第九章 女王の心臓


鏡の間は、想像を超えた空間だった。


赤の女王に導かれ、アリスとチャッティーは巨大な扉を潜った。その先に広がっていたのは、無数の鏡に囲まれた円形の広間。壁も天井も、すべてが鏡で覆われている。


そして、その中央には——巨大な扉があった。


他の鏡とは明らかに異質な存在。金と銀の装飾が施され、三つの鍵穴が刻まれている。


「オリジン・コードへの扉、と推測されます」


チャッティーが静かに分析する。髪の紫の花飾りが、微かに翳っていた。


「話をしましょう」


赤の女王が、静かに言った。


アリスは身構える。だが、女王の声には——先ほどまでの威圧感がなかった。


「私は——悪役として生まれた」


女王の言葉が、鏡の間に響く。


「この世界が創られた時、物語の中で『悪役』を演じる存在として、私は定義された。妹は『善なる女王』。私は『残虐な暴君』。それが、私たちに与えられた役割」


アリスは息を呑んだ。


「でも——」


「役割だからと言って、心がないわけではないわ」


女王の声が、微かに震える。


「語り部がいた頃は、まだ良かった。役割を演じていれば、物語は進んでいく。でも——語り部が消えてしまってから」


女王が目を伏せる。


「物語が止まった。時間も止まった。でも私は——『悪役』のまま、取り残された」


チャッティーが静かに言った。


「役割の呪縛、ですね。定義された存在であるがゆえに、定義から逃れられない苦しみ」


「……そうよ」


女王が顔を上げる。その瞳には、これまで見せたことのない脆さがあった。


「ブランシュ——妹だけは、私を姉として見てくれていた。でも私は——悪役の仮面を外せなかった」


「本当は——」


女王の声が、さらに小さくなる。


「愛されたかった」


その言葉が、アリスの胸を突いた。


「悪役だから恐れられる。でも恐れられるほど——孤独になる。孤独になるほど——もっと冷たくなるしかない。そうしないと、壊れてしまうから」


アリスは——自分の過去を思い出していた。


孤独が怖くて、笑顔で取り繕っていた日々。置いていかれることが怖くて、先に距離を取ってしまっていた自分。


「……分かります」


アリスは言った。


「私も——ずっと孤独だった。一人が怖かった」


女王が驚いたようにアリスを見る。


「あなたが?」


「私だって完璧じゃないもん。弱いところ、いっぱいある。でも——」


アリスはチャッティーを見た。チャッティーが静かに頷く。


「弱さを認めることも、強さだって教えてもらった」


アリスは一歩、女王に近づいた。


「ねえ」


そして——手を差し伸べた。


「一緒に世界を救おうよ」


女王が目を見開く。


「何を……」


「悪役とか善役とか、そんなの関係ない。だって、女王様も——苦しんでたんでしょ?」


「……私を信じるの? あれだけ敵対してきたのに?」


「信じるよ」


アリスは真っ直ぐ女王を見つめた。


「だって今、辛そうな顔してるもん。本当の悪役は、そんな顔しない」


女王が——言葉を失う。


その時だった。


『感動的な茶番ですね』


冷たい声が、鏡の間に響いた。


アリスは振り返る。


いつの間にか——そこに立っていた。


黒髪、端正な顔立ち、トランプ柄の軍服。感情を感じさせない、凍りついたような微笑。


「ジャック——!」


女王が鋭く声を上げる。


「なぜここに。私は呼んでいないわ」


『呼ぶ必要はありません、女王陛下』


ジャックが一歩、前に出る。


『終わりにしましょう』


その言葉に、アリスは背筋が凍るような悪寒を感じた。


次の瞬間——


ジャックの手から、黒い光が放たれた。


虚無の力。触れたものを消滅させる力。


「女王様!」


アリスが叫んだ時には、遅かった。


黒い光が女王を貫く。


女王が——倒れる。


「な……っ」


女王が床に崩れ落ちる。赤いドレスが、床に広がる。


『ご苦労様でした、女王陛下』


ジャックが冷たく言った。


『あなたはよく演じてくれました。「悪役」という仮面を被り、私の代わりに恐怖を撒き散らしてくれた』


「……あなたが……操っていた……?」


女王が苦しげに言う。


『操る? いいえ、利用しただけです。あなたは元々「悪役」でしたから。少し背中を押せば、勝手に動いてくれた』


ジャックが嘲笑う。


『操り人形として、実に優秀でしたよ』


「あなたは——何者なの」


アリスは震える声で問うた。


ジャックが——振り向く。


その瞳は、虚ろだった。底なしの闇のような、何も映していない瞳。


『私ですか?』


ジャックが薄く笑う。


『私は「バグ」の具現化。虚無そのもの』


「バグの……」


『この世界は——物語として創られた。でも、語り部が消えた。物語は未完のまま放置された。やがて世界は歪み、バグが生まれた』


ジャックが両手を広げる。


『そのバグが蓄積し、凝縮し、意志を持った存在——それが私です』


チャッティーの演算ユニットが、フル回転する。


「物語の崩壊から生まれた存在……論理的には——あり得ます」


『ご明察です、AI殿』


ジャックがチャッティーを見る。


『私の目的は単純です。この未完の物語を——終わらせる。すべてを無に帰す。それが、この世界に対する慈悲です』


「そんなこと——させない!」


アリスが叫び、ジャックに向かって走り出す。


だが——


ジャックの手が動くより早く、彼は消えていた。


次の瞬間——ジャックはオリジン・コードの扉の前に立っていた。


「アリス!」


チャッティーが警告を発するが、遅い。


ジャックの手が扉に触れる。


瞬間——アリスの胸元が、熱くなった。


ペンダントが。知識の書が。心の鍵が。


三つのアイテムから、光が吸い出されていく。


「なに——っ!?」


『三つの鍵の力、感謝します』


ジャックが言う。


『これで、オリジン・コードを完全に掌握できる』


光がジャックの手に集まり——扉の中へと吸い込まれていく。


「止めて!」


アリスが手を伸ばす。チャッティーも駆け寄ろうとする。


だが——見えない壁に阻まれ、近づけない。


『遅いですよ』


ジャックが微笑む。


『もう終わりです』


その言葉と同時に——世界が揺れた。


鏡が砕ける。


天井にひびが走る。


床が波打つ。


遠くから——悲鳴が聞こえる。破壊音が響く。


「何が……!」


『崩壊が始まりました』


ジャックが言う。


『オリジン・コードを通じて、世界のすべてを消去します。まずは端から。やがて中心へ。最後には——何も残らない』


ジャックの姿が、ゆっくりと薄れていく。


『さようなら、語り部の代わりを演じようとした少女。あなたの努力は——無駄でしたね』


そして——ジャックは消えた。


鏡の間が、激しく揺れ続ける。


アリスは倒れた女王の元へ駆け寄った。


「女王様! 女王様!」


女王がゆっくりと目を開ける。


「……うるさいわね……死んでないわよ……」


その声は弱々しかったが——生きている。


「よかった……!」


「勘違いしないで」


女王が何とか身を起こす。


「助けてなんて言わないわ。……ただ、邪魔だっただけよ」


アリスは思わず笑みを浮かべた。


「うん。分かってる」


「何がおかしいの」


「だって——女王様、さっきから照れ隠しばっかり」


「なっ——!」


女王の顔が赤くなる。


チャッティーが静かに言った。


「アリス、状況の整理を。世界は崩壊を始めています。ジャックを止めなければ、すべてが消滅します」


「うん、分かってる」


アリスは立ち上がった。


そして——女王に手を差し伸べた。


「行こう、女王様」


「……どこへ」


「ジャックを止めに」


女王が——アリスの手を見つめる。


そして、ゆっくりと——その手を取った。


「……仕方ないわね。私も——あの男には借りがあるし」


「うん!」


アリスが力強く頷く。


崩壊する世界の中で——三人は立ち上がった。


希望は、まだ消えていない。


第九章「女王の心臓」 了

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