万象記述律(アカシック・ソースコード)の編纂者

@marmar525

第一章:不遇の鑑定士と、神の記述(コード) 第1節 生存の書き換え(サバイバル・エディット)

迷宮の底、そこは静止した死の世界だった。

『天を衝く奈落』の最深部は、地上のいかなる場所とも異なる独自の法則によって支配されている。大気は停滞し、湿り気を帯びた冷気は、肌に触れるだけで生気(バイタリティ)を吸い取っていくかのようだ。クロムとスフィアの二人が座り込んでいる場所は、巨大な岩の空洞の片隅だったが、そこには数千年もの間、一度も太陽の光が届いたことのない絶対的な拒絶があった。


「……はぁ、はぁ。……疲れた。スフィア、少し休もう」


 クロムは、泥と血に汚れた床の上に膝を折った。

 彼の身体を動かしているのは、もはや筋肉の力ではなく、死への恐怖と、隣にいる女性騎士を救わなければならないという強迫観念に近い使命感だった。だが、精神的な疲弊は肉体の限界を遥かに超えている。自分の細い腕を見つめれば、震えが止まらない。

 布に包まれた『聖剣』――彼にとっての「光る棒」を抱きしめるように持っているが、その重みさえ、今の彼には大樹を引きずっているかのように感じられた。


「申し訳ありません、クロム様。……私の歩調が、貴方様を疲れさせてしまったのですね」


 スフィアが、すぐさま傍らに跪いた。

 彼女の甲冑は、ザックスたちに見捨てられた際の衝撃で至る所が凹み、表面の銀メッキは無惨に剥がれ落ちている。しかし、その瞳だけは、暗闇の中で不思議な光を湛えていた。それは先ほど、クロムによって「死の呪い」を書き換えられた影響なのか、彼女の魂の輪郭が、以前よりも遥かに鮮明に、力強くなっている証左であった。


「いや、違うんだスフィア。君のせいじゃない。……ただ、腹が、減って……」


 情けない音が、深淵の静寂に響いた。

 クロムの腹の虫が、生存の危機を訴えている。

 最後にまともな食事を摂ったのは、迷宮の第一層キャンプでのことだ。それ以降、死に物狂いで最深部を目指し、そこで裏切られ、死の淵を彷徨った。

 人間の肉体としての限界は、とっくに超えている。

 胃袋が、自らの壁を削り取るような空腹の痛みを訴え、視界がチカチカと明滅し始めている。


「あー……喉もカラカラだ。……水も食料も、全部ザックスたちが持ってる荷物袋(マジックバッグ)の中だったもんな。……あの野郎、せめて保存食の干し肉くらい置いていきやがれってんだ」


 クロムは毒づきながら、乾いた喉を押さえた。唾液すら出ない。

 深淵の空気は極度に乾燥しており、一呼吸ごとに肺から水分が奪われていく。肺の奥が、冷たい空気によって常に微かな熱傷を負っているような錯覚さえ覚える。


 周囲を見渡せば、不気味な色彩を放つ苔や、どろどろとした正体不明の粘液が岩壁を伝っている。

 鑑定士としての『眼』が、それらの情報を無情に提示した。


【名称:深淵の腐食苔 / 特性:強酸・致死】

【名称:冥府の這い虫 / 特性:麻痺・腐敗】


「食えるわけないよな。……視える情報が『死ね』って言ってるようなもんだ」


 クロムは溜息をつき、視線を足元に向けた。

 そこには、岩の窪みに溜まった、どろりとした紫色の液体があった。

 『黄泉の腐泥(タルタロス・ウーズ)――生者の魂を溶かす冥府の滴――』。

 深淵において最も恐れられる猛毒の一つだ。一滴でも皮膚に触れれば、そこから肉が壊死し、骨まで溶かす。さらに悪いことに、この毒液は周囲の魔素を吸収して自己増殖する性質を持っている。表面からは、吸い込めば肺が腐るような、粘り気のある悪臭が立ち昇っていた。


 鑑定士の眼が、その液体の上に赤い警告文字を躍らせる。


【Victory_Chance: 0% / Lethality: 100% / Action: Immediate_Evacuation】

(勝算:0% / 致死性:100% / 行動:直ちに退避せよ)


「……視たくない。こんなのが、ただの『美味しい水』だったら、どんなに幸せか……。キンキンに冷えてて、喉を通るだけで生き返るような……そんな水なら、今すぐ腹いっぱい飲み干してやるのに」


 クロムが渇ききった瞳で、その紫色の毒沼を凝視した。

 鑑定士として、その構成成分を無意識に解析しようとした、その刹那だった。


 唐突に、クロムの視界からだけ、色彩が剥げ落ちた。

 時間の流れが極限まで引き延ばされ、万象がモノクロームのスケッチへと変貌する。


「……っ! また、これか……!」


 クロムは小さく呻いた。

 あの時、スフィアの呪いを解いた時と全く同じ、世界が数式と文字に分解される感覚。

 スフィアはすぐ隣で、時が止まったかのように驚きの表情で固まっている。彼女には、この変質した世界は見えていない。

 そして、クロムの網膜を占拠するようにして、黄金に輝く巨大なウィンドウが展開された。


《管理者(アドミニストレーター)による【環境記述の上書き要求】を検知》

《対象オブジェクト:Tartarus_Ooze》

《提案(リコメンド):【浄化・聖質化】により【神代の霊泉】へ再定義しますか?》


[ YES / NO ]


「……。今度は、この毒の沼を書き換えるっていうのか……?」


 クロムの背筋を、冷たい汗が伝った。

 スフィアの呪いを消し去った時、彼はそれを「奇跡」だと思い込もうとした。だが、目の前の光景は、この得体の知れない力が「対象を選ばない」ことを冷酷に示している。

 人間だけではない。この世界に存在する「物」の定義さえも、自分の指先一つで、文字通り神の如く改変できてしまう。

 他者には見えない、自分だけに提示されるこの究極の選択。


 その事実が、鑑定士という「世界の観測者」に過ぎなかった彼には、何よりも恐ろしかった。


 だが。

 乾ききった喉が、焼けるように悲鳴を上げている。

 意識が遠のき、今にも力尽きそうな自分。そして、同じように疲弊しているスフィア。

 もしここで「NO」を選べば、待っているのは確実な死だ。


(……いいよ。もう、どうにでもなれ……。俺たちは、生きて帰るんだ!)


 クロムは逃げるように、虚空に浮かぶ――スフィアには見えないはずの――【YES】の文字を、震える指先で強く押し込んだ。


《承認(アセプテッド)。……実行権限を確認。……記述(コード)の【再定義】を開始します》


 その瞬間、世界が激しく脈動した。

 クロムの目に見えるモノクロの記述が、指が触れた場所から黄金の粒子となって崩れ、毒沼を呑み込んでいく。


 色彩が世界に戻ると同時に、傍らで見守るスフィアの目に「現象」が映し出された。

 どろどろとしていた紫色の液体から、黒いノイズのような霧が噴き出し、それが霧散した跡には、水晶のように澄み渡った液体が満ちていた。

 深淵の腐臭は消え失せ、代わりに万物を潤す、あまりにも清冽で芳醇な香気が溢れ出す。


『――記述の変更が完了しました。再定義名称:神代の霊泉(エーテル・フォント)』


「……。はは……本当に、水に、なっちゃったよ……」


 クロムは、力なく笑いながら、目の前の泉を見つめた。

 もはやそれは、毒の沼ではない。

 帝国の聖都にある大聖堂の泉。それすらも泥水に見えてしまうほど、純粋で、生命力に満ち溢れた「水」がそこにあった。


「……クロム様。やはり、貴方様は……。今、何もない空を指差した瞬間……毒が、聖水へと塗り替えられました。貴方様のその慈悲深い仕草が、この場所の理を屈服させたのですね」


 スフィアが、震える声で呟いた。

 彼女には、クロムが見ているウィンドウも見えていなければ、システム音声も聞こえていない。ただ、彼が虚空に触れるという不思議な動作をした直後、絶望が救済へと塗り替えられたという「結果」だけが、彼女にクロムという存在の至高性を確信させていた。


「いや、違うだろスフィア! ……きっと、あれだ! この『光る棒』だよ! さっきの呪いの時もそうだったけど、俺が鑑定して『いい加減にしろ』って思った瞬間に、この道具が反応して起動スイッチが入るんだ! 俺の力じゃなくて、全部この拾った道具の性能なんだよ!」


 クロムは、爆発しそうな心臓を抑えながら、必死に「道具の性能」に責任を押し付けた。

 自分が世界の理を選び取ったなど、認めてしまえば、自分の存在そのものが恐ろしくて耐えられなくなるからだ。


 彼は恐る恐る、透明になった泉に手を浸した。

 ひやり、と心地よい感覚が指先から伝わる。

 彼はその水を両手で掬い、一口、喉に流し込んだ。


「……っ!? う、美味い……ッ!!」


 驚愕が突き抜けた。

 水というよりも、純粋なエネルギーを飲んでいるような感覚だった。

 喉を通るたびに、干からびていた細胞が一つ一つ潤い、歓喜の声を上げているのが分かる。

 舌の上に広がるのは、ほのかな甘みと、心を安らげる花の香りのような余韻。

 空腹感は一瞬で消え去り、蓄積していた精神的な疲労までもが、春の雪が溶けるように霧散していった。


「スフィア! 君も飲んでみて! すごいぞ、ザックスが持ってた最高級のポーションより、何倍も元気になる!」


「……はい、謹んでいただきます。クロム様が授けてくださった、この恵みを」


 スフィアが恭しく泉の水を口にする。

 その瞬間、彼女の背筋がピンと伸び、その瞳に宿る輝きが一段と増した。

 呪いを解かれた際にも驚異的な回復を見せた彼女だったが、この『霊泉』を摂取したことで、彼女の肉体はもはや人間としての限界値を軽々と突破し始めていた。


「……素晴らしい。全身の魔力回路が、かつてないほど円滑に、そして力強く脈動しています。クロム様……貴方様は、本当に……」


「あー! 言わなくていい! 分かってる、この拾った『棒』がすごいんだろ? 分かってるって!」


 クロムは耳を塞ぐようにして立ち上がった。


 二人は、泉のほとりでしばしの間、静寂に身を委ねた。


 深淵の空気は、今やこの一角だけが、穏やかな春の陽気のように澄み渡っている。

 クロムは、自分の掌を見つめた。

 汚れが落ち、先ほどよりも少しだけ白く、そして滑らかになったような気がする自分の手。


「……スフィア。……君は、本当に大丈夫なのか? 身体のどこか、痛いところとか、変な感じとか……ないか?」


「はい、クロム様。どこも、痛くありません。それどころか、心の中にあった『影』までもが消えてしまったような、そんな清々しささえあります。……貴方様が私を見捨てず、救う道を示してくださった。その事実が、今の私の力の源なのです」


 スフィアの言葉に、クロムは照れ隠しのように鼻の頭を擦った。


「……。……よし。水分補給は完璧だ。おまけに腹も膨れたしな。……これなら、地上まで走り抜けられるかもしれない。……行こう、スフィア。……こんな暗いところ、早く出なきゃな」


「はい。どこまでも。クロム様の目指す場所へ」


 二人は、再び深淵の奥へと進んでいく。


 だが、その歩みはもはや「逃亡」ではなかった。

 クロムが何か不整合(バグ)を鑑定するたびに、彼にしか見えない黄金のウィンドウが問いかけ、彼がそれを拒絶(NO)し、あるいは承認(YES)することで、世界の記述は書き換えられていく。


 彼らが歩みを進めるたびに、周囲の毒苔はしおれ、代わりに清らかな野花を思わせる発光植物が芽吹いていく。


 それは、もはや脱出という名のサバイバルではなく。

 一人の少年による、世界の『再編(パッチ・適用)』という名の、大いなる旅路の始まりに過ぎなかった。

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