の不動産業者は、今日も退屈そうに座っていた。社員は彼だけなのだろうか。
悠月を見ると眉を上げ、少し楽しそうに尋ねてきた。
「おや。またお引っ越しですか?」
「違います! 違うんですけど、これ……!」
悠月は客用の応接セットを進められ、彼がその向かいに移動するのを確認してから、持ち込んだ紙をローテーブルに置いた。
これを手がかりに、少しでも情報を聞き出したい。
「前のアパート。事故物件だったほうなんですけど、あらためて詳しい情報を聞きたいと思いまして……!」
「ほう?」
「こっ、……この事件です。『二月二十五日。異臭に気づいた同じアパートの住民が、交番に届け出』って書いてあります。『警察官が住民と見られる女性が首を吊っているのを見つけ、その場で死亡が確認された』って」
悠月は新聞の記事の文字を部分的に読み上げながら、顔を上げた。
「『遺体に骨折などの外傷があったことから、事件、事故の両面で調査を進めている』ってあるんですけど」
悠月が引っかかったのは、そこだった。
遺体に骨折、と聞いたときに、思い当たることがあったからだ。
アレが現れるときに、ずるずると足を引きずるような音が混じっていた。死んだ後に遺体が腐ったから、その腐った足を引きずるような形になったのかと思っていたのだが、死ぬ前の傷だったとしたら。
それほどまでの暴行を彼女は生前に受けており、それが怒りや未練となって、成仏できないということも考えられた。
――自殺に追いこまれたのは、暴行をしたその相手のせいとか?
この記事の続報は、見つけられずにいた。
検索サイトに思いつくかぎりのワードを入力して探してみたのだが、引っかかるものはなかった。だから、ここまで聞きに来たのだ。
「ええ。それが何か?」
不動産業者は、どこか楽しんでいるように見えた。
糸目がさらにつりあがり、狐とでも相対しているような気分になる。
「せめて、事件と事故のどちらかなのか、教えていただきたいと思いまして」
意気ごんで押しかけてきたのだが、そんな悠月の事情は目の前の男にとっては何の意味もないらしい。
「知って、どうされるおつもりですか」
不動産業者は、不思議そうに首をひねった。
どうにも、その表情が演技じみている。
「どうって、……気になりますから」
「ですがお客さん。今、そこに住んでいるのならまだしも、引っ越されているんですよ。それに以前、説明した以上の告知をする義務は、うちにはありませんので」
「っ」
悠月は詰まった。
言われてみればもっともだ。現在住んでいるならまだしも、引っ越しているから、あのアパートと表面上は縁が切れていることになる。
――言うか? 取り憑かれているって。
だが昼間の、国道沿いにある不動産業者の店舗内は明るかった。ここで怪異の話をするのはそぐわない。
それでも昨夜の恐怖が、生々しく残っていた。
このままでは引き下がれない。
悠月は、ぐっと身体に力を入れた。
「ですが、気になるんです。自殺か事故なのか、せめてそれだけでも教えてください」
これでダメだったら、あらいざらいぶちまけるつもりだった。
頭がおかしい人間だと思われてもかまわない。
しばらく沈黙があった後で、不動産業者は小さく息を吐いた。
「お待ちください」
席を立たれ、そう言い残された。
彼は隣室へと消えた。
すぐに何らかの答えを持って、戻ってきてくれると期待したのだが、引くぐらい待たされた。
悠月の全身から次第に緊張が消え、あくびすら漏れてくる。
――これは、何らかの嫌がらせをされているんだろうか。
悠月は何度も、壁の時計を見上げた。
十分が経ち、に十分が経ち、三十分が経つ。
このまま待っていても、彼は戻ってこないかもしれない。自分が立ち去るのを、隣室で待っている可能性もあった。
だが、戻ってくるまでは絶対に席を立たない、という強い気持ちで座り続けていると、ようやく不動産業者が戻ってきた。
手に、分厚いファイルを抱えていた。
だが、そのファイルは開かずにテーブルに載せ、表情が読み取れない顔で悠月を見た。
「ええと、……ですね。殺されたのではなく、自殺だということです」
「警察がそう発表したということですか?」
「警察は――どうでしたかね。ともあれ、自殺であることは間違いありません。あれは珍しい、……とても珍しい現象でしたが」
「珍しいって、何が?」
聞かずにはいられなくなって尋ねると、彼は楽しげに笑った。二回、彼とは不動産取引をしたが、ここまで表情が劇的に変わったのは初めてだ。
悠月はあっけに取られた。
人が一人、自殺したという事実だというのに、彼はどうしてこんなにも楽しげなのだろうか。
半円を描く彼の目と同じように、口も半円を描いていた。唇は薄く、色素も薄い。
――どういう……ことだよ?
アパートの怖いものと遭遇してから、世界が今まで自分が知っていたものとは別のものにすり替わってしまったような感覚がつきまとう。ずっと狐につままれているような感覚が消えない。彼を前にしての、今の感覚もそうだ。
彼は悠月を見て、すうっと顔から笑みを消した。
それから、手元のファイルをめくり、何やら確認する。
「自殺であることは、警察発表でも間違いありません。遺体はなかなか発見されず、その身体は溶けて流れておりました」
「あの、先ほど言っていた、珍しい現象というのは、何でしょうが」
それをどうしても聞いておかなければならない気がした。
食い下がると、彼は一本だけ指を立てて、天井を指差した。
「普通なら、死んだら意識はどこかに消えます。科学者や唯物論者は、死んだら意識も消えてなくなる、と言いますね。昔、言われていた『魂の重さ』なるものは、体内活動が止まったがゆえの、水分の減少だと。ですが、……世界のあちこちに、幽霊の話が残っているということは、死んでもその場に縛りつけられている者もいる、ということになりませんか」
「その、地縛霊とか、そういう類の話でしょうか?」
何を言おうとしているのか理解できず、面食らいながら聞き返すと、彼は悠月の質問に答えることなく、立てていた指をお行儀良く膝に戻した。
「あの部屋にお客様を案内するときには、予備知識を与えることなく、まず相性を見ます。ほとんどのお客様は、あの部屋を本能的に避けます。ですが、全く気にしないお客様と、不思議とあの部屋に惹かれるお客様がいます」
――確かに。
事前に事故物件でもいい、と言ったはずだが、彼はここは事故物件だと言わずに、アパートに悠月を案内した。
――それに、……最初、俺は不思議とあの部屋に惹かれた。
薄暗さは気になったものの、不思議と住み心地はいいように思えた。あの足音を聞き始めるまでは。
だが、ほとんどの客は、本能的に忌まわしいものを感じ取って、避けるのだろうか。
「事故物件は、不思議と人を呼ぶ、と言いますね。表現は難しいですが、見こまれた人間の目には、事故物件は魅力的なものに感じられるとか」
「見こまれたってことですか、俺は」
戸惑いながら、悠月は瞬きした。
かつての記憶を呼び起こそうとする。
「全てはお客様の判断です。どのアパートを契約なさろうが、こちらが介入することはございません。ご希望に合わせた物件を、ご紹介させていただくだけですから」
彼は持ってきた分厚いファイルを引き寄せ、膝に乗せた。
「どうされます? さらに別のところに引っ越して、毒と毒をぶつけてみせる方法もありますが」
「え? ちょっと、待ってください」
悠月は混乱した。
――毒と毒?
さらに強力な事故物件に引っ越して、新たな怪異と衝突させろという意味だろうか。
「そんなにも、事故物件というのは、たくさんあるんですか?」
「たくさんはございません」
彼は少し、残念そうな顔をした。
「ですが、私におすすめできる方法は、それくらいしか――」
混乱しきっていたが、それでも新たな怪異と遭遇するということだけは避けたかった。
悠月は慌てて口を開く。
「いいです。それは遠慮します。第一、先立つものがないですし」
そんなにもしょっちゅう引っ越していたら、金が持たない。
それよりも、当初の目的に立ち返りたい。
「俺が借りた最初の部屋について、自殺という以外に、もう少し詳しいことをお聞かせ願えないでしょうか。たとえば、同居していた人間とか、彼女が自殺に追いやられるまで、どんなことがあったのかとか。そ、……その、DVのようなことがありましたが」
DV、という言葉がするりと口から出たことに、悠月は自分でも驚いた。
便器に顔を突っこまされて死にそうになったとき、走馬灯のように蘇ってきた映像があった。腕を捩じ上げられ、殴られて地面に倒れこんだときのものだ。映像に過ぎなかったのに、自分が体験した記憶のように身体に定着している。あのときの痛みすら、遠く思い出されるような気がしていた。
不動産業者は、少しだけ驚いたように眉を上げたが、なめらかに返してくる。
「大変残念ではございますが。私どもも仕事柄、お客様にこれ以上の情報は、お伝えできないことになっておりますので」
これ以上は踏みこんでも無駄だと、その目が語っている。
「だったら、……いいです」
ここまで話してくれただけでも十分だと考えて、悠月は息を吐いた。
別の物件に引っ越すのはどうだろう、としつこく勧めてくるのをもう一度断ってから、店舗を出る。
結局、あの怪異の元かもしれない女性の死因が、事故ではなく自殺だとわかっただけだ。それと、この店舗がひどくうさんくさいことが。
――だったら、次は何をどう調べる?
自殺であることは、警察発表でも間違いないと、不動産業者は言っていた。警察といえば、兄だ。皓月に連絡すれば、その事件の詳細について調べてくれるだろうか。
刑事ではあったものの、どの部署に配属されているのかよくわからないし、プライベートな調べごとを手伝ってくれるのかもわからない。
だが、引っ越しを手伝ってもらったときに不穏な発言をしたのが、ずっと引っかかっていた。
『あ……。これは、仕方ないか』
あの発言の真意について、あらためて聞き出したい。
それに調べごとを断られたとしても、このような事件の真相を調べるノウハウについてだけでも教えてもらいたい。
便器に顔を突っ込んで死にそうになったときから、悠月は開き直る気持ちになっていた。
そろそろよけいな劣等感から解き放たれたい。
もともと自分は大したことのない人間だ。全てにおいて、皓月にはかなわない。
単に意地を張っていただけなのだ。
心が半分、ぶっ壊れたままだ。ブラック企業勤務で心と身体を壊され、壊れたままどうにか生き永らえているという自覚がある。
殺される一歩手前まで追いこまれたことで、素直になっていた。
だから、アパートに戻ってから、皓月に電話をかけた。
以前、引っ越しを手伝ってもらってから、二週間が経っていた。
『あっ、悠月か? 元気だった?』
兄は電話に出るなり、元気いっぱいの声でそう言った。悠月から連絡をもらったのが、よっぽど嬉しかったようだ。
今は職場にいるそうだが、このまま話しても問題はないという。
悠月は長話になることを最初に断ってから、全てをぶちまけることにした。前のアパートで起きた怪異から、昨日、便器に顔を突っこんで、殺されそうになったことまで、信じてもらえるか、半信半疑のまま、話し続ける。
前のアパートで足音が聞こえ始め、幽霊のような恐ろしいものが布団の周りをぐるぐると歩き回ったこと。
「めちゃめちゃ怖かった」とか「ヤバかった」とかいう短絡的な言葉の連発になったので、どこまで恐怖が伝えられたのかわからない。
皓月は特に大きな反応は示さず、淡々と聞いてくれた。わかりにくいところだけ、聞き返される。
自分に起こった変事を話すことで、皓月に精神科の受診を勧められることも覚悟していた。
引っ越し最中に、ナイロン紐で首をつりそうになったところも見られている。昨日は便器に顔を突っこんで溺れ死ぬ寸前だったと伝えたら、本気で入院を勧められるのではないだろうか。
だが、皓月の反応は違っていた。
『そうか。……まさか、実害が出るとまでは思ってなかったけど』
しばらく聞いたことがないぐらい、真剣な声の響きだ。
その反応に、ぞくっと心が震えた。皓月はこの話を信じてくれる。そう思っただけで、胸が熱くなった。
だが、本当に信じてくれているのか、まだ確信が持てない。兄に応じた声は、上擦ってかすれていた。
「次に同じことが起きたら、俺、今度こそ便器から顔を上げられなくなるかもしれない。さすがに、便器で溺れ死ぬのだけは勘弁だぜ。兄ちゃんも、弟の死因がそんなのは嫌だろ」
兄ちゃん、なんて呼んだのは、久しぶりだった。幼いころはそう言って、兄のあとばかりついて歩いていたのに。
『どんな死因であれ、おまえが死ぬのは嫌だよ』
そんなふうに応じられて、言葉が喉に詰まる。
皓月が自分にやたらと愛情を注いでくれているのはわかっている。問題なのは、自分がそれに値する人間ではないということだ。無意味な対抗心を抱いて、反発することしかできなかった。
だけど今は心が弱っているせいか、兄の言葉がありがたくて泣きそうになる。
自分に死んで欲しくないと思っている人が、少なくともここに一人いる。そう思っただけで、どうにか生きていけそうだ。
皓月は柔らかく続けた。
『あれは、おまえに殺意を向けていなかった。だから、大丈夫だと思っていたんだけど』
「なんだよそれ? 早く言えよ……!」
皓月は引っ越しのときから、何らかの存在を察知していたらしい。なのに、お守りを送ってくれただけで傍観していたのかと思うと、その行動が不可解に思えた。
「兄ちゃん、前のアパートに入ったとき、何か訳のわからないこと言ってたよな。『これは仕方ない』って。何か見た?」
『ん……。何かな、……ちょっと』
「って、何だよ?」
ごまかされそうになっている。それが許せずに食い下がろうとした。二度も死にかけたことで、悠月はその存在を無視することはできない立場だ。
「兄ちゃん、霊感とかあるの? 幽霊とか見える人?」
霊感のあるなし、ということ自体、バカにしてきた。
今でもバカにしたい気持ちはあるのだが、それでも昨夜、溺れ死にそうになった人間としては、本気で質問せざるを得ない。
皓月がなかなか答えなかったので、しつこく聞いた。
「見えるの?」
兄は「んー」とか、「あー」とかうめいた後で、曖昧に答えた。
『見えるというか、……見えるような気がすることがあるってことぐらい?』
よくわからない答えだ。だが、このような事態になったからには、ハッキリとした答えを効かずにはいられない。
悠月にとって世界は、幽霊を見たことがある人間と、そうでない人間に二分されていた。
あれを信じるのか、信じないのか。
図らずも自分は、信じざるを得ないほうに踏みこみつつある。否応なしに、そちらの世界に引きずりこまれている。
「引っ越し前のアパートで、何か見たってこと?」
『んー……、まぁ』
「どんなの?」
『その、……首の長い――』
そう聞いた瞬間、あの真っ黒なシルエットが脳裏に鮮明に浮かび上がる。
今は昼間だというのに、それを言葉にされたことで、すぐそばにそれが出現しそうな恐怖に囚われて、悠月は硬直した。
――だけど、首が長い?
その言葉に違和感があった。悠月が見た怪異には、首がなかったはずだ。別のものが見えていたのか、同じものでも見えかたが違うのか。
それでも、言葉にされたことで、今まで自分が体験したことは気のせいではないと思えた。
皓月と共通認識を持てる対象は存在する。そのことに、あらためてゾッとした。
「――他には、どんな特徴があった?」
『女の幽霊だよ。腐乱した……』
「それ!」
思わず、大きな声が出た。
この新しいアパートにも昨夜、現れた。
しっかりとは見ていない。見える前に、逃げ出した。だけど、音は聞いた。ぱらぱらと、全身にまとったうじが立てる音を。
悠月はまくしたてた。
「とにかく! それが俺に憑いてきてるみたいなんだ。その正体を知って、お祓いみたいなことがしたい。そいつから逃れたい。『事件だか事故だかわからない』っていう新聞記事を見つけたから、不動産業者のところに行って、詳しい話を聞きだそうとしたんだ。そうしたら、事故ではなくて自殺です、ってところまで教えてもらった。だけど、わかったのはそこまでなんだ。遺体には骨折や、殴られた跡があったらしいから、誰がその傷をつけたのか、知りたいんだけど」
『知って、どうするんだ?』
「どうって、……その人を傷つけた犯人を見つけたら、本当に祟っていいのはこの人です、って教えられるだろ」
祟る相手を見つけたい。
自分はとばっちりを受けているだけだ。
だが、皓月の言葉は否定的だった。
『あまり介入しないほうがいい。それを理解しようとするな。深入りすると、――憑かれるぞ』
それを聞いて、冷たい戦慄が悠月の背筋を貫いた。
――憑かれる?
電話の向こうが、見知らぬ異界に通じているような感覚を覚えた。
「え……?」
『相手の正体を詳しく知れば知るほど、そいつは、理解者だと思っておまえにすり寄ってくる』
「そういうもん?」
『ああ。相手のことを理解していくにつれて、よけいにハッキリと、見えてくるものがある。だから、何も知らないほうがいい』
その言葉に、悠月はゴクリと息を呑んだ。
心あたりがあったからだ。
最初はかすかな足音を聞いただけだった。
それが日を追うにつれて、ハッキリと聞こえるようになり、その姿が見えるようになった。耐えがたい臭気や、それが立てる物音まで感じ取った。
それは、あの怖いものと、自分が共鳴していった結果なのだろうか。
――理解? ……理解って、……何だよ?
「だけど、……知らなくても見える」
悠月はかすれる声で言い返した。
「知りたいと思ったことは、一度もない。本気で見たいとも、思っていなかった。なのに、アレは現れる。引っ越し先まで憑いてきた。だから、……今さら、知っても知らなくても、同じことじゃないのか?」
逃げてもどうにもならないのなら、腹を据えて向かい合うしかない。そう思ったのだ。
だが、それは正しくないのだろうか。
わけがわからなくなって、八つ当たりのように声を荒らげてしまう。
「だったら、どうしろって言うんだよ! もう見えるのに! 聞こえるのに! お祓いが有効だっていうのなら、紹介しろよ!」
『お祓いは無効だ。もはやそれは、おまえの体内まで入ってきている。どうすれば祓えるのか、わからない』
「体内?」
ぞくっと、また戦慄が身体を貫いた。
「……だったら、どうすれば」
声がかすれる。
『これから、方法を考える』
皓月の言葉に、悠月はゆっくりと息を吐き出した。
考えてみれば、皓月は今、悠月から異変について初めて聞いたばかりだ。解決法について考えられなかったとしても、無理はない。
――だったら、俺が考えていた方法は有効なのか?
そう思って悠月は、全身に力をこめた。
「その自殺した女性について、もっと詳しく知りたいんだ。他殺かもって疑われるほどの骨折があったってことは、誰かがそれをしたってことだろ。だったらやっぱり、その悪いやつを見つけて、『正しく』恨ませるべきだと思う。彼女をそいつと引き合わせたら、俺はその呪いから逃げ出せると思うんだけど、どう思う?」
便器に顔を突っ込まれたとき、脳裏に蘇った映像がある。
いきなり殴りかかってきた男性の姿だ。
悠月には全く覚えのない映像だった。
あの男と、自殺した彼女は深く関わっているのではないだろうか。
皓月が電話の向こうが、深々とため息をつくのが聞こえてきた。
『おまえさ。ああいうものが理路整然と、呪う相手を選ぶと思う? 考えてもみろ。彼女はすでに、その相手への報復を済ませているかもしれない。だとしたら今は、誰かれかまわず呪う段階だ』
「そうなの?」
『知らねえよ。つまりは、調べても無駄になるってこと』
皓月の言葉使いはだいたい丁寧なのだが、ごく稀にこうして雑になるのが、悠月は割と好きだった。腹を割って、話されている気分になる。
兄を困らせているのが少しだけ愉快で、悠月は食い下がった。
「だけどさ。わからないままだとモヤモヤするだろ。どうして俺が呪われるのか、まずはその理由を知っておきたい。今のままじゃ、理不尽としか思えない」
『わかった。だったらちょっと調べてみる。表に出ていないことがあったら、連絡する』
これは、承諾したという返事だろうか。
だが、それでなかったとしても、あの怖いものについて話し、信じてもらえただけで、ふうっと気持ちが軽くなった。兄に対するよけいな反発心が消えつつある。そんな自分が、少し嬉しい。
「できる範囲でいいから」
『目安としては、記事として世間に公表されている範囲ぐらいだな。あんま、期待すんなよ』
「ん」
『とにかく、話してくれて嬉しかった』
そんな言葉を残して、電話は切れる。
こんなにも皓月と長く話したのは、久しぶりだった。
スマートフォンの通話ボタンを切ってから、小さく悠月は笑った。
だがそれよりも、皓月との会話によって、あの怖いものの不可解さを意識せずにはいられない。
『憑かれるぞ』
その言葉が恐怖を煽る。
正体を知ってしまったことによって、あの姿がこれ以上リアルに見えるようになるのは避けたい。
とはいえ、何もしないでいるのも落ち着かない。
――だって、もう憑かれているんだし。
悠月は自分の部屋の壁にもたれて、窓から外を見た。ごみごみとした住宅地の、なんの変わりばえもない風景だ。
――あの人。……骨折するほど、殴られてたって。
生前は、どんな人だったのだろうか。
殴った相手は家族なのか、恋人なのか。
暴力をふるう男なんて、ろくなものではない。そんな認識が悠月にはある、すぐに別れたほうがいい。
DV男について以前、テレビ番組で観たことがあった。
殴られた女性は、最初は逃げたいと願う。だが、脅迫や経済的な束縛を受けて逃れることができないと、無力感を抱くようになる。
助けてくれる人は誰もいない。
逃げたら逆上したDV男に殺されるかもしれないし、助けてくれた家族や友人まで巻き添えにしてしまうかもしれない。
そのような強い恐怖に縛られ、殴られても一切の抵抗ができなくなってしまうのだ。
――もし彼女もそうだったら、可哀想……だな。
悠月は外を見ながら、ぼんやりとそう考えた。
毎日暴力や暴言を受けていたら、無力感に支配される。そのことを、悠月はブラック企業での勤務を通じて、実感していた。
怒鳴られるのは、当然だ。自分はそういう扱いを受けてもいい能力の劣った人間なのだと、だんだんと思いこむようになっていく。
彼女は殴られて、その果てに死んだ。
死んだ後もなかなか発見されず、ぐずぐずに腐っていった。
そんな彼女がいまだに化けて出てくるということは、やはり死は解放ではないのか。
強い怒りや苦しみが枷となって、彼女を現世に引き止めているとしたら。
恨みが果たされないままだったら、DV男への復讐をかなえさせてあげたい。
――まだDV男と、決まったわけではないけど……。
それでも死にそうになったあのとき、自分の脳裏に送りこまれた映像に意味はあるのではないかと、結びつけずにはいられなかった。
トイレで溺れそうになったとき、脳裏にひらめいた光景をもっと詳細に思い出そうとしていた。
薄暗い夜の街だ。すぐそばに迫る男の姿。こちらを殴ったときの動き。
あれは、おそらく彼女が体験したときの光景だ。殴ろうとしていた男は、彼女を骨折させたDV男で――。
――そういえば兄ちゃん。俺の体内に入っているって言ってなかった?
あまり追及できなかったが、確かそんなふうに言っていたはずだ。
便器に顔を突っこんだとき、自分の身体が自分の意志で動かせなくなったことを思い出す。
あれは、もしかして悠月の体内に入った彼女が、身体の支配権を奪った結果ではないのか。
――慣れなくて、身体をうまく動かせなかっただけ? 俺を殺そうとは思っていなかった?
そんなことを考えていると、背筋がぞくぞくした。
日々積み重なっていった異変が符号していく。
勝手に抜けていた充電コード。テレビのリモコン。トイレットペーパーがたくさん引き出されていたこと。それをしたのは、自分の身体を勝手に乗っ取った彼女だとしたら。
まだ身体の動かしかたに慣れていなくて、あちこちにぶつかったり、幼女のようにトイレットペーパーを引き出したり。
自分を殴る男の映像は、彼女が体内にいたときの残滓で――。
――そんなことが、ありえるのか?
考えても、答えは出ない。
怪異にずぶずぶと飲みこまれ、自分自身を失っていく恐怖が悠月を襲う。このままでは、自分は取り殺されてしまうのではないのか。
身じろいだとき、ポケットのあたりを手がかすめて、硬いものに触れた。そこに蛇のキーホルダーを入れておいたことを思い出し、引っ張りだしてぎゅっと握りしめる。
――兄ちゃんに、これを送ってくれた礼を言うのを忘れてた。
もしかしたらトイレで助かったのは、これのおかげかもしれない。
このことについても、兄に問いただしておきたかった。すっかりそのことは頭から飛んでいた。だけど、今さら電話をかけ直す気にはなれない。
――怖い、よ……。
一人で震えながら、悠月は蛇のキーホルダーを握り直す。
これくらいしか、頼るものはない。
だから今夜もここから逃げ出して、夜勤バイトにいそしむしかないのだ。
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