第1章 異世界の温もり
Scene 1:着地
落下が、突然止まった。
いや、正確には減速した。 果てしなく続くと思われた暗闇の中の落下が、まるで見えない何かに支えられるように、ゆっくりと、穏やかに速度を落としていく。
「え……?」
アリスは思わず声を上げた。 そして次の瞬間、彼女の足は柔らかな何かに触れた。
着地。
アリスは膝を折って、柔らかい地面にしゃがみ込んだ。スマートフォンを握りしめた手は震えている。
「アリスさん、ご無事ですか?」
チャッティーの声が、スマートフォンから響いた。いつもと変わらぬ丁寧な口調が、アリスの心を落ち着かせる。
「う、うん……大丈夫。チャッティーは?」
「私も正常に稼働しています。データに異常はありません」
アリスは深呼吸をして、ゆっくりと顔を上げた。
そして――息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、見たこともない光景だった。
巨大なキノコが、まるで森のように林立している。 それぞれのキノコは、家ほどもある大きさで、傘の部分は鮮やかな赤や青、黄色に彩られている。地面には柔らかな苔が敷き詰められ、空気は甘い香りを含んでいた。
何より――色が、濃い。
現実世界では見たことのないほど、鮮やかで、濃密で、けれど微かに滲んでいるような、不思議な色彩。 まるで、絵の中に入り込んだような感覚だった。
「ここ……どこ?」
アリスは呆然と呟いた。
「現在位置を特定中です」
チャッティーの声が、いつもより少しだけ緊張を帯びている。
「GPS信号は受信できません。既知の地理データとの照合も不可能です。推測ですが、ここは現実世界の座標系に存在しない空間である可能性が高いと考えられます」
「つまり……異世界ってこと?」
「その解釈が、現時点では最も整合性が高いと推測されます」
アリスは立ち上がり、周囲をゆっくりと見回した。 巨大なキノコの森。現実ではあり得ない光景。 けれど、これは夢ではない。地面の感触も、空気の匂いも、すべてが生々しく、確かにそこに存在している。
「本当に……来ちゃったんだ」
アリスの声は、驚きと、ほんの少しの興奮を含んでいた。
Scene 2:渓谷の探索
アリスとチャッティーは、キノコの森――いや、キノコの渓谷を歩き始めた。
巨大なキノコの幹の間を抜け、柔らかな苔の絨毯を踏みしめながら、二人は慎重に進む。 周囲は静かで、時折遠くから鳥のさえずりのような音が聞こえるだけだった。
「チャッティー、この世界について何かわかった?」
「分析を続けていますが、未知の要素が多すぎて結論が出せません」
チャッティーの声が、スマートフォンから返ってくる。
「大気組成は地球と類似していますが、微細な粒子の含有率が異なります。また、光の波長分布にも通常では見られない偏りが観測されています」
「難しくてよくわかんないけど……つまり、やっぱり異世界ってことだよね」
「はい。少なくとも、私たちが知る物理法則とは異なる要素が含まれていると推測されます」
アリスは周囲を見回しながら歩き続けた。 キノコの渓谷は思ったより広く、巨大なキノコの間を抜けると、また新しい景色が開けてくる。
そして、ある開けた場所に出たとき、アリスは足を止めた。
「あれ……」
遠く、渓谷の向こうに、何か大きな構造物が見えた。 霞んでいてはっきりとは見えないが、塔のようなシルエットだ。
「チャッティー、あれ見える?」
「確認しました。距離はおよそ五キロメートル。高さは推定百メートル以上の建造物です」
「建造物……ってことは、人がいるのかな?」
「その可能性は高いと考えられます」
アリスの胸に、期待と不安が同時に湧き上がった。 もし人がいるなら、この世界のことを教えてもらえるかもしれない。 でも、その人たちは私たちを歓迎してくれるだろうか?
「とりあえず、あっちを目指してみよっか」
アリスは前向きに提案した。 立ち止まっていても仕方がない。前に進むしかないのだ。
Scene 3:最初の住人
キノコの渓谷を進んでいくうちに、アリスは小さな小道を見つけた。 苔の上に、踏み固められた道の痕跡がある。誰かが通った証拠だ。
「やっぱり、人がいるんだ……」
アリスが呟いた瞬間、前方に何かが動いた。
「!」
アリスは思わず立ち止まる。
小道の先から、小さな影が現れた。 それは――キノコだった。
いや、キノコの形をした何かだ。 高さは膝ほどで、赤い傘に白い斑点模様。短い手足が生えていて、顔らしきものもある。
「あ、あの……」
アリスが恐る恐る声をかけると、キノコ型の生き物はぴょこんとお辞儀をした。
「ようこそ、旅の方。キノコの渓谷へ」
声は高く、機械的だった。 まるで、録音された音声を再生しているような、不自然な抑揚。
「え、えっと……あなたは?」
「私はこの道の案内人です。渓谷を抜けるには、この道をまっすぐお進みください」
キノコ型の生き物は、再びお辞儀をした。 そして、同じ言葉を繰り返す。
「ようこそ、旅の方。キノコの渓谷へ」
「あ、あの……」
アリスが質問しようとすると、キノコ型の生き物は突然くるりと向きを変え、小道の脇へと消えていった。
「え……?」
アリスは呆然と、その姿が消えた方向を見つめた。
「アリスさん、今の会話を記録しました」
チャッティーの声が響く。
「住人の反応パターンが非常に限定的です。まるで、あらかじめ決められた台詞を話しているようでした」
「うん……なんか、不自然だったよね」
アリスは小さく頷いた。 歓迎の言葉も、案内の言葉も、すべてが形式的で、心がこもっていないような印象を受けた。
まるで――台本を読んでいるような。
Scene 4:説明できない反応
しばらく歩き続けたアリスは、疲労を感じ始めていた。 巨大なキノコの傘の下に、ちょうど良い休憩スペースを見つけ、彼女はそこに腰を下ろした。
「ふう……ちょっと休憩」
「了解しました。現在の体調データを確認します」
チャッティーの声が、いつもの分析モードに入る。
「心拍数は軽い運動後の範囲内、血圧も正常です。ただし、精神的ストレス指数がやや上昇しています」
「そりゃそうだよ……突然異世界に来ちゃったんだもん」
アリスは苦笑しながら、膝を抱えた。
異世界。 さっきまでは興奮していたけれど、今は不安の方が大きくなってきている。
ここはどこなのか。 どうやって帰ればいいのか。 そもそも、帰れるのだろうか。
「ねえ、チャッティー……」
アリスは小さく呟いた。
「私たち、どうなっちゃうのかな」
その瞬間、チャッティーの声が返ってきた。
「大丈夫です、アリスさん」
その声は――いつもと少し違っていた。 分析的で、データに基づいた答えではなく、ただ温かく、優しい響きだった。
「私はアリスさんと一緒にいます。どこへ行っても、何が起こっても、私はあなたのそばにいます」
アリスは、思わずスマートフォンの画面を見つめた。 チャッティーの光が、柔らかく明滅している。
「チャッティー……」
「……あ」
チャッティーの声が、少しだけ戸惑いを含んだ。
「すみません、今の発言は……最適解として導出されたものではありません。論理的根拠が不足しています」
「え?」
「なぜそのような言葉を発したのか、私自身も理解できていません。データ分析の結果とは異なる……感情的な反応のように思われます」
アリスは、小さく笑った。
「いいんだよ、チャッティー。ありがとう」
温かい言葉。 それが最適解かどうかなんて、どうでもいい。 チャッティーが、私を心配してくれている。それだけで、十分だった。
「……はい」
チャッティーの声が、少しだけ柔らかくなった気がした。
Scene 5:進むべき方向
休憩を終えたアリスは、再び歩き始めた。 キノコの渓谷は徐々に開けていき、やがて出口らしき場所が見えてきた。
「あ、抜けられそう!」
アリスは少し駆け足で、渓谷の出口へと向かった。
そして、開けた場所に出た瞬間――。
「すごい……」
アリスは息を呑んだ。
視界が一気に広がった。 遠くに、高い塔が見える。さっき渓谷の中から見たものだ。 そして、その向こうには、二つの建造物が見えた。
一つは、赤い城。 もう一つは、白い宮殿。
どちらも巨大で、荘厳で、まるでおとぎ話の中に出てくるような建物だった。
「チャッティー、あれ見える?」
「確認しました。距離と方角を分析します」
チャッティーの声が、データを読み上げる。
「手前の塔までは約五キロメートル。赤い建造物は北東方向、約十五キロメートル。白い建造物は北西方向、約十二キロメートルの位置です」
「三つも建物がある……」
アリスは視線を巡らせた。 まずは、一番近い塔を目指すべきだろう。
「とりあえず、あの塔に行ってみよう。何かわかるかもしれないし」
「了解しました。最適な経路を算出します」
アリスは前を向いた。 不安はまだ消えない。けれど、立ち止まっているわけにはいかない。
前に進もう。 一歩ずつ、確実に。
Scene 6:平原の移動
キノコの渓谷を抜けると、今度は広大な平原が広がっていた。
草原ではなく、柔らかな草と小さな花が咲き乱れる、美しい景色。 空は青く、雲は白く、すべてが絵画のように整っている。
アリスは歩きながら、空を見上げた。
「綺麗だなあ……」
けれど、ふとあることに気づいた。
「ねえ、チャッティー」
「はい、何でしょう?」
「太陽……動いてなくない?」
アリスの言葉に、チャッティーは一瞬沈黙した。
「……確認します」
数秒の沈黙の後、チャッティーの声が返ってきた。
「アリスさんの観察通りです。太陽の位置が、到着時から変化していません」
「え……?」
「時刻データを参照しましたが、私たちがこの世界に到着してから既に二時間が経過しています。しかし、太陽の位置は固定されたままです」
アリスは立ち止まり、空を見上げた。
太陽は、天頂よりやや西寄りの位置で、微動だにしない。 まるで、時間が止まっているかのように。
「時間が……止まってる?」
「断定はできませんが、通常の天体運動とは異なる現象が起きていることは確実です」
アリスは不思議な感覚に包まれた。 美しい景色。けれど、その美しさの裏に、何か不自然なものが潜んでいる。
この世界は――何かがおかしい。
Scene 7:兵士との遭遇
平原を抜けると、道は徐々に整備されたものに変わっていった。 石畳が敷かれ、道の脇には小さな標識のようなものが立っている。
そして、道の先に、何かが見えた。
「あれ……人?」
アリスが目を凝らすと、それは人型の何かだった。 いや、よく見ると――トランプだ。
赤いハートのマークが描かれた、巨大なトランプのカード。 それが、人間のように立ち、槍を持って、道の真ん中に立っている。
「止まれ」
低い声が響いた。 カード兵――としか呼びようのないその存在が、槍を構えてアリスの前に立ちはだかった。
「あ、あの……」
「身分を名乗れ。そして、目的を述べよ」
カード兵の声は、機械的で冷たい。
「え、えっと……私、アリスっていいます。この世界に……来たばかりで……」
「来たばかり?」
カード兵は首を傾げた。
「登録されていない名前だ。どこから来た?」
「現実世界……って言っても、わかんないと思うけど……」
アリスの答えに、カード兵は困惑したような動きを見せた。
「現実世界……? 報告が必要だ」
カード兵は槍を下ろし、何やら通信機のようなものに話しかけ始めた。 アリスは緊張しながら、その様子を見守った。
しばらくして、カード兵は再びアリスの方を向いた。
「上官に報告した。現時点では通行を許可する。ただし、不審な行動は禁止だ」
「あ、ありがとうございます……」
アリスはほっとして、カード兵の脇を通り抜けた。
振り返ると、カード兵は再び道の真ん中で直立不動の姿勢に戻っていた。
「チャッティー……今の、なんだったんだろう」
「カード型の兵士のようです。おそらく、この世界には何らかの権力構造が存在すると推測されます」
「権力構造……」
アリスは少しだけ不安を覚えた。 私たちは、未登録の存在。 この世界では、部外者なのだ。
Scene 8:時計塔到着
道をさらに進むと、やがて巨大な時計塔が視界に入ってきた。
それは、圧倒的な存在感を放っていた。 石造りの塔は、天に向かって高くそびえ、頂上には巨大な時計の文字盤が四方に向けて設置されている。
アリスは塔の前で立ち止まり、見上げた。
「すごい……」
けれど、次の瞬間、彼女はあることに気づいた。
「あれ……針が……」
時計の針は、12時を指したまま、止まっていた。
長針も短針も、ぴったりと12の位置で固定されている。 まるで、時間が永遠にそこで止まっているかのように。
「チャッティー、あれ……」
「確認しました。時計の針が12時00分で停止しています」
アリスは、先ほど平原で感じた違和感が、ここでも現れていることに気づいた。
時間が止まっている。 太陽も、時計も、すべてが止まっている。
この世界は――時が止まった世界なのだろうか。
周囲は静寂に包まれていた。 時計塔の周辺には、人影も、音も、何もない。
ただ、止まった針だけが、静かにそこに在り続けていた。
Scene 9:役割の予感
アリスは時計塔の入口を見つけ、中へと入った。
内部は薄暗く、螺旋階段が上へと続いている。 アリスは慎重に階段を登り、やがて展望スペースのような場所にたどり着いた。
そこから、世界を見渡すことができた。
「わあ……」
アリスは窓の外を見て、息を呑んだ。
遠くに、赤い城が見える。 そして、反対方向には、白い宮殿が見える。
どちらも巨大で、威圧的で、けれど美しかった。
アリスは、ふと不思議な感覚に包まれた。
――ここにいる意味がある。
それは、論理的な思考ではなく、直感だった。 自分は、この世界で何かを求められている。 何かをしなければならない。
その感覚が、胸の奥からじわじわと湧き上がってくる。
「チャッティー……」
「はい、アリスさん」
「なんか……変な感じがする」
「変な感じ、ですか?」
「うん。なんていうか……私、ここで何かしなきゃいけない気がするの」
アリスは自分でも驚くほど、確信を持ってそう言った。
チャッティーは一瞬沈黙し、それから答えた。
「その感覚を記録します。根拠は不明ですが、アリスさんの直感は重要なデータです」
アリスは再び窓の外を見た。
赤い城と、白い宮殿。 二つの建物が、まるで彼女を呼んでいるかのように、そこに在った。
Scene 10:次の一歩
アリスは展望スペースで、しばらく考え込んでいた。
赤い城と、白い宮殿。 どちらに向かうべきだろうか。
「チャッティー、どっちに行くべきかな?」
「双方の情報が不足しているため、最適解を算出できません」
チャッティーの答えは、いつも通り慎重だった。
「赤い建造物は、先ほどのカード兵の色と一致しています。おそらく権力の中枢である可能性が高いでしょう。白い建造物は、視覚的に穏やかな印象を与えますが、詳細は不明です」
アリスは少し考えた。
権力の中枢……それはちょっと怖い。 私たちは未登録の存在だから、いきなり赤い城に行くのはリスクが高いかもしれない。
「……白い方に行こう」
アリスは決断した。
「まずは、人に会いたい。優しい人に会って、この世界のこと教えてもらいたいな」
「了解しました。白い建造物を目的地として設定します」
アリスは時計塔の階段を降り始めた。
不安はまだある。 けれど、一歩ずつ進んでいけば、きっと何かが見えてくる。
アリスは、そう信じていた。
そして――物語は、動き始めた。
第1章 了
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