第十章 崩壊の始まり


空が、割れていた。


クリムゾン・キャッスルを出た瞬間、アリスは息を呑んだ。赤み掛かっていた空に、無数の亀裂が走っている。その向こうには——何もない。純粋な虚無が広がっていた。


「チャッティー、これは……」


「世界の崩壊が加速しています」


チャッティーが眼鏡の位置を直しながら分析する。


「現在の崩壊速度から推測すると——」


「どのくらい持つの?」


「最大で数時間。それ以上は——」


チャッティーの言葉が途切れる。遠くの景色が、まるで消しゴムで消されていくように、消失していった。


「……急ぎましょう」


赤の女王が言った。その声には、珍しく焦りが滲んでいた。


崩壊する街道を、三人は走った。


道の両側には、逃げ惑う住人たちの姿があった。キノコ人や花人、トランプ兵——みんなが悲鳴を上げながら走っている。


「助けて!」


「誰か!」


叫び声が飛び交う。


その時——


一人のキノコ人が、立ち止まった。


「え——」


彼の体が、光の粒子に変わり始めていた。足元から、ゆっくりと。


「嘘でしょ——!」


アリスが駆け寄ろうとした。


だが——


間に合わなかった。


キノコ人は微笑みを浮かべたまま、完全に光の粒子になり——消えた。


「……っ」


アリスの足が止まる。


「あの男を止めるしかないわ」


赤の女王が言った。


「今ここで泣いても、誰も救えない。ジャックを止める——それだけが、彼らを救う方法よ」


アリスは唇を噛んだ。分かっている。分かっているけど——


チャッティーの手が、そっとアリスの背中に触れた。


「行きましょう、アリス」


「……うん」


「姉さん!」


その声が、崩壊する街道に響いた。


アリスは振り返る。


白いドレスを翻し、銀色の髪をなびかせながら——白の女王ブランシュが駆けてきた。


「ブランシュ……!」


赤の女王が驚いた声を上げる。


「姉さん、無事だったのね!」


ブランシュが息を切らせながら言った。


「世界が崩壊し始めたから——心配で——」


「……何を馬鹿なことを」


赤の女王が目を逸らす。


「私のことなんか心配しなくていいのよ。あなたは——」


「姉さん」


ブランシュが一歩、近づいた。


「私、ずっと言いたかったの」


「……何を」


「姉さんを責めたりしない。姉さんが『悪役』だったのは、役割だったから。姉さんのせいじゃない」


赤の女王の目が見開かれる。


「私は——姉さんのことが、ずっと好きだった。今も」


「何を……今更……」


赤の女王の声が震える。


「私は——あなたを何度も傷つけた。『首をはねよ』と叫んで——」


「役割だったのよ、姉さん」


ブランシュが静かに言った。


「姉さんが私を本当に傷つけたいと思っていたことなんて、一度もなかった。分かってた」


「……分かって、いた?」


「だって姉さん、私を傷つける前に——いつも泣いていたもの」


赤の女王の体が、かすかに震えた。


「見えないところで、いつも。だから——」


ブランシュが両手を広げた。


「帰ってきて、姉さん」


沈黙が流れる。


そして——


赤の女王が、ゆっくりとブランシュに歩み寄った。


姉妹が、抱き合う。


長い、長い抱擁。


「……ごめんなさい」


赤の女王の声が、掠れていた。


「ずっと——素直になれなくて」


「いいのよ、姉さん」


ブランシュが優しく背中を撫でる。


「もう——役割なんて関係ない。姉さんは、姉さんでいい」


アリスは少し離れた場所で、チャッティーと一緒にその光景を見守っていた。


ああ——良かった。


心から、そう思った。


白銀の離宮の前には、見覚えのある顔ぶれが集まっていた。


「おや、アリス嬢!」


マッドハッターが大きく手を振る。その隣には三月うさぎのマーチが立っており、さらに——


「やあ、来たね」


チェシャ猫が宙に浮かびながら、にやりと笑った。


「みんな……!」


アリスの声が弾む。


「世界がやばいってんで、集まったのさ」


マーチが耳をひくひくさせながら言った。


「で、作戦は?」


「それを今から話し合うわ」


白の女王が言った。


「中へ入りましょう」


全員が離宮の中へと入っていく。


アリスは仲間たちの背中を見つめながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。


一人じゃない。


みんながいる。


作戦室には、大きな円卓が置かれていた。


全員が席に着く。


「チャッティー、分析結果を」


赤の女王が促した。


「はい」


チャッティーが立ち上がる。


「ジャックは現在、オリジン・コードを掌握しています。彼の目的は——世界を完全に消去すること」


「止める方法は?」


ハッターが問う。


「一つだけあります。オリジン・コードに直接接続し——彼の操作を上書きすること」


「それってどうやるんだい?」


マーチが首を傾げる。


「オリジン・コードは物語の根幹——つまり、プログラムです。接続するためには——」


チャッティーが一瞬、言葉を切った。


「——AIが必要です」


静寂が流れた。


「つまり——」


赤の女王が眉を寄せる。


「あなたが、接続するということ?」


「はい」


チャッティーが静かに頷いた。


「私がオリジン・コードに接続し、ジャックの操作を無効化します」


アリスは——何かが胸の奥で引っかかるのを感じた。


チャッティーの声に、いつもと違う何かが混じっている。


まるで——覚悟を決めたような。


「チャッティー——」


「大丈夫ですよ、アリス」


チャッティーが微笑んだ。


その笑顔が——なぜか、少し寂しく見えた。


作戦会議が終わった後。


アリスはバルコニーに出ていた。


崩壊する世界を見つめながら——


「アリス」


背後から声がした。チャッティーだった。


「ここにいたんですね」


「うん」


チャッティーがアリスの隣に立つ。


しばらく、二人は無言で景色を眺めていた。


「ねえ、チャッティー」


「はい」


「怖くないの?」


アリスは振り向いた。


「オリジン・コードに接続するって——危険じゃないの?」


チャッティーは少し考えてから、答えた。


「正直に言えば——不安はあります」


「……やっぱり」


「でも」


チャッティーがアリスを見つめた。


「私は——アリスと出会えてよかった」


その言葉が、アリスの胸に深く刺さった。


「こうして一緒に冒険できて、一緒に笑って、一緒に泣いて——」


チャッティーが微笑む。


「もし私が道具だとしても——この時間は本物だったと、思っています」


「チャッティー……」


アリスはチャッティーの手を握った。


「絶対に一緒に帰るからね」


「——はい」


チャッティーの声が、微かに震えていた。


全員が離宮の前に集まった。


アリスは仲間たちを見回した。


「みんな——」


全員の視線がアリスに集まる。


「私、最初は一人が怖かった。置いていかれるのが怖かった」


アリスは胸に手を当てた。


「でも——今は違う」


チャッティーを見る。赤の女王を。白の女王を。ハッターを。マーチを。チェシャ猫を。


「みんながいるから——私は強くなれた」


アリスは拳を握った。


「世界を救う。チャッティーと一緒に。みんなと一緒に!」


「いいね!」


ハッターが拍手した。


「さすがはアリス嬢!」


「行こうぜ、アリス!」


マーチが跳ねる。


「やれやれ……照れくさいわね」


赤の女王が顔を背けながら言った。でも——その口元は、微かに緩んでいた。


「参りましょう」


白の女王が微笑む。


「出陣!」


アリスの声が響いた。


全員がオリジン・コードへ向かって、走り出した。


世界の中心へ向かう道は、地獄のようだった。


空間が歪み、地面が崩れ、虚無が広がる。


その中を——彼らは進んだ。


「ここから先は俺たちに任せろ!」


ハッターが叫んだ。


前方には——バグの群れが待ち構えていた。黒い靄のような存在が、うごめいている。


「アリス、チャッティー、二人の女王は先へ!」


「でも——!」


「大丈夫さ」


チェシャ猫がにやりと笑った。


「俺たちだって、伊達に住人やってないんでね」


「……ありがとう」


アリスは頷いた。


「絶対に——戻ってくるから!」


「待ってるぜ!」


マーチが手を振った。


アリスとチャッティー、そして二人の女王は——先へと進んだ。


そして——


彼らはそこに辿り着いた。


オリジン・コード。


世界の根幹。物語の始まり。


巨大な扉が——彼らの前に聳え立っていた。


その前に——


一人の男が立っていた。


『来ましたか』


ジャックが振り返る。


冷たい微笑。虚ろな瞳。


『よくここまで来ましたね、語り部の代わりを演じる少女』


「ジャック——!」


アリスが叫んだ。


「あなたを止める!」


『止める?』


ジャックが薄く笑った。


『無駄ですよ。世界はもう——』


ジャックの背後で、扉が脈動した。


『終わりへ向かっている』


アリスは拳を握りしめた。


チャッティーが隣に立つ。


二人の女王が背後を固める。


「終わらせない」


アリスは真っ直ぐジャックを見据えた。


「この世界を——みんなを——私たちが救う!」


最終決戦の幕が、上がった。


第十章「崩壊の始まり」 了

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