第6話 危機
引っ越してから、三週間が経った。
小さな異変は、何かと続いた。
悪夢を見たような記憶がある。だが、その内容がまるで思い出せない。
眠ってもまるで体力が回復せず、眠れば眠るほどだるさが蓄積されていくようだった。
眠っている間に、自分が何かしたような形跡もあった。
枕元で充電していたはずのスマートフォンがコードから抜かれていたし、つけっぱなしのテレビの音で目覚めたこともある。
リモコンは敷きっぱなしの万年床のすぐ横の、ちゃぶ台の上に置いたはずだ。
眠るときには、必ずテレビの電源を切る。つけっぱなしで寝落ちすることはない。
だから、自分は眠っている間にちゃぶ台の上にあったリモコンを引き寄せ、ボタンを押したことになる。
さらには、トイレットペーパーの紙がやたらと引き出されて床でとぐろを巻いていたこともあった。カーテンレールにハンガーでつるしてあった洗濯物が、全て床に落ちていることもある。
今までそんな現象はなかった。
だが、全てに科学的な説明ができるはずだ。悠月はそのあたりについて詳しくはないのだが、盛り塩が溶けたのは湿気のせいだろうし、他の現象も、微細な震動とか、どこかからの電波が入ったせいとか、自分の記憶違いで説明がつく。
だけど、部屋に自分以外の誰かがいるような気配は、日に日に強まっていく。
その日、悠月は夜中の三時を回った時刻に、使っていたタブレットを床に置いた。
新しいアパートは、ワンルームだ。
ドアから入ってすぐのところに、キッチンスペースがある。狭い通路を挟んだ向かいが、トイレとユニットバスのある洗面所。その奥に、六畳のフローリングの居室。
以前の部屋よりも狭くはあったが、狭いほうが怖さは感じなくていい。
布団に寝転んでネット動画を見ていたが、瞼がひどく重い。
灯りを消したほうが眠りの質は良くなるらしいが、前のアパートでの出来事があったときから、暗闇が極端に怖くなっていた。
だから、灯りをつけたまま眠るつもりだったが、突然、部屋の灯りが落ちた。
――え?
全身が固まる。
照明器具は引っ越しのたびに持ってきている、古い箱形タイプのものだ。中には円形蛍光灯が二つついていて、オレンジ色の常夜灯もある。
部屋のスイッチではなく、そこから長く伸ばした紐を引っ張って、付けたり消したりできるので、無精するには便利なのだ。
このアパートに引っ越してから今まで、照明が勝手に落ちることはなかった。
眠気が吹き飛んで、悠月は息を詰めた。
手を伸ばして照明の紐を引っ張り、もう一度明かりがつかないか、確認したい。
だが、部屋の空気がぴぃんと張りつめていた。異様な気配を感じ取って、呼吸が浅くなる。
すぐには目が慣れず、何も見えない。この暗闇の中に何が潜んでいるのかわからずに、ざわざわと悪寒が広がっていく。布団の中にいるのに、まるで身体が温まらずに寒くなっていく現象は、前のアパートにいたときと一緒だ。
だが、もうあんな恐怖は味わいたくなかった。自分は、あの怖いものから逃れられたはずではないのか。
ぜい、ぜい、とどこかから聞こえる荒い息遣いが、自分のものだとふと気づいた。
深夜だから、よけいな物音はしない。それでも、このアパートを照らす街灯は一晩中つけっぱなしのはずだ。
街明かりもある。室内はひどく暗いが、外に一歩出れば、自分はこの闇から逃れられるはずだ。
――だから、大丈夫。
布団の中に縮こまりながら、自分にそう言い聞かせた。すぐに目が慣れ、室内に何の異変もないとわかるはずだ。
それでも、身体が先に異変を察知しつつあった。
ガチガチと。勝手に歯が鳴り始める。
悠月が布団を敷いているワンルームの、端のほう。吐き出し窓に面した、足元のあたりの闇がやけに気になった。
その暗闇から、ぽたぽたと、何か遠い雨音が聞こえてくる。
――なんだ、この音。
だけど、意識を向けてはならない。そんなふうに、悠月は自分に言い聞かせる。
そこに焦点が合っていけばいくほど、その存在が鮮明になる。それに囚われ、逃れられなくなるからだ。
前のアパートに引っ越したときも、最初は気のせいだと無視できるほどのかすかな足音が聞こえるだけだった。
だが日に日にその足音がハッキリと聞こえるようになったのは、それを意識したからではないのか。
ふいに鼻孔に腐臭が漂った気がして、悠月は嫌悪に顔を歪めた。
――だから、……何も聞くな、……意識を向けるな。
浅い呼吸を繰り返しながら、悠月は自分に言い聞かせる。
だが、その音は否応なしに聞こえてきた。
目を閉じることはできても、手の介助なしでは耳をふさぐことはできない。
ぽた。ぽた、ぽた。ぽたぽたぽたぽたぽたぽた。
最初は雨音にしか聞こえなかった。
雨音にしてはずいぶんと大粒で、霰のように質感のある音だ。
小さく聞こえてくるそれに、どうしても意識を向けてしまう。
耳を澄ませてはならない。
わかっているのに、小さな音をよりハッキリととらえようとしてしまうのは、原始の時代の本能なのかもしれない。
呼吸が浅く速くなり、どくんどくんと、大きく鳴り響く心臓音が耳を塞いだ。その自らの音で、他に何も聞こえなくなればいい。
それがもうじき出現することを、全身が予感していた。
だけど、あの恐ろしいものは、前のアパートに置いてきたはずではなかったか。
自分は引っ越して、それから逃れられたはずではないのか。
もしかして、あれが憑いているのは、アパートではなく自分だろうか。
そう考えた途端、全身の血が凍りつくような恐怖を覚えた。
――そんなのは嫌だ……!
どこにも逃げ場はなく、死ぬまでつきまとわれるのだとしたら。
だけど、自分が何をしたというのか。
ますます募っていく恐怖に喉が痛み、耳の奥がジィンとした。胃液が逆流し、喉の奥を灼いていく。
ぽた、ぽた、ぽたぽたぽたぽたと聞こえてきた物音が、何によるものなのか、ようやくわかった。
あれはひどく腐っていた。
腐乱したものにはすぐにうじが湧くという。うじはさなぎになって、成虫となる。あのぽたぽたという音は、あの身体に無数にたかったうじが落下するか、さなぎが落ちる音ではないのか。
それに気づいた途端、ぞうっと全身に冷たい痺れが走った。
このままではいられない。一刻でも早く、この場から逃げ出したい。
まだ手足が固まっておらず。動けるうちに、あれが自分の枕元にたどり着くよりも先に、この部屋から逃げだそうと考えた。
ドアを開けて、街灯の光の中に身を晒せばいい。明るいところを探して走って、駅前の二十四時間営業の明るいファミレスにでも逃げこめれば。
眩しいほどの光に満ちた店舗が、憧れの場所のように思えた。
そこに一刻でも早くたどり着きたくて、悠月は布団を跳ねのけて立ち上がろうとした。
だが、思っていたほどスムーズに手足は動かない。やたらともたついて、立ち上がることすらできないことに焦った。何度か尻餅をつき、無様にあえぐ。パニックに陥っているからだろう。
「はぁ、……は、……は……」
うめくように声を発していた。
それでも、逃げ出したいという気持ちは強い。あのようなものを、二度と見たくない。
見てはいけない。聞いてはいけない。嗅いではならない。
とにかく、あれが影響を及ぼす範囲から逃げ出さなければ。
その思いに突き動かされた悠月は、床に手をつき、這いずってでも逃げようとした。
向かうのは、あれが現れそうな部屋の隅とは、正反対の方向。
顔を上げて玄関のほうをあおぎ見た。
いい加減目が慣れてもいいはずなのに、驚くほど何も見えない。床についた自分の手すら見えないのは異常だ。
口を開けば中に入ってきそうな、密度のある闇に包まれていた。
自分が向かおうとしている先には、闇しかないような恐怖に陥った。どんなに目を見開いても、何も見えない。それでも、手探りで進むしかない。
フローリングの感触や、その上に置かれた雑多なものの感触は、まぎれもなくここは自分の部屋だと教えてくれた。
たかだか六畳のワンルームだ。なのに這いずって動くときには、その距離がひどく遠く感じられた。一生、ここから出られないのではないのかという、恐怖に呑みこまれそうになる。
全身に冷たい汗をかいていた。部屋の隅にすでに何かが出現している。その何かに、背中を向けている恐怖があった。
いつ背中をつかまれるかわからないというのに、立ち上がることもできずに、無様に這いながら前に進むしかない。
無防備な背中を、その方向に晒しているだけで耐え難い恐怖が膨れあがる。
半泣きになって、もがくように進んだ。
「ううう、……あっ……」
垂れ流していた涎と涙と汗で、顔面がぐちゃぐちゃになっていた。それにかまう余裕すらない。
暗闇の汚泥の中で、ひたすらもがくように手足を動かした。身体がひどく重く、息が苦しい。何かに強打した膝が痛い。
そのとき、がつっと、額が何かにぶつかった。目の前で星が散る。だが、痛みよりも、驚きが先になった。そこにあるのは、固い板状のものだ。それに拒まれて、前に進めない。
――何だ?
何が自分の前に立ち塞がっているのかわからず、ただ思考力のないまま、がむしゃらに肩と顔面を使って押し返し、先へ進もうとした。
だが、いくら全身に力をこめても押し戻される。何度もそれと格闘した後で、ようやく気づいた。
これは、洗面所へのドアだ。
自分はその前の狭い廊下にいる。普段ならそれは閉じておくべきものだが、ずぼらなので開け放されていることも多い。
廊下に該当するスペースの幅は狭く、柱もあったので、このドアが開いていると、その隙間をくぐり抜けて玄関に向かうことはできないと知っていた。一旦下がって、ドアを閉じなければならない。
だが、這っている今の体勢で、下がるのは困難だった。何より背後から迫ってきている何かの脅威に、ほんの少しでも自分から近づきたくない。
だからその代わりに、悠月はドアを中心にして身体をねじり、バスルームの真っ暗な空間に転がりこんだ。
全速力で手を伸ばしてドアノブをつかみ、それが入ってこないうちに必死でドアを閉じる。
内鍵が閉じる、カチッとした音が響いた。
「はぁ、……はぁ、……はぁ、は、は、は……」
バスルームの中にも、闇が詰めこまれていた。自分の荒い息づかいが、密閉空間の中ではことさら響く。
ここに逃げこんだのはいい判断だったのか悪い判断だったのか、まるでわからない。頭が真っ白で、まるで働かない。部屋に現れたそれの気配に怯えきり、この狭い空間の中で可能なかぎり安全な場所を探そうとしていた。
奥にバスタブがあり、手前に便器がある。
バスタブのほうが安全なように思えて、その中に転がりこもうと思った。
だが、身体を起こすために床に膝をつけ、バスタブの縁に手をかけて上体を起こそうとしたとき、全身がバチッと見えない何かに触れたように跳ね上がった。
その直後に、冷たい戦慄が背筋に広がる。
――何だ……?
全身に冷水をかけられような悪寒に震えた。
バスタブの縁に突っ張っていた腕に、まるで力が入らない。それどころか、全身の動かしかたがわからなくなっていた。
ぐにゃあと、体勢が崩れた。
気がつくと、悠月は便器に顔を突っこんでいた。
「っぐ。……ごぼごぼごぼ……」
その水の中で、空気が盛大に吐き出される。
備えつけの便器は古いタイプで、いつでもたっぷり水が張られていた。呼吸ができないので、必死になって顔を上げようとしているのだが、手足の感覚はあるものの、自分の意思で動かすことができない。
そのとき、悠月の身体が勝手にバタバタと動き始めた。
――え?
焦るし、驚く。自分の身体が、自分ではない何かにあやつられているように感じられたからだ。動かそうとは思ってもいない方向に、勝手に手足が動く。
だが、そのあやつりかたは下手すぎて、整合性がとれていなかった。
まずは水から顔を上げることが先なのに、妙なところに力が入っては抜ける。腹筋に力を入れ、腕を突っ張って頭をあげるといった一連の動きができず、顔だけを上げようとしてかなわず、ますます苦しさが増していく。
――落ち着け! ……落ち着け……!
そんな中で悠月は、懸命に自分に言い聞かせた。自分はパニックに陥っているから、身体が動かせないに違いない。
「ぐ、……ぐ、ぐ、ぐ……!」
だが、なかなか身体の支配権を取り戻せない。
手足や身体の勝手なところに、力が入っては抜けるばかりだ。苦しさにあえぎながら空気を吐き出し、水の中で噎せ返る。飲みこんだ水が、暴力的に喉と気道を攻撃した。
苦しすぎて、気が遠くなる。
自分はこのまま、溺れて死ぬのだろうか。
便器で死ぬなんて、最高に格好が悪い。
苦しさのあまり痛みが麻痺し、意識が遠くなった。このままずっと息をせずとも生きていられるような酩酊感に包まれ、
全身が脱力していく。
そのとき、脳裏で何かの映像が閃いた。
薄暗い夜の街――。
すぐそばに迫る男の姿がある。
画面が揺れているからわからないが、どうやら画像の主は肩をつかまれたらしい。その直後に、男の腕が振りあげられた。
殴られたときのような、大きな画面のぶれ。
地面が急速に近づく。殴られて、倒れたのだろうか。
――なんだこれは。
自分が何を見せられているのか、わからずにいた。これは死ぬ間際に見るという走馬灯なのか。
だけど、全く記憶にない光景だ。
こんなものを見てしまうぐらいだから、自分はもうじき死ぬだろう。
最後のあがきでどうにか指先を動かそうとした。
必死で集中すると、不意に指先が跳ね上がる。
――動いた……!
その喜びに何も考えられないまま、ただ指先に触れた冷たい硬いものをつかんで引っ張った。
「――……っ!」
その瞬間、いきなり全身の感覚が戻ってきた。
どうしてこうすることが難しかったのかわからないほど、やすやすと顔が水から上がった。
だが、その直後に吸いこんだ空気は、塊のように喉を直撃した。
「ぐぐ、……ごぼ、はぁ……は、……はは、……は……」
咳こみ、荒々しく呼吸しながら、ぼたぼたぼたと、盛大に顔から水が滴っていくのを感じている。
便器の汚れを全て顔面で吸ってしまったような不快感はあった。
だが、呼吸が出来るだけで嬉しくて、便器にすがりついて泣いていた。
「ふふ、……は、……はぁ、……は……」
――生きてる……。
瞼の裏で光がチカチカと瞬く。
ただ息を吸って吐くたびに、自分は生きているのだと実感する。
しばらくはその多幸感に酔い、呼吸が少し整ったころに、悠月はバスルームの壁にもたれて脱力した。喘ぐ形で、顎を上げる。
苦しさが治まっていくのと引き換えに、少しずつ恐怖が蘇ってきた。
――何だったんだ、今のは。
鼻孔から、長く水が垂れている。鼻水なのか、鼻血なのか、単なる吸いこんだ水が漏れているだけなのか、真っ暗だからまるで区別がつかない。
口からも水があふれてきたので、それをまとめてげほっと吐き戻した。鼻孔の奥に、ツンとした痛みが生まれる。
鼻孔の奥で、鉄臭い匂いを感じ取る。
――今のは、何だ?
そのことを考、ひたすらえ続けていた。
便器に顔が沈んだというのに、驚くほど身体が動かせなかった。自分の脳に、深刻な損傷が生じているのか。
最後のあがきで、何か硬いものに触れたことも思い出した。
まだそれを、無意識に握りこんでいる。
バスルームの中は真っ暗で、いまだに何も見えない。だが、握りこんだものを指先でまさぐっていると、それが何なのかわかった。
これは、兄が誕生日祝いにくれた、蛇の形のキーホルダーだ。
もしかしてこれが、自分の命を救ってくれたとでもいうのか。
――いや、だけど、なんで?
このようなものが効いたとしたら、今のは脳の問題ではないのだろうか。お守りのようなもので撃退できる、霊的な何かか。
送られてきたのを見たとき、その形を悪趣味だと笑った。
だが、兄はこれに何らかの意味をこめて、自分に送ってくれたとでもいうのだろうか。
――もしかして、こうなることを見越していた?
世界が自分の知らないものに変質しているような恐怖を覚えて、ぶるっと身体が震えた。
前のアパートでは、奇妙なものが見えただけだった。
それだけでも怖くて逃げ出したというのに、今、悠月の身に起きた不可解な出来事は、その次元を超えている。
殺されそうになったのだ。
いままでとは明らかにフェイズが違う。
だんだんと、寒さが骨まで染みて感じられ、悠月は暗闇の中で、身体を引きずるようにして、バスタブに転がりこんだ。
蛇のキーホルダーを握りこみ、着衣のまま、頭からシャワーの熱い湯を浴びせかける。
あの怖いものから逃げられたと思っていた。
だけど、これではまるで逃げられてはいない。むしろ、事態は悪化してるのではないだろうか。
窒息しそうになったときの苦しさを、ありありと覚えていた。
いつ死んでもいいような気持ちで生きてきた。
ブラック企業勤めで心と身体を壊してからは、死は驚くほどすぐそばにあった。
ややもすれば、その境界線を越えてしまいそうで怖かった。線路に吸いこまれそうになったり、自殺の方法を真剣に検討したりもした。
生きていくためにしなければならない全てのことが億劫で、その重荷を降ろして楽になりたかった。
悠月がそれでも生きてきたのは、死ぬのが怖かったからと、自分が死んだら悲しむ人がいたからだ。
すでにこの世にはいないが、善良な両親。
そして、何かと悠月のことを心配してくれる兄がいる。
顔を合わせれば反発してしまうものの、自分が死んだら皓月は途轍もなく悲しむはずだ。
皓月を悲しませてはならない。死ぬぐらいだったら、皓月にすがってもいい。だが、人生の落伍者となった惨めな姿をさらすのには反発があって、なにくそと思いながらどうにか生きながらえてきた。
いつ死んでもいいと思っていたはずなのに、目の前に死が迫ったとき、死にたくないと強烈に願う自分がいた。
がむしゃらにもがき、身体を動かそうとした。
――俺って、死にたくなかったんだ……。
シャワーに打たれながら、しみじみとそのことを実感した。
引っ越し準備をしていたときのアパートで、ナイロン紐の輪に首を入れそうになったときも、死はすぐそこまで迫っていた。
あのときも殺されそうになっていたのだろうか。今回はそれよりも、いっそう死に近づいたという恐怖が体内に生々しく残っている。
――死にたくない。……殺されたくない。
悠月はひたすらそう思った。
いつ死んでもいい人生なのは、変わりがない。
ここまでつぶれてしまったからには、どこまで立て直せるのかわからない。
一生、胸を張れるほどの稼ぎは期待できないかもしれないが、それでもどうにか世界の片隅で生きていきたい。
じわりと、目の端に涙が滲んだ。
涙はシャワーに混じって流れていく。
ただ泣くだけのことなのに、不思議なほど気持ちがよかった。自分は生きていると、実感できるからだ。
――死にたく、……なかったんだ、俺は。
あらためて、そう思う。それがわかっただけでも、何だか嬉しい。心が少しずつ、ほどけていく。
他人からみたら、つまらない人生かもしれない。
底辺に近い収入で、安すぎる家賃のところに住んで、どうにか飢えずに暮らしている。バイトに出られなくなったら、途端に生活は破綻する。
――それでも、……俺はそれでいいんだ。
ようやく、そう思えるようになっていた。
思い出してみれば、少しは楽しいことがあった。味噌味の袋ラーメンに魚肉ソーセージを入れ、半熟の卵をとろりとからませ、申し訳程度に入れたキャベツが甘く煮込まれていると、おいしいな、と心から思える。
そんなささやかな幸せを積み上げていく暮らしでいい。
無料動画をおすすめに従って見ていく中でたまたま面白い動画に出会い、くすっと笑えたときの爽快感。オンラインゲームのイベントをやりこんで、そこそこの成績を上げたときの、誰に自慢するでもないが、誇らしい気持ち。
そんな小さな幸せが、悠月を生かしているのだ。
――だから、……俺は、それでいいから……。
涙が止まらなくなった。
ただ、自分は生きていたい。
惰性の毎日だったとしても、食べ物はおいしい。チェーン店で、来年も食べたい季節のメニューがある。他人から見たらくだらない人生であっても、それでも小さな幸せを毎日積み重ねていければ。
コンビニでは、腹が立つ客もいた。それでもまだ生きていたいと思えるほど、自分は人生に失望しきってはいなかった。
悠月はシャワーの中で顔を上げた。
引っ越しさえすれば、アレから逃れられると思っていた。だが、それはかなわなかった。
もし次のアパートに引っ越したとしても、アレとの因縁を断ち切らないかぎり、また現れるような気がする。
――このままで何も解決しないのだとしたら、どうにかするしかないか。
ようやく腹が据わった。
アレと正面切って、向かい合うしかない。
だが、どうすべきなのか、その方法がわからない。
――アレとの関係を断ち切るって、具体的にどうすればいいんだ? お祓い? お祓いって、どこに行って、誰に頼めば……。
まるでわからないからこそ、皓月に相談しようかと考えた。
皓月は効果のあるお守りをくれた。おそらく前のアパートで引っ越しを手伝ってくれたときに、何かを感じ取ったに違いない。
それと平行して、調べたいことがあった。
――アレの正体。
前に住んでいたアパートで、自殺したという女性のなれの果ての姿なのだろうか。まずはその女性の名前や死因などについて知っておきたい。
そこに手がかりがあるような気がする。
そもそも、自分に祟るのが間違いなのだ。
アレにどこまで理屈が通用するのか、わからない。だが、自分は単にあのアパートに住んだだけの無関係な人間だ。
そのことをその謎の存在に伝えることで、どうにか勘弁してもらえないだろうか。
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