第2話 日常

 そのアパートに住むことになったのは、仕事をやめて復帰がまだ見込めず、できるだけ節約したかったからだ。

 東京に出たのは、大学進学のときからだ。

 産まれ育ったのは長野県の地方都市だったが、高校二年生のときに農業をしていた両親が相次いで亡くなったからだ。悠月も兄もまだ若すぎて、家業を引き継ぐことは考えられなかった。

 結局、親戚内で話し合いがなされて、住居ごと広い農地を叔父夫婦に引き継いでもらう形になった。

 上京すれば何か楽しいことがあるかも、という漠然とした考えがあるにはあったが、悠月にとっての東京暮らしはまるでキラキラとしていなかった。それでも人間関係が希薄な都会の暮らしは、それなりに悠月に合っていて、大学を卒業してからも故郷に帰る気にはなれず、都内の大手精密機器メーカーに就職した。

 そこは故郷にも大きな工場があり、馴染みのある社名だった。だが、三代目社長になったときから利益至上主義となり、社内はガタガタになった。生み出す商品は斬新さを失い、大がかりなリコールを何度も行ってもいたようだ。

 悠月が就職したときには、すでに会社はブラック企業になり果てていた。そのことは巧妙に隠されてはいたものの、営業に配属された悠月にはとにかく売れという命令が下された。

 ノルマが達成できないと、何時間も上司に怒鳴り散らされた。

 自分は会社選びを間違ったのだと悟ったものの、当時は最悪の就職難だった。すぐに辞めたら、経歴に傷がつくと考え、とにかく三年間、我慢しようと決めた。そうしないと、転職もままならない。

 転職のために、とにかく実績を作ろうと努力した。営業先について学び、商品を研究し、二百人いるルート営業のうち、五位まで成績を上げた。心を殺して相手にへつらい、どんな時間に呼び出されてもにこやかに対応して、がむしゃらに社畜として働き続けた。

 だが、転職先のメドもつき、あと三ヶ月で仕事を辞めると決めたそのとき、積み重なった疲れがついに限界を突破した。

 出勤時間になってもどうしても身体が動かず、這うようにして満員電車に乗りこんでも、腹痛のために下車するしかなかった。遅刻したことでさらに上司に怒鳴り散らされ、次の週には電車にも乗れなくなった。

 通勤途中の混雑したホームで、ふと線路に吸いこまれそうになっていた。

 ――そこに飛んだら、楽になれる。

 誘惑は強く、その思いに取り憑かれる。

 ホームの喧噪がすうっと遠ざかり、飛んだら自由だ、という言葉ばかりが頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 それでも、最大限の自制心を発揮してどうにかホームのベンチに座り、鞄を抱えて何本も電車を見送るしかなかった。

 あのとき、悠月よりも先に誰かが、ホームの同じ場所から飛びこんでいなければあと少しで実行していたからもしれない。

 目の前で起きた惨事に、さすがに血の気が引いた。あのような悲惨な遺体を晒すことだけは回避したい。

 それと同時に、ホームの下の暗がりにいた手招くような黒い影にも気づいていて、そこに焦点を合わせるのが恐ろしくてたまらなかった。

 震えながら家までたどり着いたものの、無断欠勤となった。鳴り響く会社からの電話に夕方ぐらいになってようやく応じ、ようやく念願のクビとなった。

 転職先との話は進んでいたが、ブラック企業から解放された途端、働くこと自体ができなくなった。一旦、全てを白紙に戻すしかなかった。

 何をするにも、気力が沸かない。日がな一日部屋に寝転び、トイレにすら動くのが億劫だった。

 食事もまともにできず、風呂にも入れず、どん底の日々だった。

 口座振替で家賃や公共料金の引き落としがされていなければ、アパートを早々に追い出されていただろう。

 だが、それでも会社から解放され、何もしないでいられたのが悠月にとっては回復のきっかけとなったのかもしれない。

 少しずつエネルギーが戻ってきて、最低限の家事ができるようになった。少しずつ体力もつき、周囲を見回すこともできるようになった。

 そうなるまでには一年かかった。

 ようやく、自分の口座の残金を確認する覚悟も出来た。

 両親の遺産は兄と悠月の二人で分け合ったが、すでに大学の学費と生活費で使い切っている。いつまで無職の生活ができるのか、ずっと気になっていたからだ。

 ブラック企業は給料もボーナスも安かったが、それを使う余裕がなかった。三年勤務したことで、どうにか一年間、最低限の暮らしをすることはできたようだ。

 だが、残金はすでに十万を切っている。そろそろ働かなければ、と焦るには、ちょうどいいタイミングだった。

 ――だが、どう働く? 何をして?

 実家と農地を両親から譲り受けた叔父夫妻は、いつでも手が足りないとぼやいている。もしかしたら、そこで雇ってもらうことも可能かもしれない。だが、パワハラ気質の叔父とは、うまくやれる気がまるでしない。

 独立して暮らしている兄のことも考えたが、泣きついて金を送ってもらうことはプライドが許さなかった。

 だから、まずはバイト先としてコンビニを選んだ。よく通っていた店舗のガラス窓に、夜間バイト募集の張り紙がずっと貼られていたからだ。

 人手不足であったなら、自分でも雇ってくれるかも、と思った。それに夜間ならばバイトも一人が多いから、人間づきあいも多少は楽なはずだ。

 感じのいい店長に、今でも夜間バイトを募集していますか、と張り紙を指さしておずおずと尋ねてみたところ、驚いた様子で顔をまじまじと眺められ、「まずは髪を切ってきてくれる?」と言われた。その後で、面接の日を指定された。

 どうにか雇ってはもらえたが、会社員のときのようにキビキビと動けない。びっくりするほど頭が働かず、なかなか仕事内容を覚えられない自分に絶望もした。

 最初のころは仕事を覚えるために昼間のシフトで店長と一緒に働いたが、何度も同じことを質問しては、嫌な顔をされる日々が続いた。

「いいか。手が空いたらぼうっとしているんじゃなくて、フロアやイートインコーナーの掃除をしてくれるか? トイレの清掃や、調理器具を洗ったり、片付けたりするのも、深夜帯の仕事だ。とにかく自分で仕事を見つけて、休みなく働いてくれないと」

「陳列が雑」

「もっと愛想良くできないかなぁ」

 だが、そんな悠月でもクビにならなかったのは、ひとえに店舗が人手不足だったからだろう。

 どうにか仕事を覚えたことで、念願の一人だけの夜勤シフトにもつけてもらえるようになる。

 だが、そこで悠月が対面したのは、コンビニでのバイト代と生活費とのバランスだった。

 バイトを増やせば生活に余裕はできるのだが、まだ身体は本調子ではない。あまり働きすぎたら、前のどん底状態に戻ってしまいそうな不安があった。だから、バイトは生活に必要な額を稼ぐための最低限でいい。

 いっそ、もっと家賃が安いところに引っ越すのもいいのではないだろうか。

 今まで住んでいたところも、家賃が高いアパートではなかった。最初に住んだ学生アパートから、就職しても引っ越していない。だからこれ以下があるとはあまり考えられずにいたのだったが、一万でも安くなったら一日シフトを削れる。

 住んでいたアパートの更新日が近づいてきたこともあって、悠月はバイトの合間に新しいアパートを探してみることにした。

 ネットなどで下調べをした後で、結局、向かったのは、今の住まいにほど近い、地元密着タイプらしき不動産業者だ。

 チェーン店舗ではなく、国道沿いのマンションの一階に店舗を出している。バイト先のコンビニに向かう途中にあり、交差点で信号を待つ間に、立ち止まって店頭広告を見る機会があった。

 ベタベタと窓に貼られていたチラシの中の一件が、気になっていたのだ。

 特に何の変哲もない間取りだったが、不思議と目が吸い寄せられたのは、月額二万八千円という文字だった。敷金礼金なし、という条件も理想的だ。ここを内見させてもらって、特に問題がなければ引っ越したい。

 そう思って、その店にアポなしで踏みこみ、出てきた不動産業者に伝えた。

「あの、あそこの、店頭に貼ってあるチラシの、左から二段目上から三段目の、荒川沿いの、格安二万八千円という物件を見せて欲しいんですが!」

 バイト以外で人とまともに話をするのは久しぶりだったから、やけに早口になった。これくらいのことでも、心臓がバクバクと鳴り響く。

 だが、不動産業者の反応は鈍かった。

 チラリと窓際に視線を向けただけだ。分厚い紙のファイルを手に取り、悠月に席を勧めて、狭いオフィス内の応接セットの向かいに腰掛けた。

「はぁ。……とにかく、お安い物件がいいと?」

「安ければ、安いだけいいです」

「安いのは、トイレが共同とか、風呂なしのところも多いんですよ。そういうところは、さすがに若い人は無理でしょう?」

 悠月は二十七歳だが、不動産業者もあまり年寄りには見えない。三十すぎぐらいに見える彼は、ファイルから数件の物件のチラシを抜き取って、悠月の前に置いた。

 並べられたのは、七、八万の小綺麗なワンルームだ。だが、今よりも高い物件だったら、引っ越す意味がない。そもそも今の貯金では、敷金礼金すら払えるかわからない。

 どうして自分が指定した物件を紹介してくれないのか、と、悠月は憤りを感じた。そのとき、ハッと気づいた。

「つ、つまり、俺が見せてほしいと言っても内見させてくれないのは、おとり広告だからですか」

 つっかえながらも、口にする。

 おとり広告とは、そもそも存在していなかったり、実際にはすでに契約されていて、住むことのできない物件の広告だ。それを店頭やネットなどに残しておいて、客引きの役割を果たす。

 今でもそんな陳腐かつ違法な方法が使われているとは思っていなかったから、そんなあからさまな方法に引っかかった自分が腹立たしい。

「……そうですか……」

 悠月は納得顔で、肩に入った力を抜きがてら、膝をつかみなおした。

 醒め切ったまなざしで相手を見る。

 普段はバイトのときも、相手とまともに目を合わせることはないのだが、せっかく気力をふり絞って足を運んだというのに、期待を外された恨みは強かった。

 だが、相手はまるで動じたようすも見せない。その薄い唇には、薄ら笑いがへばりついているようだ。

「いえ、おとり広告とか、そういうものは禁止されておりますので」

「そうみたいですね。今どき、おとり広告が現役で存在しているなんて、想像もしていませんでしたよ。せっかくですから、SNSなどでその滅多に出会わないおとり広告に遭遇したって、報告してみようかな。思わぬネタがバズることもあるみたいですし」

 遠回しに脅したつもりだったが、それでも相手の反応は薄かったので、悠月はあきらめて大きく身を乗り出した。

「――その物件じゃなくてもいいので、とにかく安い物件を探してください」

 今のアパートは月五万円だ。

 せっかく来たのだから、一万円でも五千円でも安いアパートを探したい。

 月々の負担を少なくしておくことが、今の悠月には必要だった。




 悠月の要求は、シンプルだ。

 とにかく、安い物件であること。安ければ安いほどいい。ただし、騒音などで我慢できないケースもあるかもしれないので、内見を重視する。

 今のバイトをそのまま続けたいので、そこまで徒歩で通える距離であってほしい。

 それに、とっておきの切り札を早々に切っておくことにした。

「別に、事故物件でもかまいません」

 無料動画などを観ていると、オカルトネタも流れてくることがある。どうでもよく流し聞いている中に、事故物件の話もあった。

 今の悠月は、幽霊や怨霊など信じていない。耐えられない匂いなどがないのであれば、そこでいい。

 だが、その切り札にはさしたる効果はなかったらしい。不動産業者は一瞬だけ動きを止めたものの、せせら笑うように顎を上げた。

「最近では、事故物件でもいいと、おっしゃるお客さんも多いんですよ。ですから、実際のところ、そんなにないですね」

 あっさり言われて、悠月は拍子抜けした。

「あ、そう……」

「事故物件って、どの範囲のものが該当するか、ご存知ですか? 単に人が死んだ物件ではなく、自殺、殺人、火災ですね。自然死の場合は、特殊清掃が必要なほどの、発見が遅れた物件なのですが」

 それくらいは知ってます、と言い返そうと思ったが、ぐっとこらえている間に不動産業者は立ち上がり、棚から新たなファイルを引き抜いた。

 この店舗はウエブサイトもなかった。机にはパソコンがあったが、客には紙ベースで物件を見せるらしい。

「三万以下の物件というと、うちにはやはり、さきほどお客様が指定されたこの一件しかありませんね」

 表示されたのは、悠月が最初から内見を求めていたアパートだった。だったら、早く紹介してくれ、と言いたい。

「そこを、紹介してください」

 再度いうと、ようやく不動産業者はうなずいた。予定が他に入っていなかったのか、店舗が入っていたマンションの駐車場に停められていた車で、すぐさま内見に向かうことができた。

「駅から、徒歩十分です」

 不動産業者は運転しながらそう説明したが、悠月はこのあたりに詳しい。駅から荒川の河川敷に近いアパートまで歩いたら、実際には十五分はかかるはずだが。

 到着したのは昼過ぎだったが、他の住民の気配が感じられない古い二階建てアパートだ。

 国道沿いには大きなマンションが建っていたものの、少し外れたら一軒家や、アパートがごみごみと建ち並んでいる。アパートの敷地は、背丈ほどの古いコンクリートブロックの塀で囲まれていた。

 手入れはまるで行き届いておらず、外階段の内側にある各部屋のポストは、古いチラシであふれ返っている。外階段はいつ崩壊してもおかしくはないほどのさびで覆われ、穴がところどころに空いていた。

 ――ヤバいな。

 まずはそう思った。さすがにこの階段は避けたい。紹介されたのが二階の部屋だったら、断っていたかもしれない。

 だが、不動産業者が向かったのは、一階の角部屋だった。

「こちらです。どうぞ」

 目的の部屋のドアの鍵だけ解除してから、自分は入ることなく、悠月を優先させるように一歩引く。

 悠月はドアを開いて中に入り、狭いたたきに立って室内を見回した。

 その途端、どくん、と鼓動が大きく跳ね上がった。

 ――何だ?

 意識が、不思議とその室内に吸い寄せられる。

 ぽっかりと開いた洞窟のように、室内は薄暗かった。コンクリート塀が窓の半分ぐらいの高さまである上に、その向こうにも建物が建てこんでいるせいで、日当たりが極端に悪いからかもしれない。

 ねっとりと湿気を含んだ空気が頬を撫でた。

 靴を脱いで、中に上がりこむ。

 特に変哲もない、古ぼけたアパートの一室だ。入ってすぐの部屋にはキッチンがあって、板張りだ。どこもかしこも年期が入っている。キッチンの調度は古く、どこかかび臭い。良いところはどこにもないように感じられた。

 金さえあるのならば、こんなところに住みたくはない。

 だが、息を吐き、呼吸を続けるにつれて、この薄暗さがだんだんと快適なもののように思えてきた。

 自分は、この部屋にぴったりの住民なのではないだろうか。

 どうせ部屋にいるときには一日中、寝転んで暮らすのだから、この薄暗さや湿度は自分に馴染むかもしれない。

 悠月は板敷きの部屋を突っ切り、その奥の畳敷きの部屋まで向かった。1Kで四畳半の部屋がついている。

 そこにある畳が二枚だけ新しいことに驚いたりしながら、一通り内見をすませ、ボーッとしながら玄関の外へ出た。

 驚いたことに、不動産業者はドアの前にたたずんだままで、一歩も室内に入っていなかった。

 出てきた悠月を見て、まず聞いてくる。

「いかがでしたか」

「まぁ、悪くないとは思いますよ」

 その言葉に、不動産業者はぎょっとしたように動きを止めた。

 悠月をしばらく凝視した後で、口を開く。

「二万五千円です」

 その家賃は、チラシにあったものよりも三千円安い。

「ここ、……ここにします!」

 悠月はどうしてなのか尋ねる間もなく、慌てて言った。

 ここは良い。何だかわからないけれども、ここに住みたい。不動産業者の気が変わらないうちに、決めてしまいたい。

 不動産業者の車で引き返し、先ほどの店舗で、契約書等に次々とサインをした。敷金礼金なしで、保証人すらも必要のない格安の物件だった。

 だが、やっぱり安くしてくれた理由が疑問で尋ねると、不動産業者は細い目をますます糸のようにした。どうやら、笑っているらしい。

「そこ、事故物件ですからね。お客さん、それでもいいって、言ってくれたでしょ」

「え? あ、そう……、そうですね」

 ――そんなに事故物件はないって、言ってたくせに……!

 若干の引っかかりが残る。

 だが、そもそも事故物件でいいと言ったのは、自分のほうだ。今さら文句は言えない。

 それに、三千円の値引きが何より嬉しかった。

 これからは、二万五千円で暮らせる。

 労働に対する義務感が、少し楽になる。

 その次の月から、そこに引っ越すこととなった。

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