第3話 異変

 その部屋は、心理的瑕疵がある事故物件だ。

 事故物件については国土交通省による新指針が出ており、事案の発生からおおむね三年間、借主に告げることになったという。

 そんなふうに説明された後で、不動産業者から告知されたのは、次の通りだった。

 この部屋では二年五ヶ月前に、若い女性が和室の隅のクロゼットで首を吊った。

 発見されたときは、ひどい状態だったそうだ。

『ですが、クロゼットは新品に変えましたし、綺麗に清掃も済ませてあります。リフォームも入っておりますから』

 悠月の前にも、何人か住んでいるそうだ。

 ――だけど、これは気づくだろ?

 引っ越した後で、悠月はそのあたりをしみじみと眺めた。

 白いクローゼットに、二枚だけ新品になった畳。

 白いクローゼットは、以前は押し入れだったものだろう。リフォームが入った、という割には、そこだけすげ替えただけのように思える。どうせなら六畳間の畳全てを新しいものにするか、板張りにすればいいのに、それをしないあたりが格安物件なのだろう。

 借りたのは次の月の頭からだったが、荷物は運びこんでいいということだったので、バイトの前後にコツコツと少しずつ荷物を運びこんだ。

 重のはバイト仲間に助力を頼んで、軽トラで運びこむことにする。

 あるとき、バイト帰りに荷物を置いたときに、コンビニで買っておいた線香を焚いた。ふと気がついて、買っておいたのだ。

 幽霊など信じていないから、単なる気休めに過ぎない。とりあえず手を合わせ、この先の自分の生活が、平穏に進むようにと祈る。線香の匂いは好きだった。あまり換気していないためか、少しかび臭い部屋の空気が、心持浄化されたような気がする。

 大物の移動も済んだ後で、新しいアパートでの暮らしが始まった。

 新居はいつでも薄暗く、湿っぽい空気と相まって洞窟のようだった。いつでも新居のことを思い出すと、薄暗い印象がつきまとう。

 だが夜勤が多いせいもあり、以前のアパートでも昼間から遮光カーテンを引きっぱなしの悠月にとっては、さしたる問題はないように思えた。

 薄暗いほうが落ち着く。

 最寄り駅は変わらなかったからあまり新鮮さはなかったものの、それでも駅の東側と西側では雰囲気が違っていた。すぐそばに河川敷もあったから、そこを散歩したら心身共に健康になるかもしれない。

 だが、そんなことはかすかに頭の隅で考えただけで、一度も散歩などしないまま、だらだらと日は過ぎていく。



 室内を歩く足音が聞こえ始めたのは、入居して一週間ぐらい経ったころだろうか。

 どこかから聞こえてくる足跡で、真夜中に目が覚めることがあった。

 それでも、二階の足音だろうと、さして気にしてはいなかった。

 ぎし、ぎし、と小さく軋む音。それに混じる、畳の表面を足の裏が擦るような、密やかな足音。他の物音が聞こえない状態であったならば、聞き逃してしまうほどの物音だ。

 だが、夜勤バイトがない日にアパートで眠れば、その足音によって決まって目が醒める。時刻は、午前二時から三時の間。

 しかも、その足音がだんだんとハッキリとしてくるような気がするのだ。

 何より悠月を不安にさせたのは、その足音が二階からではなく、自分のいる室内からしているように思えてしまったからだ。

 ぎし、と木が軋む音がするのは、劣化した畳のせいだ。二枚だけ見た目は新しい畳になってはいたが、表面からは見えない畳の下や床板で劣化が進んでいるのかもしれない。

 寝室にしている和室を自分で歩いているときに、ふと気がついた。

 この音は、夜中に聞くのと全く同じではないだろうか、と。



 その足音を聞いていると、その主の姿がぽっかりと脳裏に浮かびあがってくる。

 どこからか現れ、畳の上を素足で歩いている。軽く、どちらかの足を引きずっているのかもしれない。ずず、ずずっと、何か重いものと畳が擦れる音がする。

 しかもそれは、悠月の布団の周りを、ゆっくりと歩き回っているような気がするのだ。

 ――気のせい。全部、気のせい……!

 聞こえてくるたびに悠月は浮かび上がってくる映像を脳裏から必死で搔き消そうと努力し、心を無にして眠りに落ちようとした。

 最初のうちは、それでうまくいった。

 だが、気づけば真夜中にまた、その物音によって目が醒める。起き上がって電気をつけたなら、室内に何もいないと明らかになるはずだ。

 だが、どうしてもその勇気が出ない。

 ひたすら布団の中で固まり、その何かが消えるのを待つしかない。

 怖かった。暗闇など平気だったはずなのに、自分の部屋に自分以外の何かがいる。その気配で、おかしくなりそうだ。

 ――だけど、何もいない。いるはずがない……!

 遮光カーテンで区切られた室内には闇が凝縮し、悠月の聴覚は極限まで研ぎ澄まされていた。深夜の住宅街に、このアパートはある。真夜中にこのアパートに通じる細い路地には薄暗い街路灯しかなく、住宅密集地のはずなのに、不気味な沈黙ばかりが満ちている。

 事故物件です、と不動産業者に言われたことが、脳裏をかすめた。

 だけど、全ては気のせいだ。首吊りで死んだ女性が、幽霊となって現れるはずがない。人は死んだらそれで終わりだ。想像するな。怯える必要はない。

 そんなふうに自分に言い聞かせ、いつものように心を無にして、眠りに落ちようとした。

 そんなふうにしているうちに、気づけば足音は消えて、悠月は眠りに落ちている。

 夢なのか、現実なのかも定かではない記憶が重なっていく。

 だんだんと夜、眠るのが怖くて、夜更かしするようになった。

 そうなれば、生活も乱れていく。ただでさえ夜勤と昼勤が混じっているシフトだから、生活時間がまちまちだ。

 家にいるときぐらいはゆっくりさせて欲しいのに、ぼうっとしている時間が増えた。

 もともと、部屋にいるときに大したことはしていない。一番よくするのは、無料の動画を見ることだ。それと、無課金のソシャゲ。

 寝不足が重なり、やけに全身がだるくなった。コンビニで廃棄のものばかり食べているせいかもしれない。

 ――だからこれは、幽霊のせいじゃない。

 悠月は自分に言い聞かせた。

 昼間のうちは、遮光カーテンを開くことが多くなった。あまり採光は良くないが、それでも昼間になれば、夜間の足音は気のせいだと笑い飛ばすことができる。

 あの足音はどこかから、思わぬ経路で伝わっているだけだ。事故物件だと知っているからこそ、あの足音と幽霊とを関連づけて考える。だが、いずれ理由が明らかになるはずだし、そうなれば全てを笑い飛ばせる。

 何より、引っ越したくなかった。

 この部屋は不思議と居心地がいいし、家賃も安いから、あまり働かずに生きていける。

 先のことなど考えたくはない。働くのは最低限でいい。世界の片隅に、細々と存在させてもらえたら、それだけで。

 ブラック企業で、悠月は一度完全に潰れた。

 都内のそこそこの大学に進学し、それなりに仕事もできるはずだと自負していた自分が、あんなふうに無様にぶっこわれるとは思っていなかった。

 当初はショックだったものの、すでにその段階は乗り越えた。

 今後は壊れないことだけを目標に、無理をせずにそうっと生きていければそれでいい。

 ――だから、焦るな。

 悠月は自分に言い聞かせた。

 社会の最底辺になっている自覚がある。コンビニ店員が、というわけではなく、稼いでいる金額が最低限なのだ。この状態では貯金もろくにできず、引っ越しもままならない。二万五千円よりも安い家賃のアパートなど、この周辺ではおそらく他に見当たらない。

 もっと稼げばいいのだったが、働きたくない、という気持ちのほうが強かった。深夜のコンビニバイトではろくに客と視線も合わせることもなく、ややこしい常連客もいない。シフトも一人が多いから、この最低限の暮らしを続けさせて欲しい。

 だが、このアパートで夜を過ごせば奇妙な物音を聞くから、出来るだけ深夜の時間帯は部屋にいたくないと思ってしまう。

 働きたくない、という気持ちとは裏腹に、悠月の深夜バイトのシフトは、少しずつ増えていった。



 その日は朝方にバイトを終えて、くたくたになって布団にもぐりこんだ。連日の深夜バイトで、疲れがだいぶたまっている。さすがに連勤が続いていたので、今夜はシフトから外れて、久しぶりにだらだらと過ごせる日だった。

 先日、何か恐ろしいものを見たような気がする。だが、目が醒めたら朝になっていて、それが何なのか忘れていた。

 だから、全ては悪夢のせいだと自分に言い聞かせることができる。

 今日も悪夢を見るかもしれない。

 それでも、全ては実在しないものなのだ。

 そんなふうに思いこもうとしながら眠りに落ちた真夜中に、また目を醒ました。

 日を追うごとに、足音がハッキリと聞こえるようになっていた。足音を聞いていると、それを引き起こす『何か』の姿も、悠月の脳裏で像を結ぶようになっている。

 畳を擦る足音から想像できるのは、女性だ。裸足と、ほっそりとした足首。形のいいふくらはぎ。さらに、だんだんと、その上に身体が乗っていく。

 身につけているのは、白のワンピースだ。それに、長い黒髪。ステロタイプの幽霊が脳裏に浮かぶということは、おそらくこれは、単なる妄想にすぎないということだ。

 少し足を引きずって歩く女性が、どんな表情を浮かべているかまでわからない。

 そんな何かが、布団の回りをぐるぐると歩くのを、夢うつつに感じ取っている。瞼が揺れる。その足音を聞くことで、しっかりと目が醒めるか、夢うつつのまままた眠りに落ちるのかは日による。

 怯えても怯えなくても、気づくとその足音は途絶えているのだ。

 だが、その夜は違っていた。

 ぐるぐるぐるぐると、布団の周囲を歩き回る足音はずっと途絶えない。

 上を向いて眠っていた悠月は、少しだけ意識を浮上させて、身体をさらに布団の中に潜りこませた。肩と首はすっぽりと布団の中に隠れたが、鼻から上は外に出ている。

 瞼がひどく重く、全身がひどく重い。

 顔面が冷え切っていた。

 鼻が冷えすぎて、呼吸のたびに違和感があるほどだ。

 金縛りというわけではないようだが、眠りと覚醒の狭間にあって、身体が動かない状態だった。

 だが、どこか張りつめた禍々しい闇の気配に、呼吸が浅くなる。自然と、鼓動が速くなっていくのを感じていた。

 自分が過剰に警戒しているだけであり、恐怖の対象は現実には何ら存在していない。そのはずだ。だから今夜こそ、自分の怯えにはなんの根拠もないものだと証明したくて、悠月は重い瞼を開いた。




 遮光カーテンを閉じた真夜中の室内は、闇に沈んでいる。

 最初は何も見えなかった。

 それでも暗闇に慣れた目は、家具や天井などの輪郭を少しずつ拾っていく。

 悠月の眼球が、ゆっくりと動いた。

 そのとき、顔のすぐ真横に、何かがみしりと重みをかける気配があった。



 ――何だ?

 先日もこうして、頭のすぐ横に、毛根が引っ張られるほど重みをかけられたことを不意に思い出す。

 自分はあのとき、何を見たのだろうか。

 視線を上げていくと、暗闇の中で何かが見えた。

 自分の布団の左に、ぼんやりと輪郭を浮かび上がらせる『何か』がいた。

 

 

 それは、

 ボロボロの白っぽい服を、

 どす黒い大量の血膿で汚していた。

 その身体にほとんど肉はついておらず、剥き出しになった骨に、干からびた皮膚がへばりついている。

 一目で、生きていない存在だとわかった。

 人ならざるものに遭遇している恐怖に、全身が総毛立つ。

 ひどく痩せて見えるのは、その手足から肉が腐り落ち、骨が露出しているからだ。

 だが、その痩せた細長い身体のシルエットにはひどく違和感があった。




 ――何だ?

 その違和感の原因を探して、悠月の視線がぎこちなく動く。

 この恐るべき存在からすぐさま視線をそらせたいのに、目が離せない。

 普通ならすぐにわかることなのに、今はまともな判断力がない。ようやく、その違和感がどこから生じているのか、わかった。



 ――首だ……!

 頭があるべきところに、なにもない。

 首から上が、欠けている。

 それに気づいた瞬間、悠月の頭皮は恐怖に痺れた。

 首のない何かが、枕の左側に立っている。

 そのとき、ふいに腐臭が鼻孔に流れこんできた。

 今まで感じずにいたのが不思議なほどの、猛烈な腐臭が。

「っぐ!」

 嫌悪感悪感が限界まで膨れ上がり、悠月の喉が鳴る。

 悠月は布団に顔を擦りつけるようにして、身体を丸めた。

 嘔吐くのに合わせて身体がのけぞり、苦い胃液が喉を灼く。

 胃液の逆流に、鼻の奥までじぃんと痛んだ。

「ぐえ、……ぐ、ぐ……っ」

 収縮した喉が元に戻ったところで、息苦しさのあまり、空気を吸いこもうとした。だが、周囲の空気はすでに悪臭の塊と化している。

 吸うことも、吐き出すことすらも拒ませる、濃厚な匂いだ。

「ぐ、うっ! うえっ」

 それを受け入れることができず、何度ものどが痙攣した。

 息を吸いこむたびに、腐臭を孕んでゼリーのように感じられる空気が、喉から鼻孔から耳穴から全身へと染みこんでいく。




 どれだけのうめきを上げたかわからない。

 何度も何度も叫んで、

 その末に、

 ぷっつりと悠月の意識は灼ききれた。

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