第4話 引っ越し

 気がついたときには、朝だった。

 今、自分がどこにいるのか、すぐにはわからないほど、悠月は混乱していた。

 だが、たっぷり五分は放心していた後で、悠月は布団の中で身じろいだ。

 ――夢か。

 身体がガチガチに固まっている。布団をかぶっていたのに、異様なほど身体が凍えていた。夢の中で味わわされた恐怖が、現実まで持ちこまれている。

 ふと気づいて布団を見たが、吐いたはずの胃液は残っていない。代わりにひどく喉が灼けていた。唾を飲みこむだけで、ひどく痛む。

 ――夢じゃないよな。あれは。

 悠月はそろそろと寝返りを打った。

 筋肉に不自然な力が入り続けていたのか、あちらこちらが鈍く痛い。

 ――もう無理、絶対無理。

 起きたときから、そう思った。

 さすがに懲りた。

 二度とあのようなものに遭遇したくない。

 今までも物音は聞いていたが、ついに姿まで見てしまった。もはや、この部屋で暮らすことは不可能だ。

 胸焼けもひどかった。

 明るいうちが勝負だと思って、悠月はだるい身体を無理やり起こした。喉も痛いし、悪寒もするから、熱い風呂に浸かって芯まで温まりたい。だが、それよりも優先しなければならないことがあった。

 ――引っ越そう。

 早急に。

 できれば。今日のうちに。

 悠月には何かあったときに、逃げこめるような親しい友人はいない。

 お祓いを頼もうにも、霊能者の知り合いなどいるはずがない。いたとしても、ああいうのはほとんどがインチキだという決めつけがあった。

 何より、金がない。

 心理的瑕疵ありの物件に住んだのは、そもそもそれが原因なのだ。

 だが、昨晩のことはさすがに閾値を超えた。

 ――もう無理。絶対無理。こんなところで暮らせない。

 その姿を思い出しただけで、ゾッとする。逃げ出したい気持ちのほうが強い。

 悠月はまずは必要なものを選んで、鞄に突っこんだ。財布と免許証、印鑑。アパートの契約書。それに、のど飴。不動産業者の店舗の開店時間をネットで調べ、それに合わせて店内に踏みこむ。

 前回、担当だった糸目の不動産業者は、今日もいた。あれはとんでもない瑕疵物件だと文句を言いたいが、そもそもそれを承知で借りていたのだと思い直し、ぐっと腹の中に収める。

 早急に新しいアパートを紹介してもらいたい。

 だが、その理由について説明したら、おかしくなったと思われそうだったから、黙っておくことにする。

 息も整わないまま、糸目の不動産業者に、自分の要望をまずは伝えた。

「引っ越したいんです! できれば同じぐらいの家賃で! ……近くがいいです。できれば、三万円以下で」

 今住んでいるアパートから出来るだけ遠ざかりたいのだが、バイト先までは変わりたくない。

 だが、ふと気づいて付け足した。

「ですけど、……近すぎるところは避けて。ええと、具体的には、五分くらい離れているところがいいです」

 声がひどくかすれていた。

 近すぎたら、昨夜見たものから逃げられない気がする。

 アレがどこまで移動できるのかわからないが、二度と現れることのない距離までは離れたい。

「なるほど。……まぁ、一ヶ月、ですか。持ったほうですね」

 不動産業者はひとりごちるように言ってから、壁のカレンダーから視線をそらせた。

 それから、立ち上がって棚からファイルを取り出す。テーブルに、そのファイルから抜いたチラシを一枚だけ置いた。

 ――持ったほう?

 その言い方が引っかかる。だが、それについて問いただすよりも先に、新しい物件のほうに意識が向いた。

 悠月はそのチラシを食い入るようにながめた。

「三万円以下の物件は、さすがにこのあたりでは滅多にありません。ここは築五十年を越えておりますが、リフォームが入っているので、綺麗です。礼金不要、保証人不要、敷金一ヶ月、ガスコンロ二口対応です。ただし、洗濯機外置き。こちらを三万円でいかがですか」

 築五十年にビックリしたが、背に腹は代えられない。

 今のところよりも五千円高くなるが、それくらいなら払えるはずだ。

「こちらも、事故物件ですか?」

 おそるおそる聞いてみた。さすがにまた、怖い体験をするのは耐え難い。安心して眠りたい。怖い体験をしたいわけではない。

 不動産業者に向けた目が、ひどくおびえきっているのが自分でも自覚できた。

 身体に不自然な力が入ったままだ。小刻みに手が震えているのに気づいて、ぐっと拳を握って、止めようとする。

 不動産業者の表情は、まるで変わらないままだった。

「いえ、こちらは単に、築年数が経っているだけのアパートです」

「本当に?」

「世の中には、どれほどの事故物件でも、大丈夫って人が、稀にいるのです。あなたもそうかと思いましたが、どうやら違うようですね。風呂トイレがついて、これだけのお家賃はお値打ちだと思いますが」

「で、……でしたら、これに決めます!」

 せわしなく、悠月は何度もうなずいた。

 すぐにでも契約したがる悠月を押しとどめ、彼はまず下見に行こうと誘った。とにかく早く物件を決めたくてうなずくと、営業車に乗せてくれる。

 そのアパートに向かう最中に、悠月はハッと気づいて口走った。

「そういえば、すぐ! すぐに引っ越せないとダメなんです。今日にでも引っ越せる物件でなければ」

 その条件を伝えていなかったことに気づく。

 前回は不動産業者に舐められまいと、やたらと気を張っていた。

 安すぎる家賃を求めることで、底辺の人間として扱われそうな不安があったからだ。

 だが、今回は藁にでもすがりたい気持ちになっていた。どうにかして、新しい住まいを見つけなければならない、早急に、格安で。

 運転をしていた彼は信号で車を止め、悠月を見た。

 その目が綺麗な半円を描き、口角がニイッとつり上がる。三十代ぐらいに見えていたが、肌がつるんとしていたから、もしかしたら自分とあまり年は変わらないのかもしれない。人を化かすときの狐は、おそらくこんな顔をしているに違いない。

 だが今の悠月に、笑われたことを不快に思うだけの余裕はなかった。

「大丈夫です。すぐに入れます。現在、空いておりますから」

「本当ですか! ありがとうございます、ありがとうございます」

 悠月はぺこぺこと頭を下げた。

 昨夜見たものから逃れられるのだったら、もう何でもいい。

 とにかく引っ越して、心の安定が欲しかった。




 下見して、その三万円ポッキリの物件が、予測していたよりもずっと綺麗だと確認するなり、悠月は契約書にサインした。

 借りたのは、同じく二階建ての、築年数を経たアパートの一階の部屋だ。

 似たようなアパートでも、こちらのほうがずっと日当たりがいいように感じられた。

 ――大丈夫だ。これで逃れられる。

 悠月はそう自分に言い聞かせ、心底安堵を感じながら、元のアパートまで戻った。昼の十二時を少し回ったところだが、すでに新居の鍵はポケットにある。

 すぐさま新居に荷物を運びこみ、元のアパートとは縁を切りたかったが、月末までは解約できないらしい。

 続けての引っ越しで金もない。

 家具は大してなかったものの、冷蔵庫や本棚などはさすがに一人では運べないことに困った。以前の引っ越しは、同じバイト先にいた鈴木に手伝ってもらった。さして親しくはなかったから、バイト代を払うということで来てもらったのだ。

 だが、彼はすでにバイトを辞めている。SNSで一応はつながってはいたが、関西に引っ越しているから呼び出すことはできない。

 他に頼れる友人や、知人など一人もいなかった。

 ――兄ちゃんに、……頼むか。

 そう思っただけで、自然と深いため息が漏れる。

 兄と連絡を取るのは億劫だが、朝から引っ越しのためにテンション高く動いた今なら、勢いで頼めるはずだ。

 今日は金曜日で、土日に引っ越しを済ませたい。兄にそのどちらかでも、手伝って欲しかった。

 ――ま、無理だったらいいけど?

 兄には複雑な思いを抱えている。

 何かと自分にかまいたがるのが、鬱陶しい。コンビニバイトでどうにかカツカツに暮らしている負け犬の状態で、顔を合わせたい相手ではないのだ。

 幼いころから何かと自分を矯正しようとする兄のことが腹立たしくてたまらず、いつか自分のほうが成功者となって、這いつくばらせてやりたい、と野望を抱いたこともあった。

 そんな兄に頼るのは腹立たしかったが、さすがに冷蔵庫や洗濯機は一人では運べない。転勤をすることになったOBから大学時代に譲られたファミリー用の品で、一人暮らし用のサイズではないのだ。

 新しいものを買う余裕など、悠月にはない。

 それらを運ぶのにはどうしても男手が必要だとあきらめて、兄に電話してみる。

 何回かコール音を聞いた後で、不意に途切れた。

『悠月? 久しぶり――』

 兄の弾んだ声を聞くなり、ガチャ切りしたくなる。

 この兄の存在自体が、悠月の神経をいたく逆撫でした。

 幼いころは仲が良かったはずだが、成長するにつけ、この出来のいい兄の存在が悠月のコンプレックスを刺激するようになった。

 一緒にいると劣等感が掻き立てられる。ざわりとした不快感が、背筋を伝った。

「どうも、久しぶり」

 ぶっきらぼうに、悠月は応じた。

 兄は昔から、過保護で心配性だ。生まれたばかりの悠月を見たときに『ぼくが一生守ろう』と誓ったのだと、何度も話してきた。

 両親が亡くなったことで、その病気はことさら悪化したように思える。どんなに冷ややかに突き放したところで、懲りることなく悠月にかまってくるのはおかしい。

 その甘やかしが、自分の優位を確信したものに思えてならなかった。だから悠月のほうからは、極力連絡を取らずにいたのだ。

 それでも、兄から正月はどうするんだとか、元気かとか、叔父が作った米を送るとか、何かとメッセージがくる。

 返信しなくとも、勝手に品物も送られてきた。

 悠月が返信するのは、その必要があるときだけだ。だから、両親の法事のときぐらいしか、顔を合わせることはない。

 だが、今は兄を避ける気持ちよりも、得体の知れないものに対する恐怖のほうが大きかった。とにかく、今すぐに引っ越しがしたい。このアパートから逃れたい。

 兄は自分の頼みごとなら断らないことを知っていた。仕事でどれだけ忙しかろうが、どうにか都合をつけてくれるはずだ。だから、当然のように言ってみる。

「引っ越しするから、手伝ってくれるかな」

「引っ越し? ああ、前のところからか?」

 今の物件に引っ越す前の住所を言われる。

 ブラック企業で潰れてから、兄はことさら自分を心配してくれていたようだ。

 金の心配もされたし、必要があったら仕送りもする、とも言われた。やたらとうるさいので、コンビニバイトを始めた、とまでは伝えてある。

 悠月はぶっきらぼうに答えた。

「そこじゃないよ。もっと安い物件に引っ越したんだ。だけど、格安物件はさすがに不都合があったから、一ヶ月で引っ越すことにした。大した荷物はないんだけど、冷蔵庫とかを運ぶのは一人では無理だから、明日か明後日、空いてないかと思って」

 ダメならそれでいい。

 悠月のことを第一に考えている、なんて言うくせに、こういうときに自分を優先してくれないんだな、と兄を糾弾して電話を切ろうと構えていたが、兄の声はぱああっと明るくなった。

「いいよ! 明日か明後日? 久しぶりに会えるな。引っ越すって、何かあった? 俺に紹介したい人とかいる?」

 ――紹介したい人?

 一瞬、何のことかとぽかんとしたが、恋人ができたと勘違いしているのだと思い当たった。恋人と同棲するために引っ越すと、考えたのだろうか。

 そんな可能性は欠片もないと伝えるために、悠月はことさら不機嫌な声を出した。

「今のアパートは、二万五千円という底辺格安物件なわけ。それだけあって、何かとヤバかったんだ。ま、次に移るのも、格安物件なんだけどね。今いるところより、多少はマシなはず」

 こんなふうに言っておけば、ヤバいというのが虫や騒音、隣人トラブルなどと勝手に解釈してくれるはずだ。

 予想通り、人のいい兄は勝手に納得してくれる。

「そうかぁ。大変だったんだな。……明日の土曜日なら時間取れる。何時に行けばいい?」

 あっさり了承されたことに、悠月のほうが驚いた。

「暇なの?」

「暇じゃないが、可愛い悠月のためなら」

 兄の声は、限りなく甘ったるくなる。それが気持ち悪くて、耳からスマートフォンを外したくなった。

「――朝の九時ぐらいに来て欲しいんだけど」

「もちろん。もっと早くてもいいぐらいだ」

 声が弾んでいる。

 にっこりと楽しげに笑う兄のハンサムな表情まで、リアルに想像できた。

「バイトがあるから、九時でいい。来てほしいところの住所は、ラインで送る」

「わかった。車は必要か? 手袋とか持っていくけど、他に何か、必要なものは?」

「軽トラはこっちで借りる。引っ越しに必要なものは、全部、こっちにある。引っ越し先は、元のアパートから徒歩十五分ぐらいの近場。そんなに荷物はないし、さして時間はかからないと思う。あ、でも本とかはごちゃごちゃあるかな」

 前回の引っ越しのときに、軽トラで三往復したことを思い出す。大学時代から暮らしているだけあって、どうでもいい荷物がたまっているのだ。

「わかった。じゃあ、明日、な。久しぶりに会えるのが嬉しいよ。連絡してくれて、ありがとう」

 とろりと語尾が甘く溶けた兄の声に嫌悪の鳥肌を立てながら、悠月はひどくしぶい顔で電話を切った。

「相変わらずだ」

 思わず、声に出してひとりごちる。

 両親が亡くなってから、兄の過保護っぷりに磨きがかかった。とっくに成人した大人同士なのだから、もっとドライな関係でいいはずなのに。

 だが、こんな兄の存在が、心のどこかで支えとなっていたのは確かだ。いざとなれば、兄が助けてくれる。自分が死んだら兄は嘆き悲しむだろうから、できるかぎり生きよう。

 なのに、顔を合わせると素直にふるまえない。

 一ヶ月で引っ越しをする理由について、突っこんで聞かれなかったのが不思議でもあった。

 明日会ったときに聞けばいいと、思っているのだろうか。

 久しぶりに兄と話したことで、よけいな気負いが消えた。

 兄は昔から地元では有名な天才児で、両親の死の前に大学進学で上京し、そのまま国立の有名大学を卒業している。

 その兄が、いきなり警視庁に就職を決めたと聞いたときには驚いた。

 今は刑事をしているらしいが、その仕事の具体的な内容については守秘義務があると言って説明してくれない。いつでもはぐらかされてばかりだ。

 兄のことについて、悠月は驚くほど何も知らない。どれだけ無愛想に対応しても、あちらからは快活に話しかけてくるし、何かと近況を聞き出したがる。だが、兄自身のことについてはあまり話さない。

 ともあれ、明日の引っ越しの人手は確保できた。

 これから夜勤バイトに入る。夜の十時から朝の八時までだ。

 近くのレンタカー会社に軽トラがあるかだけ、ネットで確認して予約を入れておくことにした。

 ほとんどあのアパートには帰宅せずに、おさらばできるはずだ。



 深夜帯は客が少ない。

 その代わりに、コンビニではやっておくべき仕事は山積みだ。深夜の二時から夜の六時までは、ワンオペとなった。

 レジを無人レジ対応にして、次々と搬入される商品を確認しては品出しをしたり、掃除をしたりと、雑多な仕事がある。

 以前の悠月は店内に客もおらず、一人でいる時間を好んでいたのだったが、アレを見てしまってからは、一人になるのが怖かった。

 コンビニは深夜であっても、煌々とした光に満たされている。その対比もあって、コンビニのガラスの向こうにある暗闇をことさら意識せずにはいられない。特に気になったのは、アレが出現する午前の二時から三時にかけてだ。

 誰もいない店の隅に黒いアレの影を見たような気がして、ハッとして見直したことも一度や二度ではない。

 客が来るたびに、少しだけホッとした気分になれた。

 少しずつ時間が過ぎ、朝となる。十二月になったばかりのこの時期だから、周囲がすっかり明るくなるのは朝の七時を待たなければならない。それでも、朝の六時になれば、朝番のバイトの女性がやってきてくれたから、助かった。

 ほとんど話さないバイトであっても、もう一人いるだけで安心する。

 朝番のシフトに入っていたのは、大塚という女性だった。大学生らしいが、プライベートなことはほとんど話さないのでわからない。

 大声で声出しをするし、キャピキャピとした声の響きから、おそらくは明るい性格だろう。彼氏との旅行がしたいので、最近はシフトを増やしているのだと、店長と話しているのを聞いたことがあった。

 ともあれ、一時間重なって朝の七時になったら、悠月のシフトは終わりだ。

 それから、兄と待ち合わせている朝の九時まで軽トラを借りたり、朝食を食べたり、休憩したりするつもりだった。

「じゃあ、俺はちょっと、ゴミの整理をしてくるから」

 一人来てくれたから、店にずっといないですむ。そう言い残して、悠月は店の裏手に回った。

 まだ周囲は暗いが、空はしらじらと明るくなり始めている。

 ゴミの整理を終えてからまた店に戻ると、怒鳴り声が聞こえてきた。

「おでんがないって、どういうことだよ……!」

 徹夜明けらしい疲れ切ったようすのスーツ姿の中年男が、レジの前にいた。トラブルかと思って、悠月は慌ててレジの中に入る。

 立ちすくんでいた大塚をかばうように、声をかけた。

「何か、ございましたか」

「おでんがないってどういうことだって、聞いているんだよ。わざわざ買いに来たのに」

 悠月はちらりと、おでんの鍋に視線を向けた。

 今は午前六時半だ。

 一般的におでんの販売は、午前十時から午後八時ごろとなる。二十四時間、おでんを提供しているわけではない。朝早くから、おでんを食べたい人というのはほとんどいないからだ。

 おでんの鍋は、綺麗に清掃してあった。これも、悠月の仕事だ。

 男の声が途切れたときに、悠月は声を挟んだ。

「申し訳ございませんでした。おでんの提供時間は――」

 説明する。

 クレームはそれなりに多かった。レジの順番を抜かされたとか、接客態度が悪いとか、箸などが入っていなかった、というような内容だ。

 バイトを始めた当初は、理不尽なクレームに腹が立った。だが、ブラック企業勤務で理不尽には慣れていたし、とにかく謝ったほうが早くすむ。そう悟りを開いてからは、言い返したい気持ちを抑えて、淡々と謝罪出来るようになっていた。腹の中では、客への殺意を抱えていても。

「申し訳ございませんでした」

 最後に深々と、大仰なくらい頭を下げると、横で大塚も頭を下げていた。

 普段ならこれで収まるのだが、今日の客は粘着質だった。よっぽど鬱憤でもたまっていたのだろうか。夜中呑んでもいたらしく、饐えたアルコールの匂いが漂ってくる。どんどん声のトーンが上がっていく。

 ――うるせえな。

 悠月はイラッとした。

 増長する客は大嫌いだ。

 客は昼間の常連らしく、ここは品揃えがなっていないとか、バイトの態度が悪いとか、どうでもいいことにグチグチと文句をつけ始めた。

「聞いてンのか! ぇえ?」

 わめき散らす大声が、悠月の怒りに火をつけた。

 恫喝が耳に届くたびにこめかみが痛み、その痛みがドクンドクンと脈動に合わせて膨れ上がる。

 何度目かに怒鳴りつけられたとき、悠月のこめかみのあたりで、何かがぷつっと切れる気配があった。自分の中から何かが飛び出して、ぶわっと膨れ上がる。

 意識が一気に拡散する。

 自分がいるコンビニ店内いっぱいに、視界が広がったようだった。見えるものがモノクロになり、視点が天井近くに移動して、陳列棚を睥睨している形となる。

 初めてのその感覚に何が起きたのかわからず、悠月は目眩を覚えてふらついた。頭を下げ続けていたせいもあって、レジの台に顔をごつんとぶつける。

「うわっ」

 さして痛くはなかったが、自分でその衝撃に驚いて顔を上げた。

 だが、そのとき目が合った客は、途轍もない驚愕の表情を浮かべていた。

「え」

「あ、いや、……いいんだ、もういい」

 それだけ言い捨てて、客はうろたえて店から飛び出していく。顔色が青ざめているようにも見えた。

 おでんだけが目当てだったのか、買い物もしなかった。

 その姿が消えた後で、大塚が怖々と声をかけてきた。

「大丈夫ですか?」

「……ン……、大丈夫」

 何だかバツが悪い。

 何だかわからない立ちくらみは続いていて、頭が少しクラクラしている。視界が、いつもよりも暗く感じられた。

 だが、暗く感じられたのは悠月だけではないらしい。コンビニの天井を振り仰ぐと、大塚も不思議そうに上を見た。

「なんか、暗いですね?」

「すまないけど、――少しだけ、休ませてくれる?」

 もうじきシフト終了だが、こんなにふらついていたら危ない。体調不良から回復したつもりだったが、呼吸が浅くなっていて、しっかりと空気が吸いこめていない感覚があった。

「あ、はい。お大事に! ……その、あの、……今のって」

「今の?」

 何を指しているのか、よくわからない。

 だが、そのとき、客が入ってきた。

 いらっしゃいませ、と大きく声を発した大塚は、悠月に向けて深く頭を下げた。

「いえ、……その、ありがとうございました」

 礼を言われて、悠月は少しだけ照れて笑った。客に不審に思われないように、うつむいてレジの裏に回りこんだ。

 もっと格好よくクレームから助けてあげたかった、だが、まずは頭を下げたほうが面倒がないと知っているから、無様な解決法しか選べなかった。

 バックヤードにある椅子に深く腰掛け、目を閉じる。身体が地面の底まで沈んでいきそうなほど重く感じられた。

 さきほどの奇妙な感じが引っかかっている。

 薄暗闇と、天井からの俯瞰。

 それに、客が驚愕した表情も気にかかる。大塚も何かに怯えているようだった。

 だが、何かが起きたわけではないだろう。単に自分がレジに顔をぶつけて、ふらついただけだ。

 店内の様子は、置かれたモニターで見守ることができた。必要があったら応援に行こうと思いながら、悠月はゆっくりとした呼吸を繰り返し、落ち着こうとしていた。

 漠然とした不安がある。

 何か得体の知れないものが、自分の周囲に現れて、生活を脅かしているような。

 だけど、何かが起きたというわけではない。引っ越すのも、自分がありもしない幻覚に怯えて、過剰に反応した結果に過ぎない。

 ――だけど、引っ越さないと精神状態が悪化するから。

 気休めでいい。

 引っ越しさえすれば、きっとあの恐ろしい悪夢から逃れられるはずだ。

 不安定だった神経が休まり、安眠できればそれで――。




 その後、大塚とはほとんど話もしなかった。午前七時にやってきたもう一人のバイトに仕事を引き継ぎ、牛丼屋で朝食を取ってから車のリース店に寄り、予約した軽トラを借りる。

 それに乗って、アパートに向かった。

 悠月の家財道具は、布団に冷蔵庫、洗濯機。テレビに、録画機材。本棚とそこに詰まっている本がぎっしりと、勉強机とクロゼット。

 これに、ちゃぶ台、パソコンが加わる。もう勉強机などは処分し、大学時代の本なども捨ててしまってかまわなかったが、そうするのも億劫で、前回の引っ越しのときにそのまま持ってきたのだ。

 できるだけ身軽になりたいから、これから少しずつ処分していこう。

 そんなことを考えながらアパートの前の路上に軽トラを停めると、ちょうど到着したところだったのか、兄の皓月がひょこりと出てきて、大きく手を挙げた。

「や」

 楽しげに挨拶してくる。

 驚くほど満面の笑みだ。

 会うのは法事のときばかりだから、そのときのスーツ姿しか印象がなかったが、今日は引っ越しの手伝いということもあって、カジュアルなジャケットにパンツ姿だ。それに、紺のバックパックを背負っている。

 やたらと顔立ちが整っているから、眼鏡が嫌味なほどよく似合った。

 三歳違うから中学高校はかち合わなかったが、地元の進学校では、やたらと皓月と比較された。だが、皓月とは違って平凡だと、失望されるまでがワンセットだ。

 そろそろバイトではなくてちゃんとしたところに就職しろと、説教じみたことを言われるのかと気にかかる。それとも過剰に気遣われて、金の心配までされるのだろうか。

 だが、皓月は笑顔を崩さない。

「呼んでくれてありがとう。元気にしていたか? バイトはどんな感じ? コンビニは何かと覚えることが多くて大変だろ」

 いつもの悠月はむっつりとして皓月の質問にあまり答えないのだが、さすがに今日は自分から手伝いを頼んでいる。だから仕方なく、つっけんどんに答えた。

「バイトは、ほとんど夜勤。時給がいいから。最近ではだいぶシフトを増やしたから、生活には困っていない」

 おまえからの援助は必要ないと、言外に伝えておく。

 だが、そんな意図も伝わらないのか、皓月はニコニコ顔だ。

「生活が安定したのはよかったな。バイトもいいけど、たまに休みも取れよ。おまえは真面目で、働きすぎるからな」

 ――真面目すぎて、働きすぎ?

 皓月からのそんな評価に驚いた。

 ブラック企業でつぶれるような弟など、社会人失格と思っていたのではないのか。

 ポカンとしている間に兄は悠月から部屋番号を聞き出し、鍵を受け取って玄関のドアを開けた。

 だが、玄関に踏みこもうとした途端、その動きが、ピタリと止まった。

 ――あれ?

 玄関に何か不審なものでも置いてあったのかと、悠月は固まった兄の身体越しに室内を見回した。

 半分しか閉じていないカーテン。乱雑に置かれた段ボール。

 室内は今日も薄暗く、洞窟めいた雰囲気がある。

 それでも、特に変わったところがあるわけではない。夜にこの部屋で眠れば嫌な夢を見るものの、昼間なら何の変哲もない部屋だ。

 それでも不安を覚えて鼓動が自然と速く刻むようになったとき、皓月のつぶやきが聞こえた。

「あ……。これは、仕方ないか」

 ――仕方ない?

 どういう意味なのか、わからない。

「どういうことだよ?」

 尋ねると、兄は靴を脱いで中に上がりこんだ。昼間でも薄暗いから、電気をつける。

 悠月も続けて上がりこみ、コンビニから追加で運んできた段ボールを床に置いた。

「いや。ここはとても日当たりが悪いから、引っ越したほうが健康にいいってだけの話」

 それだけで、さらっと流される。

 引っ越してから、まだ一ヶ月しか経っていなかった。だから、前の部屋から引っ越したときの段ボールは大半が手つかずだ。荷物を出した後の段ボールも処分してなかったから、そのずぼらさが役に立つ。

 新しくコンビニから運んできた段ボールと、残っていた段ボールを引き出して組み立て、荷物を片っ端から段ボールに詰めこめばそれで終わりだ。表に止めた軽トラが駐禁扱いされないうちに、荷物を運び出したい。

 ――捨てるものと、運ぶものを仕分けしておきたかったけど、無理かな。

 悠月は早々にあきらめることにした。とにかく一旦全部運んでおいて、新居から少しずつ捨てていけばいい。開封していない段ボールをここで開けて仕分けするのは、億劫すぎる。

 作業をしながらも先ほどの兄の態度が気になったので、悠月はあらためて室内を見回した。

 ――この部屋にどこか、気になるところがあるのかな?

 昼間に、あの怖いものが現れることはない。

 悠月には夜に現れるものが何なのか、まるでわかっていなかった。悪夢なのか、現実なのかさえ、定かではない。だが、そんなものに怯えて逃げ出す自分に、苦笑だけが漏れる。

 ――幻聴や幻覚だったとしたら、俺はヤバい精神の状態に踏みこんでいるってこと?

 悠月は一度も、医師に精神の状態を見てもらったことがない。一度自殺しそうになったときにクリニックに電話したことがあったのだが、予約が取れるのは早くても半月先だと言われて、失望して電話を切った。

 仕事を辞めたことで自力で回復したという自覚があるから、今さらすがろうとも思っていない。それでも、また以前のような精神状態になるのは遠慮したかった。

 ――兄ちゃんは、幽霊とか、そういうの見たことあるのかな?

 荷造りをしながら、つらつらと考える。

 皓月とは霊感とか、その類の話を本気でしたことはない。

 子供のころ、テレビの心霊番組ならよく一緒に観た。震え上がる悠月とは対照的に、皓月は『あんなものはいくらでも合成で作れる』と、眼鏡を光らせて平然と構えていた。

 ――どうしよう? 兄ちゃんに話すか? この部屋で俺が、怖いものを見たってこと。

 誰かに話して、笑い飛ばしたい気持ちがある。

 だが、ブラック企業勤務でつぶれて、いたく心配させたことはわかっていた。精神病が悪化したのかと、よけいな心配をされたくない。

 悠月が段ボールを作成させて渡すと、皓月がそこに片っ端から荷物を詰めこんでいく。

 皓月の作業は正確で、たたみ直した服の角が驚くほどビシッとしていた。すぼらだけど部分的に神経質なところもある悠月であっても、文句がつけられないほどだ。

 皓月がどれをどのように軽トラに積んだら最低限の往復で済むのかを計算し、その通りに作業を進めていく。

 二回の往復で、引っ越しは終わりそうだった。

 一回目の移動で大物の家具を移動させ、二回目に残りの荷物を積みこむ。

 最後に部屋の掃除をしながら、忘れ物がないかどうか、確認する作業となった。

 冬の日は早い。午後五時頃には、だいぶ薄暗くなる。だが、昼食休憩もせずに作業に没頭したのがよかったのか、まだ日がある時間に終わりそうだった。

 これで、ようやくこのアパートと縁が切れる。

 そう思うと、床磨きをしながら、ふう、と安堵の息が漏れた。

「立ち会いは?」

 シンクを洗いながら、ふと皓月が尋ねてきた。

 引っ越しのときには、最後に室内の傷や損傷などをチェックして、敷金をどれだけ戻すなどの交渉をするのが一般的だ。

 だが、それに悠月は首を振った。

「立ち会いは必要ないって。そもそも、敷金も礼金も払ってないし」

「え?」

「ここは、今月末まで借りてるんだ。その期日までに、鍵さえ戻しておけばいいんだって」

 そんなふうに、不動産業者に言われていた。

 今、思い出してみれば、最初にここに自分を案内したときの不動産業者の態度もおかしかったように思える。

 中に入りたがらなかったし、退去のときも確認にすらこない。事故物件だということは最初に説明されていたが、それ以上に何かあるのだろうか。

 ――そういえば、以前に何人か住んでるって言ってたよな? 自殺があったのは、三年前までいかないぐらい。

 賃貸は二年更新が多い。よっぽどのことがなければ、二年は住む。だが、三年足らずの間に複数の人が住んだのだとしたら、短いスパンで住民が入れ替わったということになる。

 ――みんなあの足音とか、影を見たのか?

 だが、そもそも無理に事故物件を借りた自分が悪い。

 これからの生涯、いくら金に困ろうとも、事故物件だけは避けようと、心に決めた。

「じゃあ、俺はバスルームの掃除をするから。おまえは和室な」

 そう言って、兄が掃除道具をつかんで姿を消す。悠月はうなずいて、箒を手に奥の部屋に向かった。

 掃除機は持っていない。狭い部屋だから、箒とちりとりで十分だ。

 ざっと畳の上を掃き清め、埃を集めてゴミ袋に空ける。畳以外のところの拭き掃除もしようと、ウエットシートを手に取った。

 荷物がなくなった室内では、ことさら二つだけ新しい畳が目立つ。それと、その前にある新品のクロゼットが。

 悠月は畳の上に座りこんだまま、クロゼットを見上げた。

 この前で、彼女は首を吊ったという。どんな姿でこと切れていたのだろうか。あの恐ろしい影には、首がなかった。首はどこにいったのか。

 誰にも発見されないまま、身体は腐り、畳まで体液が染み出して――。

 そこまで脳裏に浮かんだ悠月は、ゾッとして首を振った。

 ――思い出すな。

 これで、あの恐ろしいものとは縁が切れる。引っ越し先までついてくることはないはずだ。

 このクロセットは、結局最後まで使わないままだった。

 だが退去する前に一度、開けてみようという気になった。

 どうして、そんな気になったのかわからない。不思議とその中にあるものを見てみたくてたまらない。おそらくは白木剥き出しか、中が白く塗装されて、横にハンガーをかけるためのポールがあるだけの、ごくあたり前の中身があるだけだ。

 だけど、そこに何もないことを、確認したい。

 いくら明るい昼間であっても、室内は薄暗かった。窓のカーテンが外され、窓ガラスが剥き出しになっているというのに、それでも暗い。

 立ち上がって真新しい畳を踏み、クロゼットに近づいていっただけで、ぞわぞわと鳥肌が立った。

 あの怖いものを見てしまったときの恐怖を、身体が覚えている。肩に力が入り、息が浅くなる。

 そのとき、腐臭が鼻孔の奥で蘇ったような気がした。この場に染みこんだ腐臭が漂っているだけだろうか。自分の背後に、何かが現れてはいないか。

 真新しいクロゼットだ。

 表面の扉は、とても白い。彼女がいたころから、ここは同じようなクロゼットだったのだろうか。それとも彼女の遺体の処理のための特殊清掃のときに、押し入れをクロゼットに改造したのか。

 どちらなのか知るすべもなかったが、どちらにしても彼女はここで首を吊った。

 悠月は手を伸ばし、クロゼットの白い扉を開く。

 中は押し入れほどの広さがあった。塗装されてはいない。押し入れを思わせる腰丈の横板はなく、鈍く光るポールが横に一本、渡されていた。

 そのポールの上には横板があって、荷物などが詰めこめるようにしてあった。そこそこ良さそうな収納ではあったが、さすがに『そこで死んだ』とわかるところに、無造作に荷物を詰めこめるはずがない。

 意外なほど埃はなく、ひどくガランとしていた。

 ――頑丈そうなポールだな。

 ドアノブに紐をかけても首つりはできるそうだが、後戻りが出来ないよう、死ぬつもりならば完全に足が届かない場所を選びたい。そうでなければ、あがいて暴れて、中途半端に終わる可能性があるからだ。

 ――俺も、……考えたことがある、首つり。

 ブラック企業勤務で、身も心も疲弊していたときのことだ。とにかく何もかも億劫で、楽になりたかった。

 自殺の方法についても、眠れない長い夜に、何度も検討したことがある。

 どの方法が一番苦しまないか。どの手段が一番手軽か。死ぬための道具が手に入れやすいのはどれか。

 下手に助かって後遺症などに悩まされることはないように、一発で成功させたい。

 結果として残ったのは、やはり首つりだ。

 それをする最適な場所が、ここにある。

 悠月はそのポールから目を離せなくなっていた。

 紐をここに引っかけたなら――。

 そんな強い誘惑に引っ張られて、ぞわぞわと血が騒いだ。

 そうすれば楽になれる。

 そんな声が、耳元で聞こえたような気がした。見知らぬ人の声ではない。自分の身体から湧きだす声だ。

 死ねばこの先の煩わしいことも、全てなくなる。

 望んでいた「空白」に、

 何もない楽なところに行ける。

 そうささやく声が、心臓の鼓動をどくどくと速めていく。

 気持ちがふわっと軽くなる。不思議な解放感があった。

 ざわざわと耳を塞いでいくのは、大勢の声だ。街の雑踏の中にいるときのような、無数の人のささやき。柔らかく優しく響くその声の全てが、悠月をそそのかす。

 楽になれるよ。

 とても楽に。

 苦しみはない。

 楽しい。

 おいでよ。

 こっちに。

 ほら、

 早く早く早く――。

 全身がふわりと浮かび上がり、もっと明るくて、楽なところに行きたくなる。




「おい」

 いきなり声がかかって、悠月はハッとした。

 振り返ると、和室と板張りの部屋の境目に立っていたのは皓月だった。

 ひどく怖い顔をして、悠月の手元を見ている。眼鏡ごしのその視線をたどっていったとき、ようやく自分の手に、輪にしたナイロン紐が握られていることに気づいた。

 しかもその輪の中に、自分は今、まさに頭を突っこもうとしていたのだ。

 頭が真っ白なまま、悠月は呆然と皓月を見た。彼は厳しい顔のまま、悠月に命じた。

「それを切れ」

 言われて、悠月はボーっとしたまま、うなずいた。ポケットにハサミが入れてあるのに気づいて、ナイロン紐を切ろうとクロゼットの中に踏みこむ。

 途端に、身がすくんだ。

 濃い暗闇の中に踏みこんだような気分になったからだ。

 まだ日は暮れてはいない。早い冬の日はだいぶ傾きかけてはいたけれども、手元がわからないほどではなかったはずだ。

 手にしたナイロン紐がぼうっと白く浮かび上がって見えるだけの暗闇が悠月を包みこむ。

 その暗闇の中に、

 無数の目があった。

 それが無数の人間の頭部も伴っているような気がして、全身の毛が逆立つ。

 その闇の中にあるものと一人も目が合ってはいけない気がして、

 慌ててナイロン紐を切ってクロゼットの外に飛び出し、

 震える手で扉を閉めた。




「大丈夫か?」

 近づいてきた皓月が声をかけ、悠月の肩にそっと触れた。

 それだけでビクッと震えてしまうほど感覚が過敏になっていたが、近くにいる生身の人間の存在はありがたい。

「ここはもう終わりにしよう。そろそろ腹も減ってきたし、掃除もこれくらいで」

 悠月はうなずいて、室内を見回した。

 すでに外は夕焼けだった。そのオレンジ色の光に、室内が染まっている。

 ――そうだな。ここにもう用はない。

 夢から覚めたときのようなぼうっとした感覚が、なかなか消えない。

 それでも、この部屋と縁が切れる。

 そう思うと、気分がすっと楽になった。

 室内に残っていた掃除道具などを皓月がまとめて段ボールに詰めて、悠月の後に続く。

 玄関のドアから出たところで、ふと気づいたように皓月が言った。

「ちょっと止まれ」

「え?」

 不意に頭から振りかけられたのは、白い粉状の何かだ。塩だろうか。そうとしか思えない。料理用のものを皓月が取り分けていたのを、引っ越し準備の最中に見たことを思い出す。

 皓月は自分の身体にも、白いものを振りかけた。

「何だよ、これ」

 おそるおそる聞き返したが、皓月は軽く肩をすくめただけだった。

「これくらいじゃ、効果ないかも」

「今の何? 何か意味ある?」

 アパートの外に出て、玄関の鍵をかけている皓月の背中に話しかける。

 自分から兄に積極的に話しかけるのは、久しぶりだった。

 だが、先ほどの変事で悠月の心はぐずぐずになっていた。

 兄に対して意地を張っていたことも忘れていた。何も考えたくない。あと少しで死にそうになっていた自分を、認めたくない。

 だから、これが笑い話になるように、勤めて明るい調子で話しかけた。

「今のって塩だろ? 塩って、何の効果ある?」

「さして意味があるとは思ってないけど、おまじないぐらいには。新居までついて来られたくなかったら、新居の玄関に、盛り塩でも置いとくのがいいんじゃないかな」

「え?」

 おまじないに、盛り塩。

 悠月にとって、まったく縁の無い文化だった。

 ぞくっと、全身に悪寒が走る。

 皓月とも縁がないはずの文化だったはずだ。まったく霊とか、オカルト的なものは信じていなかったはずの皓月だというのに、どうしてそんなことを言うのか。

「どういうことだよ? 盛り塩なんか、効果ある?」

 しつこく聞き出そうとしてみたが、皓月は肩をすくめただけで答えようとはせず、軽トラのほうに向かった。

「さっさと車動かさないと、駐禁取られるぞ」

「それはマズい」

 悠月は慌てて、皓月の後を追った。

 皓月が運転席に乗りこんだので、悠月は助手席に乗りこむ。免許はあったが、あまり運転していないので、腕には自信がない。

 最初の往復のときにも、兄が運転してくれた。

 悠月は最後にアパート全体に視線を向けた。

 引っ越しまでの一ヶ月。同じアパートの住民とは、結局、誰とも顔を合わせることはなかった。

 時折、生活音が聞こえてくるし、新聞が別の部屋のドアポケットに差しこまれていて、夜には取りこまれているのを見るから、おそらく誰かが住んでいるはずだけど。

 夕日に照らされたそこは、どこにでもありそうな古いアパートにしか見えない。

 ――日があるうちは、まだいいんだけど。

 そんなふうに考える。

 だが、これから向かう引っ越し先も、内見したのは昼間だけだ。あそこも夜に見たら、嫌な感じがするのだろうか。

 そんな考えを、頭から振り払おうとした。

 ここから逃げ出しさえすれば、あの怖いものから逃れられるはずだ。あれは、ここに棲んでいる。だから、その住処から逃げ出せれば――。

 ――憑いてくるなよ。

 心の中でつぶやいた。

 それでも胸の内側に、コールタールのような恐怖がべっとりとこびりついていた。

 去り際の、あのナイロン紐。あの部屋に棲んでいた何かは、自分を引き止めようとしていたのだろうか。

「――そういえばさ」

 気になって、あえて明るい声で皓月に話しかけた。

 あの怖いものは、頭部の欠けたシルエットをしていた。

 皓月は刑事だから、首つり遺体について詳しいかもしれない。

「首つりの死体って、首はどうなるの? もげる?」

「伸びる」

 即答だった。

 運転しながら、皓月は何でもないことのように口を動かした。

「数日で発見されれば、頭部はそのままだ。ただし、発見まで時間がかかると、腐敗が始まる。首のあたりの筋肉も、当然腐る。そうなると、首と胴体をつなぐのは頸椎だけとなる。その脊椎が切れたら、一気に皮膚が伸びる。千切れた首が、地面に落ちることもある。……ろくろっ首は、首つり死体から来てるって説もあるぐらいだ」

「え」

 ゾッとした。

 あれの首はどうなっていたのだろうか。

 まさか伸びていたなんてことは――。

 兄は進行先の左右を確認してから、なめらかに続けた。

「ろくろっ首は、首が長く伸びるパターンと、頭部だけが飛ぶパターンがある。後者だと、中国の妖怪『飛頭蛮』(ひとうばん)が由来って説が一般的だな」

 なんでそんなことに詳しいんだ、とは思ったが、昔から兄はいろんなことをよく知っていた。

 ――首つりで、……首は伸びるのか。伸びた後に、もげるのか。

 自然と、自分があの夜に見たものと、部屋で自殺した女性を結びつけてしまう。

 彼女は腐って首が長く伸びるまで、放置されていたのだろうか。発見が遅れてひどい状態だった、という情報は得ていたものの、さらにその解像度が進むのが怖くて、悠月はその映像を頭から振り払おうとする。

 さらに『飛頭蛮』について話し始める皓月の話が一段落したのを見て、話題を変えた。

「腹減った。早く荷物運びこんで、メシにしよ」

 ともあれ、これで怖いものとは縁が切れるはずだ。




 新しいアパートは、築五十三年の軽量鉄骨二階建て。その古すぎるアパートの一室に、皓月と一緒に家財道具を運びこんだ。

 二回目だから、一回目ほど荷物は多くない。

 だが、本がぎっしりと詰まった段ボールが多かったおかげで、重いことは重かった。

 その作業中に、二階の住民だという大学生の男に話しかけられて、悠月は心の底から安堵した。

 ここに人の気配があることが嬉しかった。

 その大学生から、このアパートには特に心霊的な問題はないということを遠回しに聞き出し、あらためてここは訳あり物件ではないことも確認できた。

 自分が、必要以上に怯えているのがわかる。

 自分から他人と積極的に話すぐらい、日常に戻りたがっている。

 直前に前のアパートで首をつりそうになったこともあり、不思議と人恋しい気持ちが消えずにあった。他人がいれば、おそらく奇妙な現象は起こらないはずだから。

 自分が正常だと確認したいし、世界も以前と何ら変わってはいないのだと確認したい。

 安全圏に逃げ込めた、という安堵感に満たされながら段ボールを運んでいたとき、先に部屋で荷物を置いていた皓月が言った。

「この部屋は、明るいな。電車の音はうるさいけど、駅から近い。最初からここに住んでおけばよかったのに」

 そんなふうに言われて、悠月はその無神経さにイラッとした。夜勤のバイト明けだという事情もあり、寝不足で疲れもたまっていたということもあったのかもしれない。いつもの兄に対する態度が戻ってきて、ひどく尖った声で言い返した。

「俺も、住めるものなら、日当たり最高で治安もいい、ハイセンスな港区のタワマンとかに住んでみたかったけどね。苦もなくすんなり公務員になれた人とは違って、民間の、しかもブラック企業にしか就職先が見つからなかった役立たずの落ちこぼれだから、なかなか住居選びにも苦労するんだ」

 大変すぎた就職活動については、もう思い出したくもない。

 不景気に突入したタイミングでの就職活動であり、絶望を覚えるほどひたすら落ち続けた。もう自分は永遠にどこにも就職できない。社会に不必要な人間なのだと絶望しかけたときに、ようやく一件だけ内定をもらったのが、例のブラック企業だ。

 そこで三年間、心身をゴリゴリとすり減らし続けた。

 兄の就職の年は、好景気に沸いていたはずだ。いくらでも好待遇の有名企業のオファーがあったはずなのだが、どうしてそれを蹴って公務員になるのかと、皓月が叔父に質問されていたのを覚えている。

「何だったら、俺と一緒に住むか? 生活費も出すし」

 嫌味混じりに言った港区のタワマンとは、皓月の住まいだ。かつて一度だけ行ったことがあった。大学進学と生活費に親の資産を使った悠月とは違って、皓月はその遺産を上手に運用したらしい。

 住環境の整った、上級な住まいだった。

 周囲の飲食店のメニューも、スーパーで陳列されていた品も何もかも高くて、こんなところに住めるか、と反感を抱いたことを思い出す。

 だが、無神経なところがある皓月は、むしろ嬉しそうに笑った。

「ざけんな……! タワマンになんか、住めるかよ!」

 兄の優しさは、いつでも悠月を惨めな気分にさせる。

 何度もひどい言葉で皓月をなじったはずだが、どんな態度で接しても兄は決してへこたれることはない。

 そんな態度がますます悠月を意固地にさせていると、気づいていないのだろうか。

「俺はおまえからのお恵みを、受けたくはないからな!」

 遺産は綺麗に二等分した。悠月は自分の分をすっかり使い果たした。

 だから、兄に助けられる筋合いはない。大きな借りを作るのは、プライドが許さない。

 皓月はあからさまに、ガッカリした顔をした。

「そうか。おまえと住んだら、毎日、楽しくなると思ったんだが。俺は料理が下手だから、そのあたりを分担してくれたら助かるし」

 そう言ってうなだれる皓月を見ていると、悠月はよけいにイラっととする。

 ぎこちない空気が漂う中で、室内の大きな家具だけ動かすのを手伝ってもらって、これで引っ越し作業を切り上げようとした。

 軽トラを返すついでに、国道沿いのファミレスに行きたい。ひどく空腹だっ。

 それを言い出そうとしたとき、皓月のスマートフォンが鳴った。

 急な仕事の用件だったらしく、皓月は電話を切るなり、「すまないけど、また今度」と言って、慌ただしくドアから去ってしまう。

 悠月は黙って、その姿を見送るしかなかった。

 謝ることも、手伝ってくれた礼も、まともに言うことができない。

 皓月はいつもそうだ。その世慣れた態度が悠月の劣等感を煽りたて、大人げない態度にさせるのを、自覚していないのだろうか。兄に対する怒りと感謝が、胸の中で幾層にも折り重なっていく。

 純粋に嫌いだと切り捨てられれば楽なのに、そうはさせない皓月の態度にむしゃくしゃした。

 悠月は混乱しながらも、引っ越しの荷物をさらに片付ける。

 空腹は強く感じていたが、今は腹の中のむしゃくしゃを落ち着かせるほうが先だ。

 ひたすら無心になって作業を続けた後で、手元も見定めにくくなるほど室内が闇に沈んでいることに気づく。

 慌てて、兄と一緒に取りつけた照明器具の灯りをつけた。薄暗いのは苦手だ。あんなものを見てしまった後では、特に。

 灯りをつければ安心できるはずだったのに、逆に薄暗さが強調されたような気がした。

 この照明は、こんなにも暗かっただろうか。

 安心できるだけの明るさは室内に満ちることなく、窓ガラスで切り取られた外の暗闇の重さが気になるほどだ。

 悠月はぼんやりと、外を見た。

 窓ガラスが鏡のようになっている。

 その窓ガラスに映りこんだ室内を見ていると、自分以外の何かがいるのを見つけてしまいそうな不安があって、ぎこちなく視線をそらした。

 ――……まずはカーテンだな。

 後回しにしていたカーテンを段ボールの中から探して取り出し、それをせっせと取りつけていく。

 夜勤バイトがメインだから昼間は寝ていることが多く、眩しいから遮光カーテンを使っていた。だが、今は遮光カーテンで完全に光を遮ってしまうと、昼間でも室内に闇を作り出してしまいそうで怖くもある。

 その作業をしているうちに、我慢しきれないほどの空腹感が襲いかかった。昼食も後回しにして、ずっと作業をしていた。だが、それでも出来ないうちに帰られた。

 今夜は引っ越しを手伝ってくれた皓月に、お礼を兼ねて簡単な夕食ぐらい奢ろうと思っていたのに。

 ――あいつは、いつもそう。

 兄はいつでも、一方的に罪悪感を植えつける。負債ばかりがたまっていく。いつか、この山盛りの負債を、のしをつけて一気に叩き返したいのに、その機会はいっこうに訪れない。

 皓月が苦境に立たされたとき、自分は颯爽と現れて兄を救うことができるだろうか。

 だが、皓月がそうなる状況など想像できないし、今の自分では皓月を救う能力も財力もない。まずは、自分自身をどうにかしなければならない。

「ふう」

 深いため息を一つついて、悠月は立ち上がった。軽トラを返却する必要もあったので、それも兼ねてアパートを出ることにする。

 だが、アパートを出る前に一つだけやっておいた。

 醤油皿に塩をこんもりと盛り、玄関のドアの左右に置く。

 あれに新居までついて来られたくなかったら、玄関に盛り塩を置いておくのがいいんじゃないかな、と兄に言われていたし、塩を撒かれたことも気になっていた。

 そんなおまじないでも実行せずにはいられないほど、自分が怯えているのだと思い知らされる。

 ――単なる気休めだけど。

 自分に言い訳しておく。

 幽霊など信じていない。ただ、そうすることで自分の精神状態が落ち着くのだから、悪化を防ぐためにあらかじめ自己暗示をかけているだけだ。

 無宗教だし、神様も幽霊も信じていないい。念のため、こうしておくに過ぎない。

 そこまで対策を取らずにはいられない自分に苦笑しながら、車を走らせる。

 ――いろいろ、兄ちゃんに聞きたいことがあったはずだけど。

 皓月が前のアパートに入ったときに、『あ……。これは、仕方ないか』と言った発言の意図について、しっかり聞いておきたかった。

 それに前のアパートを退去するときに、頭から塩を掛けられた理由についても。

 皓月はあのアパートで、何かを感じ取っていたのではないのか。悠月の部屋に夜ごと現れるあやしい存在の正体に心あたりがあるというのなら、それが二度と出ない方法についても教えてもらいたかった。

 だが何も聞けないでいるうちに、皓月は慌ただしく仕事に行ってしまった。

 ――だけど、ま、引っ越したし。

 これですっぱりアレとは縁が切れたはずだ。

 怪談などで霊障が起きるのは、そのアパートに原因があるケースがほとんどだ。

 引っ越しさえすれば、異変は起きなくなる。その代わりに、新たにそこに引っ越してきた住民に呪いが降りかかる、というのが定番だ。

 道沿いにファミレスを見つけたので、そこの駐車場に軽トラを停めた。返却までの時間的な余裕は、まだ十分にある。

 夕食どきのファミレスは賑わっていたが、待たされるほどではなく、席に案内された。

 ファミレスの中は明るく、影などは一切感じ取れない。大勢の人々の楽しげな声が悠月を包みこむ。

 悠月は席につき、目の前に置かれているメニューに視線を向けた。

 いまだにハンバーグとか、オムライスとか、そういった子供じみた料理が好きだ。それらがおいしそうに盛りつけられたメニューを見ながら、どれにしようかと考える。

 今日は引っ越し祝いも兼ねて、少し豪勢に頼んでしまおうとも思う。

 ウエイトレスが水を運んできた。

 何気なく視線を向けたとき、そのウエイトレスが自分と向かいに一つずつコップを置いたことに、戸惑った。

「あの、水、……二つ?」

 ごく当然のように水を置いた後で、ウエイトレスは悠月が指摘した内容に気づいたらしい。

 ハッとしたように向かいの空席を眺め、それから悠月を見て不思議そうに首を傾げた。

「……お二人様では」

「一人ですが」

「失礼しました」

 ウエイトレスはコップを一つ回収して、タブレットでの注文方法について説明し、席を離れていく。

 だが、悠月は向かいの空席が気になってたまらなかった。ここに、自分には見えない何かがいるのかと思うとゾッとする。

 ――だけど、……まさか、な。

 まさかでしかない。

 引っ越しをして、あのまがまがしいものとは、すっぱりと縁を切ることができたはずなのだ。

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