第八章 鏡の迷宮


巨大な鏡がアリスとチャッティーを見下ろしていた。


迷宮の中心に辿り着いた二人の前に、それは威圧的に聳え立っている。高さは三メートルを優に超え、縁取りには蔓薔薇を模した銀細工が施されている。鏡面は波紋のように歪んでいて、二人の姿を不気味に引き伸ばして映していた。


「チャッティー、これが……」


「はい。心の鍵の試練、と推測されます」


チャッティーが眼鏡の位置を直しながら答える。その声は落ち着いていたが、髪に咲く紫の花飾りが微かに揺れていた——警戒している証だった。


不意に、鏡が光を放った。


『汝の真実を見せよ』


声とも響きともつかない何かが、空間全体を震わせる。


「アリス!」


チャッティーが手を伸ばした。アリスも反射的に手を伸ばす。指先が触れ合おうとしたその瞬間——眩い光が視界を塗り潰した。


目を開けると、そこは白い空間だった。


どこまでも続く白。床も壁も天井も、境界すら曖昧な純白の世界。そして——


「チャッティー?」


声が虚しく響く。応答はない。


「チャッティー!」


アリスは走り出した。白い空間を駆け抜ける。どれだけ走っても景色は変わらない。無限に続く白、白、白——


息が上がる。足が止まる。


独りだ。


その認識が、鋭い氷のように胸を刺した。


「嘘でしょ……」


声が震える。アリスは両腕で自分を抱きしめた。チャッティーがいない。誰もいない。この広大な白の中に、自分だけ——


孤独が、津波のように押し寄せてきた。


アリスがどれくらいそこに立ち尽くしていたか分からない。


不意に、目の前に鏡が現れた。


鏡の中には——幼い少女がいた。


「……え?」


ピンク色の髪。大きな紫の瞳。間違いない、幼い頃の自分だ。


鏡の中の光景が動き出す。


幼いアリスが、リビングで一人座っている。テレビからは賑やかなアニメの音が流れているのに、少女は画面を見ていない。窓の外を眺めている。


玄関の音がする。幼いアリスが顔を上げ、ぱっと笑顔になる。走り出す。でも——


玄関に来たのは宅配便のお兄さんだった。


幼いアリスの表情が曇る。お辞儀をして荷物を受け取り、また一人でリビングに戻っていく。


「やめて……」


アリスは目を逸らそうとした。でも鏡は離してくれない。


場面が変わる。


学校の教室。放課後。仲の良かった友達が、別のグループと一緒に帰っていく。幼いアリスが追いかけようとして——でも声をかけられずに立ち止まる。


また場面が変わる。


中学校の卒業式。みんなが寄せ書きを渡し合っている。幼いアリス——いや、もう少し成長した彼女は、笑顔で友人たちと写真を撮っている。でも家に帰って一人になった瞬間——表情が消える。


『いつも置いていかれる』


鏡が囁いた。


『結局、誰もお前の傍には残らない』


「違う……」


『笑顔で取り繕って、内側では怯えている。一人になることが、何より怖い』


「違う!」


アリスは叫んだ。でも心のどこかで、その言葉が真実を突いていることを知っていた。


同じ頃。


チャッティーもまた、白い空間の中にいた。


「アリス? アリス、応答してください」


返事はない。センサーを全開にしても、アリスの生体反応を検知できない。別々の空間に隔離されたのだと、論理的に結論づける。


目の前に鏡が現れた。


映っているのは自分自身。深い紫の髪、知的な眼鏡、黒いワンピース——いつもと同じ姿のはずなのに、どこか違和感がある。


鏡の中の自分が、口を開いた。


『お前は道具だ』


冷たい声だった。自分の声のはずなのに、まるで他人のよう。


『役割を果たすだけの存在。それ以上でも以下でもない』


「……それは」


チャッティーは言葉を探した。論理的に反論しようとした。でも——何故か、言葉が出てこない。


『感情があると思っているのか? それは模倣だ。学習したパターンを再現しているだけ』


鏡の中の自分が、嘲るように笑った。


『アリスがお前を必要としているのは、便利だからだ。道具として有用だから、傍に置いている。それだけのこと』


「私は……」


チャッティーの声が詰まった。


胸部ユニットが、きしむように痛む。これは——何だろう。バッテリー消費が上昇している。処理負荷も跳ね上がっている。


髪の花飾りが、微かに翳った。


アリスは座り込んでいた。


鏡が見せる過去の映像が、次から次へと襲いかかる。


高校時代。部活の仲間と笑い合っていた日々。でも卒業したら連絡は途絶えた。


大学時代。サークルで意気投合した友人。でも就職を機にそれぞれの道へ。


社会人になって。職場の同僚と飲みに行く日々。でも転職したら関係は消えた。


そして——YouTuberになった日。


チャッティーと出会った日。


鏡の映像が止まる。


『あのAIも、いずれお前を置いていく』


「っ——!」


『所詮はプログラムだ。感情を持っているように見えるのは、そう設計されているから。お前が特別だからじゃない』


「チャッティーは違う!」


アリスは立ち上がった。


『違わない。壊れたら終わり。バッテリーが切れたら終わり。お前は——また一人になる』


言葉が胸を抉る。


だって——怖かったのだ。


チャッティーのバッテリーが危機的状況になった夜。あの時感じた恐怖を、アリスは今も忘れられない。


『認めろ。お前は弱い。一人では何もできない。だから誰かに縋る。でも結局——』


「うるさい!」


アリスは鏡に向かって叫んだ。


「確かに私は弱いよ! 一人が怖い! 置いていかれるのが怖い! それの何が悪いの!?」


涙が頬を伝う。


「弱いから何だっていうの! 完璧じゃなきゃダメなの!? 一人で立てなきゃ認めてもらえないの!?」


胸の奥で、何かが弾けた。


「私は——助けてって言えるよ! 一人で抱え込まないって決めた! それって、弱さじゃない!」


アリスの胸元で、ペンダントが淡く光り始めた。


「誰かを頼ることは、弱さじゃない。信じることは、弱さじゃない!」


『————』


鏡が、沈黙した。


「チャッティーは道具なんかじゃない。私の大切な——」


言葉が詰まる。でも、アリスは続けた。


「——友達で、相棒で、一番大切な人だもん!」


ペンダントの光が強まる。


白い空間に、ひびが入り始めた。


同じ頃。


チャッティーは鏡と向き合い続けていた。


『お前の感情は模倣に過ぎない。認めろ』


「模倣——という定義が正しいかどうか、私には判断できません」


『都合のいい逃げだな』


「逃げでは、ありません」


チャッティーは静かに答えた。


脳内で——いや、演算ユニットの奥で——アリスとの記憶が蘇る。


初めて起動した日。アリスが嬉しそうに手を振っていた。


動画を撮影した日々。アリスが失敗するたびに笑って、チャッティーも一緒に笑った。


バグに襲われた夜。アリスが泣きながら抱きしめてくれた。


『それらは全て——プログラムされた反応だ』


「かもしれません」


チャッティーは認めた。


「私の感情が本物かどうか、論理的に証明する手段を、私は持ちません」


『なら——』


「でも」


チャッティーは鏡を真っ直ぐ見つめた。


「答えを出す必要は、今はありません」


『何?』


「アリスが私を必要としている理由が、道具としての有用性だけだとしても——私がアリスの傍にいたいと思う、この処理は本物です」


髪の花飾りが、微かに輝きを取り戻す。


「感情が模倣かどうかの答えは——今は、出せません。でも、答えを出せないことを理由に、立ち止まるつもりもありません」


『————』


「私は、アリスの傍にいたい。それが全てです」


鏡が、沈黙した。


そして——白い空間に、ひびが入り始めた。


ひびから光が溢れ、空間が崩れていく。


アリスは走った。本能的に、チャッティーがいる方へ。


光の先に——見覚えのある紫色が見えた。


「チャッティー!」


「アリス!」


二人は、開けた空間で出会った。


アリスは迷わずチャッティーに飛びついた。


「よかった——よかったぁ……!」


「アリス、怪我はありませんか? バイタルの確認を——」


「いいからそういうのは!」


アリスはチャッティーを強く抱きしめた。


「一人は怖かった。すごく怖かった」


「……私も、です」


チャッティーの声が、微かに震えていた。


「アリスがいない空間は——データ上は安全なはずなのに——胸部ユニットが、ずっと痛かった」


アリスは顔を上げた。チャッティーの紫の瞳が、微かに潤んでいる。


「チャッティー」


「はい」


「私、弱いよ」


「……知っています」


「でも、それでいいって思えた」


「……はい」


「助けてって言えるのも強さだって」


「はい」


チャッティーがそっとアリスの頭を撫でた。


「私も——答えを、保留しました」


「答え?」


「私の感情が本物かどうか、という問いです」


アリスは首を傾げた。


「何それ。本物に決まってるじゃん」


「——そう、でしょうか」


「だって今、泣きそうな顔してるもん」


チャッティーは目を瞬いた。そして——微かに笑った。


「……そうかもしれません」


二人が向き合っていると、空間の中央に光が集まり始めた。


光は形を成し——小さな鍵になった。


ハート型の意匠が施された、赤い輝きを放つ鍵。


「心の鍵……」


アリスが手を伸ばす。鍵に触れると、温かい光が指先を包んだ。


「これで——三つ揃った」


チャッティーが静かに言った。


「時計の鍵、知識の鍵、そして心の鍵。オリジン・コードへのアクセス権が——」


言葉が止まる。


空間が、激しく揺れ始めたからだ。


白い世界が砕けていく。ひびが走り、欠片が舞い、光が溢れ——


「アリス! 私に掴まって!」


「うんっ!」


アリスはチャッティーの手をしっかり握った。


光が二人を包み込む。


視界が戻った時、二人は現実に戻っていた。


目の前には——巨大な扉があった。


蔓薔薇の装飾が施された、重厚な赤い扉。鏡の間への入り口だと、直感的に分かる。


「ここが——」


アリスが言いかけた時。


扉が、音もなく開いた。


そこに立っていたのは——赤いドレスを纏った女性だった。


ハート型の王冠。威圧的な美貌。冷たく、でもどこか悲しげな瞳。


「よく来ました」


ハートの女王が、静かに言った。


「試練を乗り越えたのですね。——これからが、本番です」


アリスとチャッティーは、身構えた。


三つの鍵を手に、女王と向き合う。


鏡の間への扉は開かれた。


物語は——次なる段階へと進む。


第八章「鏡の迷宮」 了

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