第5話 憑いて……?
新しいアパートに転居したことで、悠月はしばらく手足を伸ばして生活することができた。
そこでなら、深夜の足音で目が覚めることはない。かすかな物音が聞こえたような気がしてビクッとしたことは何度かあったが、全ては気のせいだった。
だが、引っ越して数日後。出かけようとしたとき、ドアの左右に置いた盛り塩が、水のようにどろどろに溶けていることに気づいた。
「……っ」
いつから、こうなっていたのだろうか。全く気づかなかった。
だがこれは、部屋の湿気で溶けただけだろう。
そう自分に説明して溶けた塩を水で洗い流し、綺麗に拭いてから、再び塩を盛った。もう一度同じ現象が起きるか、確認したかったからだ。
それから数日間、特に何の変化もなかった。
だが、夕方になってそろそろバイトに行こうか、と思って、玄関の脇にあるシンクで歯を磨いていたとき、ふと視線が盛り塩に落ちた。
「ん?」
また塩が、どろどろに溶けている。それだけではなく、小さく動く黒い点が無数に見えた。
「うわっ」
米に湧くコクゾウムシに近いだろうか。いや、それよりも小さい。その薄気味悪さに、悠月は皿の塩の中身を外に撒こうと立ち上がった。
だがそのとき、部屋のチャイムが鳴った。
――え?
ドアの外に、人がいる。
自分を訪ねてくる人に心当たりはなかった。ここの住所は、バイト先の店長と兄ぐらいにしか伝えていない。
続けて、ドアがコツコツと叩かれた。
「――さぁん! 宅急便です」
その言葉にハッとして、ドアを開いた。そこには制服を着た宅急便の従業員が、荷物を持って立っていた。
それを受け取り、ドアを閉じる。
――何だよ、ビックリさせやがって。
そのとき、宅急便を受け取るためにシンクに置いた小皿に気づいて視線を落とした。中身の塩はドロドロに溶けたままだったが、先ほど見た無数の黒い虫は見当たらない。
「え?」
そのことに、さらに驚いた。どこかに逃げたのだろうか。周囲を見回してみたが、一匹も黒い虫は見えない。移動した形跡もなかった。
だが、皿をそのままにしておくのは気持ちが悪い。前回同様、水で洗い流して、水切りカゴに伏せる。もう、盛り塩はしないことにした。またあんな黒い虫が発生したら、気持ちが悪いからだ。
荷物は、兄からのものだった。
まったく心あたりがないまま、封を開けていく。
小さな段ボールの中に緩衝材でぐるぐる巻きにされて入れられていたのは、ずっしりと重い金属だった。
おそらくは真鍮製で、とぐろを巻いた蛇の形をしている。塗料の黒をわざと褪せさせて、下から金属の色をのぞかせたアンティーク風の造りだ。
どこかの廃れた土産物店で、開運グッズとして売られていそうな品だとまずは思った。蛇の抜け殻は金運にいいとか聞いたことがある。
貧乏な自分への嫌味だろうか。
「何だよ、これ。趣味悪っ」
つぶやいてから、カードが同封されていたことに気づいた。
「『誕生日おめでとう! 先日は会えて嬉しかった。好みに合えば幸い。毎日、俺だと思って持ち歩いてくれ』――だって、ケッ」
兄のカードをあえて声に出してバカにしたように読みあげ、悪態をついた。
「ろくでもねえな。こんなもの、好みに合うはずないだろ」
部屋の隅に投げ捨てようとしたが、重すぎるから壁や床に傷がつきそうだ。そうなったら、退去のときに問題になると思ってやめた。
それよりも、どうしてこんなものを送ってきたのか、気になる。兄が自分に誕生日祝いを送ってきたことは、今までなかったからだ。
毎日、身につけろという言葉に、意味はあるのだろうか。
――まさか、何らかの魔除け?
だが、そんなはずはない。自分は引っ越して、あの妙なものから逃れられたはずだ。
電話して、兄の真意を確かめてもよかったが、その気力もなかった。
ずっと使っていたキーケースの革がボロボロになっていたので、代わりにつなぎで使ってやることにする。それは、金具がついていたから、キーホルダーとして使える。
鍵をつけてみたところで、好みでないことに違いはない。蛇の飾り部分は、てのひらですっぽり包みこめる大きさだ。なんでこんな悪趣味なものが誕生日祝いなのか、不可解すぎる。
もしかして、まだ終わっていないのだろうか。
そうおもったら、ぞくっとした。
――だけど、まさか、な。
まさかでしかない。
引っ越してから、さらに十日ほどが過ぎる。
悠月は夜勤のバイトを続け、一般的な人の通学や通勤時間にアパートに戻るといった暮らしを続けていた。
その日もバイト明けで、外で朝食を取った後にアパートに戻る。
ふと見ると、二階の住民が階段の途中でたたずんでいる。挨拶をするかどうか悩んで、さりげなくしてみようと考え、また顔を向けてみたときに、先ほどよりも下のほうの段で足を止めていることに気づく。
自分の部屋のドアを凝視しているようだ。
彼は引っ越しのときに話をした大学生だった。
不思議に思いながら近づいていくと、人の気配に気づいたのか、彼はこちらのほうをパッと振り返った。
「何か?」
思わず、話しかける。
彼はそれにどう答えるべきか、一瞬迷ったような顔をした。だが、そのまま言ってくる。
「こないだ。……二、三日前かな。真夜中に、そこのドアの前に張りついている人がいたんですよね」
「え? どんな人?」
彼と一緒に、自分の部屋のドアを眺める。
経年劣化で錆びが浮いだ、金属製のドアだ。ドアの左にはガスメーター、右には給湯器がある。
ドアの上部は二階の通路で覆われている。アパートの周囲は簡易な壁で覆われているから、敷地内に入ってくるのは、住民か、用事のある人くらいだろう。
「暗くてよく見えなかったんですけど、……女の人、かな?」
「女? どんな? いくつぐらい?」
余計に心あたりがなかった。母はすでに亡く、身近で接する女性は同じバイトくらいだ。だが、個人的な付き合いは全くない。
「わっかんないですねー」
彼は首をひねった。
わからない、という彼の返答で、悠月はよけいにわからなかった。若いか若くないかぐらい、すぐにわかるはずではないのか。
何らかの勧誘か、公共料金の徴収などだろうか。
「その女の人が何か?」
「ええと、……すごくドアにぴたあああっっと、張りついてたように見えたんですよ。隙間なく。異様な感じがしました。だけど、……変だな」
階段を完全に下りた大学生は、悠月の部屋のドアを真横から眺めて首をひねった。
二階建てのアパートには、各階三部屋ずつある。二階への階段は、ちょうどその真ん中あたりから上り下りする形だ。
悠月の部屋は、その階段の影になった一〇一号室だ。
夜間になると、階段を斜め上から照らす街路灯が、ドアの前に薄暗がりを作る。
一階の廊下を照らす蛍光灯が、切れたままだからだ。薄暗すぎて、鍵穴が見えにくいこともある。大家か管理会社に言えば取り替えてくれるのだろうが、わざわざ連絡するのも面倒だった。それくらいならば、多少の不便のほうを我慢したほうがいい。
「変って、何が?」
「普通に立っていたら、もう少し幅というか、厚さがあるはずだと思うんですよ。だけど、やけに薄っぺらかったような」
「薄っぺら?」
「ドアに、まさに張りついてるように見えたんですよね。一体化してるぐらいに。けど、きっと見間違いっすね」
彼は言って、ぞっとしたように肩をすくめた。あまり時間がなかったのか、そこで話を打ち切って会釈し、早足で立ち去っていく。
その後ろ姿を見送ってから、悠月は自分の部屋のドアのほうに向き直った。
そのドアに、黒い女性の影が張りついていた状況を想像してみる。べったりと、厚みなく張りついている姿を。
その黒い影は、何をしていたのだろう。まさか、良くないものが自分の部屋の中に入ろうとしていたのか。
ドアの左右に置いた盛り塩が、二度も溶けていたことを思い出す。
あれは、薄っぺらな黒い女を追い出せた成果なのか、それとも、追い出せずに侵入を許してしまった結果なのか。
悠月は慌てて部屋に戻った。
もはや、盛り塩は設置していない。
薄暗い室内を見下ろす。
まさかその女は、この部屋に入りこんでいるのではないだろうか。
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