第2節:深淵の守護者(アビス・ガーディアン)
地響きは、不規則な脈動を伴って深淵の底を震わせていた。
先ほどまで霊泉の香気に満ちていた穏やかな空間は、一瞬にして刺すような緊張感に塗り替えられる。岩壁の隙間から、パラパラと乾いた砂礫が落ち、天井からは数百年もの間沈黙を守っていた氷柱のような岩が崩れ落ちた。
「……何だ? 地震か、それとも……」
クロムは、抱え持った布包みの聖剣――彼にとっての「光る棒」を強く握り直した。
鑑定士としての本能が、喉の奥を掻きむしるような警鐘を鳴らしている。未だかつて経験したことのない、質量そのものが意思を持って迫ってくるような圧倒的な圧迫感。
その震源地は、二人が目指すべき「地上への道」を塞ぐようにして、闇の奥から這い出してきた。
「クロム様、後ろへ……!」
スフィアが鋭い声と共に、彼の前に進み出た。
彼女の手に握られた剣は、先ほどの戦いで刃毀れし、輝きを失ったままだ。しかし、彼女が地面を蹴り、前に出るその瞬間の「加速」は、かつての彼女とは比較にならないほど鋭かった。
闇の中から姿を現したのは、六本の筋骨隆々とした腕を持ち、全身を黒檀のような外殻で覆った異形の巨人だった。顔と呼べる場所には目も鼻もなく、ただ巨大な結晶体のような単眼が、不気味な赤色を放って点滅している。その体躯は五メートルを超え、一歩踏み出すたびに硬質な岩盤が飴細工のように容易く砕け散った。
『深淵の番人(アビス・ガーディアン)――絶対なる捕食の暴君――』
クロムの鑑定眼が、その存在を解析しようとする。だが、表示される情報はエラーのノイズに塗れていた。
【名称:アビス・ガーディアン(免疫システム)】
【状態:管理者権限の不当行使を検知……排除フェーズに移行】
【警告:記述の不整合率 98% 物理干渉による防御は困難です】
「排除……? こいつ、俺たちが『水』を作ったりしたのが気に入らないってことか……!?」
クロムが震える間もなく、番人の一本の腕が、目にも止まらぬ速さで振り抜かれた。
回避不能。そう直感した瞬間、スフィアの身体が「跳ねた」。
空気を切り裂く轟音。
スフィアは反射的に剣を盾にしたが、驚いたのは彼女自身だった。
(――速い!? 自分の体が、まるで思考を追い越して動いている……!?)
巨人の剛腕を、彼女は紙一重で受け流していた。
以前の彼女であれば、反応することすら叶わず、一撃で肉塊に変えられていたはずの速度。
スフィアは、自身の肉体に起きている「変質」の正体を、この極限状態の中でようやく理解し始めていた。
(そうか……あの時だ。クロム様が私の呪いを解いてくださった、あの瞬間。……私の『記述』そのものが、書き換えられていたのだ……!)
絶望的な死の呪いを削除し、新たな属性を上書きされた際、彼女の筋力、反射速度、魔力容量といったすべての基礎パラメーターは、人間の限界を遥かに超越した「管理者直属の守護者」としてのスペックへと跳ね上がっていたのだ。彼女は今、自覚なきままに「神の兵士」へと昇華されていた。
キィィィィン、と鼓膜を劈くような金属音が響き、衝撃波が空洞を駆け抜けた。
スフィアは後方に数メートル吹き飛ばされたが、まるで羽毛のような軽やかさで着地を決める。
「……。信じられません。これほど強大な攻撃を受けて、まだ身体が軽い。それどころか、視える……敵の動きが、止まっているかのように……!」
スフィアは、自分の掌を驚愕の眼差しで見つめた。
だが、戸惑っている暇はなかった。番人は執拗だった。六本の腕が、それぞれ独立した生き物のようにうごめき、死の礫(つぶて)を多角的に打ち込んでくる。
ドゴォォォン!!
スフィアが先ほどまでいた場所の岩盤が粉砕され、巨大なクレーターができる。
彼女は空中を蹴るようにして回避し、そのまま巨人の懐へと飛び込んだ。
「……っ、あああぁぁぁっ!」
スフィアは叫びと共に剣を振るう。
一撃、二撃と、巨人の拳を弾き飛ばしていく。
だが、絶望は消えない。
スフィアの肉体は超人化していても、彼女の手に持つ剣は、帝国の騎士団で支給された、ただの「使い古された鉄」に過ぎなかった。
「……刃が、通らない……ッ!」
渾身の斬撃を巨人の外殻に叩き込んだが、火花が散るだけで、傷一つ付けることができない。それどころか、斬撃の衝撃で剣には新たな亀裂が走り、スフィアの腕に激しい痺れが走る。
どれほどスペックが上がろうと、武器が伴わなければ、この「不落の壁」を崩す術はない。
対して、番人は無傷。その単眼が不気味に明滅し、六本の腕がさらに肥大化していく。
猛攻は次第に密度を増し、スフィアの驚異的な反応速度をもってしても、徐々に逃げ場が失われていく。
「スフィア! もういい、逃げてくれ! 君なら一人で逃げられる!」
「ダメです……ッ! クロム様を置いて……逃げるわけには……ッ!!」
スフィアの肩に、巨人の拳が掠める。
それだけで彼女の重厚な肩当てが砕け散り、鮮血が舞った。
(ダメだ……。このままじゃ、スフィアが死ぬ。俺のために、あんなボロボロの剣で……!)
クロムは、恐怖で硬直する自分の指先を見つめた。
鑑定士という、ただ情報を読み取るだけの無能。
自分を裏切ったザックスたちの言葉が脳裏をよぎる。
「お前はただのゴミだ」「鑑定しかできないゴミは、ゴミらしくここで朽ちろ」。
――ふざけるな。
ゴミなんかじゃない。俺は、俺を信じてくれたこの人を、守るんだ。
その強い拒絶の意思が、クロムの中で臨界点に達した、その時。
世界から、色彩が剥げ落ちた。
静止したモノクロームの世界。
振り上げられた番人の巨大な拳。必死にそれを防ごうとして、砕け散る寸前の剣を握りしめるスフィアの横顔。飛び散る血飛沫さえも、空中で静止している。
そして、クロムの瞳の前にだけ、これまでにないほど禍々しく、そして厳かな黄金のウィンドウが展開された。
《管理者(アドミニストレーター)への【物理干渉】を確認。……世界記述の安全保障プロトコルを起動します》
《対象オブジェクト:Abyss_Guardian(System_Immunity)》
《異常検知:管理者の存在を否定する記述。……これを【不整合(エラー)】として処理しますか?》
[ DELETE(削除) / DISABLE(無力化) ]
「……削除……無力化……」
クロムの喉が鳴る。
これまでのように「毒を水に変える」といった、既存のものを加工する提案ではない。
目の前の生命体を、存在そのものを「なかったこと」にするか、あるいはその機能を根こそぎ奪うか。あまりにも冷酷で、神の如き残虐な選択肢。
「また、これか……。……また、この『棒』が、俺に何かさせようとしてるのか……」
クロムは震える手で、布に包まれた聖剣を見つめた。
スフィアには見えていないこのウィンドウ。彼女が今、命を懸けて戦っている怪物を、自分は指先一つで消し去ることができる。
その全能感が、吐き気がするほど恐ろしい。
だが、迷っている時間はなかった。
スフィアの剣は、あと一撃で粉々に砕ける。彼女の命の灯火が、今まさに消えようとしている。
(……やってやる。俺は、もう……スフィアが傷つくのを見たくないんだ!)
クロムは叫ぶように、【DELETE】の文字を、力任せに押し込んだ。
《承認(アセプテッド)。……対象の記述を【万象記述律】より抹消します》
刹那、世界の記述が狂った。
クロムの目に見えるモノクロの世界で、アビス・ガーディアンを構成していた無数の「剛健」「不死」「絶対」といった文字列が、まるで灰が風に舞うように、端からパラパラと崩れ落ちていく。
色彩が世界に戻った瞬間。
「……え?」
スフィアの驚愕の声が漏れた。
彼女がまさに、死を覚悟して最後の一撃を受けようとしたその瞬間――。
目の前にいたはずの巨人が、まるで最初からそこに存在しなかったかのように、輪郭から霧散していったのだ。
肉が弾ける音もしない。断末魔の叫びもない。
ただ、黒い雪のような塵が虚空に舞い、数秒後には、そこには何も残らなかった。
巨人が踏みしめていた岩盤の亀裂だけが、その存在の証として刻まれている。
「……消えた? 今、一体……何が……」
スフィアは、刃毀れした剣を構えたまま、呆然と立ち尽くしていた。
彼女の理解を遥かに超えた事象。
自分を追い詰めていた絶対的な死が、一瞬で「無」に帰した。
彼女は、崩れ落ちる塵の中に、クロムの指先が何かを弾くような動作をしていたのを見逃さなかった。
「……ふぅ。……危なかった。……やっぱり、この『棒』、とんでもない武器だよ。あんな巨大な怪物まで、一瞬で消し飛ばしちゃうなんて」
クロムは、膝をつきながら荒い息を吐いた。
自分の指が触れた場所。あの、冷たい選択肢の感触。
自分が「消えろ」と願ったから消えたのではない。この『棒』が、自分の意思を読み取って、高次元の消滅魔法を放ったのだ。そうに違いない。そう思わなければ、自分の正気が保てない。
「クロム様……。今のは……貴方様が,なされたのですか……?」
スフィアが、震える足取りでクロムに歩み寄る。
その瞳には、恐怖ではなく、言い知れぬ畏怖と、ある種の色を帯びた輝きが宿っていた。
「あー、驚いたよな、スフィア。……すごすぎるだろ、これ。……きっと、伝説の聖剣なんて目じゃないくらいの、とんでもない遺物なんだ。……あー、怖い怖い。こんなの持って歩くなんて、生きた心地がしないよ」
クロムは必死に笑いを作った。
だが、スフィアの視線は、もはやその『棒』など見ていなかった。
「……。……ええ。貴方様の仰る通りです、クロム様。……その『剣』こそが、すべての理を統べるのですね」
彼女は、ボロボロになった自分の剣を鞘に納め、深く、深く頭を垂れた。
彼女には確信があった。今の現象は、武器が放つ魔法などではない。
自分を呪いから解放し、この短時間でこれほどまでに変質させた、クロムという存在そのものの力。彼がこの世界に対して「其処に大え」という「意思」を示したのだ。そして世界は、その意思に従った。
スフィアは、自分の体に満ちる未知の力と、目の前で起きた奇跡を反芻しながら、一つの決意を固めていた。
この少年は、この腐りきった帝国の、あるいは世界の新たな主となるべき御方だ。
ならば、自分はその最初の剣、最初の盾として、魂の最後の一片まで捧げよう、と。
「……さあ、行きましょう。クロム様。……道は、拓かれました」
「……ああ。……そうだね。……行こう。もう、こんな暗いところは飽き飽きだ」
クロムは再び、布に包まれた『恐怖の源』を抱え直した。
深淵の番人を「削除」したことで、この階層のバランスは完全に崩壊した。
二人の歩みに合わせて、周囲の壁が震える。
だが、それは怒りによる震動ではなく、主を迎え入れるための、畏怖に満ちた震えであった。
クロムとスフィアは、深淵の闇を切り裂き、地上への帰路へと一歩ずつ登り始める。
その背中を見送る者は、もう誰もいなかった。
ただ、消滅した番人がいた場所から、微かな「修正ログ」の残光が、クロムにしか見えない文字となって、静かに闇に溶けていった。
《Error_Report: Abyss_Guardian_Deleted. ……Result: Accepted.》
《管理者権限による【排除】完了。……これより、地上階層への記述接続を開始します》
二人の歩みは、もはや絶望に追われる者のそれではなく、世界を再定義する者の、力強い足取りへと変わっていた。
次の更新予定
万象記述律(アカシック・ソースコード)の編纂者 @marmar525
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