第18話

 機械音だけが響くエレベーターの中は、息苦しいほど静かだった。

 沖は何も喋らず、タブレットを指先で滑らせている。彼の視線は一度も瑠生の方を向かない。

 密閉された空気が、じわじわと肺を圧迫していく。

 自分の心臓の音が、やけに大きく響いた。


 ──ああ、息が持たない。


 そう思ったところで、ようやく『八階』のランプが点いた。

 扉が開いた瞬間、瑠生は外の空気を求めるように飛び出した。

 そっと息を吸うと、胸が痛いほど冷たい。緊張がマックスに振り切っている。

 恐々、沖について歩きながら周りを見渡した。


 通路の両端には、ガラスで仕切られた会議室がいくつも並んでいる。

 中では、スーツ姿の男女が額を突き合わせて話をしていた。

 そのうちの一人の女性が、瑠生の制服姿に気づき、目を丸くしている。

 けれどすぐに、見なかったことにするように視線を逸らした。


 ……そんなに場違いかな。


 恥ずかしさと居たたまれなさが混ざって、足が早まる。

 そのとき、沖の足が止まった。慌ててブレーキをかける。

 重厚なドアの前で、沖がカードキーをセキュリティボックスに差し込む。

 電子音が鳴り、ロックが解除された。

「……ここだ」

 低く告げると、沖がドアを押し開ける。

 次の瞬間、瑠生は思わず息を呑み、半歩後ずさった。


 広々とした部屋の真正面には、床から天井まで届く大きな窓。

 閉じ込められた景色は、一枚の絵画のように迫力があった。

 机と応接セットしかないのに殺風景に見えないのは、圧倒的な存在感を醸しだす窓のせいだ。

 ドアの前で立ち尽くしていると、沖は窓際に背を向けて椅子に腰を下ろした。

 青とオレンジのグラデーションを背景に、書類を広げている。

 その光景は、まるで空に浮かんでいるように見えた。

 瑠生自身も、その中に溶け込んだような気分になる。


 静寂した空気にもじもじしていると、「座れ」と、沖がペンでソファを指し示した。

 黒い革張りのソファにそっと手を触れる。


 うわ。これ、絶対高いソファだ。 


 マットな光沢に戸惑いながらも、「失礼します」と言って、座面の端にちょこんと腰を下ろした。


「瑠生……だったな。ふく里で出会ったのを覚えている」

 ようやく口を開いてくれた沖に、心の奥でホッと息をつく。

「お、俺も覚えてます。中学のときと、少し前にお見えになりましたよね」

「最初に会ったとき、君は玄関まで送ってくれた。そして木蓮の話を一緒にしたな」

 書類に目を向けたままの沖が言う。


「覚えてたんですか」

 思わず声が漏れる。胸も熱くなってきた。 

 あんな前の、それもほんの少しの会話を覚えていてくれたなんて。

 ふく里の庭で交わした言葉がよぎると、会話だけじゃなかったことが頭に浮かぶ。


 俺、あのとき、沖さんに抱き締められたんだった。


 思い出してしまうと、顔を上げられなくなった。

 ここに来るまで忘れていたのに。こんなときに思い出すなんて。

 買収のことばかりを意識して、昔のことが頭から飛んでいた。

 ふく里で見たときも今も、沖は悪い人に見えない。

 ちょっと読めない行動するけど、話せばきっと、わかってもらえそうな気がする。


 希望が胸に広がるのを感じると、瑠生はソファからそっと立ち上がった。

 その動きに気づいたのか、沖の顔が正面を向く。

 目が合った瞬間、空気が止まったように感じた。

 二人っきりの空間に、瑠生の心音が沖まで届きそうで身体が震える。

 息をひそめていると、なぜか瑠生が口を開くのを沖が待っている気がした。

 小さく深呼吸をすると、自然と机の前まで歩み寄っていた。


「沖さん、お願いです。どうか、たけだ屋さんを買収するのはやめてください」

 言葉とともに深くお辞儀する。

 顔をそっと上げると、沖の表情は変わらず固い。

「なぜ、買収をやめなければならない」

 低く響く声。部屋の空気が、一気に冷たく引き締まる。

 胸に突き刺さるような鋭さを感じ、思わず身体が震えた。


 断られるのは当然だ。それはわかっている。

 自分が勝手に一縷の望みを抱いただけだ。

 一緒に木蓮を見て、話をして。そして、抱き締められたから。だから、助けてくれると思った。


 俺は、何を勘違いしていたんだろう。

 高校生ごときの頼みを、会社を経営する人が聞いてくれるわけがない。 

 バカだ。間抜けすぎる。


 呆然としていると、書類をバサッと机に置く音が聞こえて、ハッと我に返る。

「……あの。俺、す、すいません。不粋ぶすいっていうか、図々しいこと言いました。でも、どうしても、たけだ屋さんを取られたくないんです」

 切羽詰まったこの声は、芝居でも何でもない。

 真剣な気持ちだ。それだけでも、伝わってほしい、


「君は置屋の子で、たけだ屋とは関係ないだろう。それなのになぜ君が買収を取りやめることに必死なんだ」

 見上げてくる沖の表情は動かず、瑠生の言葉をじっと待っている。


 早く話さないと。

 ここを追い出されたら、今日を逃すともうチャンスはない──それだけはわかる。


 縮こまった気持ちをぐっと押し込め、両手をこぶしに変える。ゴクッと唾を飲み込むと、瑠生は震える声で拙い言葉を紡いだ。

 料亭と置屋の関係性を、必死に説明する。

 沖は口を挟まず、黙って聞いてくれた。けれど、眉ひとつ動かないせいで、逆に真意が読めない。


「だから、たけだ屋さんがなくなると、俺の家──ふく里の芸者は仕事がなくなるんです。他の料亭での仕事もあるけど、うちを一番贔屓にしてくれるのはたけだ屋さんなんです」

 言いながら、瑠生の足は一歩、二歩と沖に近づく。

「お母さんと女将さんは同じ芸者でした。そのときから二人の信頼は続いてるんです。それを、ふく里の芸者たちが受け継いでいます。それに、みんな向島の花街の歴史を途絶えさせないようにしているんです。最近、半玉にデビューした子もいます。どうか、女将さんや芸者たちの仕事を奪わないでくださいっ」


 一気に話すと瑠生は深く頭を下げた。

 英恵の顔が、ふっと浮かぶ。


 ──瑠生坊。あんぱん食べるかい?


 喉が詰まり、胸が熱くなる。もう、泣きそうだ。

 泣き落としなんて反則なのに、涙は勝手に溢れてくる。

「……半玉」

 沖がポツリと呟く。

 咲希のことを言ったのかと思った──けれど、それは大きな間違いだった。


「わかった。買収のことは一旦、保留にしよう」

「ほ、本当ですかっ」

 叫んだ声が震えた。胸の奥で、ずっと張り詰めていたものがスッとほどけた気がする。


 やっぱり、沖さんはいい人だ。誠意を持って話せば伝わるんだ。


 梅ちえたちの喜ぶ顔を思い浮かべていると、沖が信じられないことを口にした。

「ただし条件がある」

「じょ、条件……ですか」


 やはりただでは済まないのか。


 ガクッと肩が落ちる瑠生の前で、沖はスッと立ち上がった。

「条件は、たけだ屋とふく里の売上をこれまでの倍にしてもらう」

「えっ、売上を倍……ですか」

「そうだ。死に物狂いでやってみせろ。買収されたくなければな」

 お金を管理しているのは桔梗と椿で、売上のことなんて全くわからない。

 一回のお座敷がいくらなのかも知らないのに、こんな条件を飲み込んでいいのか。

 たけだ屋のことなんてもっと知らないのに、安請け合いしていいのだろうか。


「それと、もう一つ条件がある」

「もう一つ……ですか」

 売上を倍にするだけでもハードルが高いのに、まだ何を言う気だ。

 いや、やれることは何でもやる。自分にできることは全力でやってみせる。


 せっかく沖さんに気持ちが伝わったんだ。


「もう一つは、僕が料亭を予約したら、必ず半玉を呼んでもらう」

「半玉……ですか」

 咲希のことかな? さっき話に出たし。

 瑠生が考え込んでいると、沖がフッと笑った。

「名前は、蓮香だ。昔、一度だけ座敷で見たことがある半玉だ」

 その名前に、瑠生は固まった。


 ら、蓮香だって……そ、それは、俺……だ。


 思わず叫びそうになったのを、喉に力を込めて耐えた。

 蓮香……

 中学のとき、桔梗に頼まれて一度だけ半玉のフリをして座敷に上がった。

 そのとき名乗った名前が『蓮香』だった。


 動揺で頭が真っ白になっていると、机の上をコツコツと叩く音がした。ハッとして顔を上げると、さっきまで無表情だった沖が微笑んでいる。

「それをクリアすれば、買収の話はなかったことにしよう」

「なかったことにっ! ほ、本当ですかっ!」

 思わず前のめりになり、叫んだ。返事の代わりに、沖は無言でゆっくり頷く。

 やりま──と言いかけた言葉を飲み込んだ。

 心臓が徐々に高鳴ってくる。


 どうしよう、どうしよう……売上に、蓮香って、俺一人で決めていいのか。


 返事が出せずにいると、わざと荒々しく音を立てて沖が椅子にどんと座った。

「無理ならいい。売却の話を進めるだけ──」

「ま、待ってくださいっ! そ、その条件、飲みますっ」

 勢いで言ってしまった。もう、あとには引けない。

 でも、このまま何もせず指を咥えているよりはマシだ。


 姐さんたちに話してわかってもらおう。

 お母さんから、女将さんに話してもらおう。

 蓮香のことは──なんとかする。なんたって、本人がここにいるのだから。


「この条件を本当に飲めるのか。売り上げもそうだが、蓮香の方もだ。以前、田辺さんに頼んだら、蓮香の本業は学生だからと断られた」

 記憶が少しずつ蘇ってくる。


 そうだ。沖さんが置屋に来たとき、お母さんがそうやって断ってくれたんだっけ。


「蓮香はどの置屋にもいない。あの子を座敷へ呼べるのか?」

 ピアノの弦をピンっと張ったような声だ。触れると弾き返されるような。

「……だ、大丈夫です。正直、売り上げのことは、高校生の俺にはわかりません。けど、半玉……のことは、俺が責任を持ってなんとかします」

 真っ直ぐ沖の目を見て言い切ったものの、頭の中はハレーションを起こしていた。

 何でもやるって言ったのは自分だ。


 一度やったから大丈夫。きっと、たぶん……


 自分に言い聞かせていると、また沖が無茶なことを言ってきた。

「期限は三ヶ月だ。その間は売り上げを倍にすること。それと、必ず蓮香を呼ぶこと。以上だ」

「ちょ、ちょっと待ってください。今、三ヶ月間って──」

「条件はそれだけだ」


 それだけって……ってレベルじゃないっ。


 胸ぐらでも掴んで訴えたかったけれど、そんなことすれば水の泡だ。

 それにこれ以上、条件を増やされたら困る。

「わ、わかりました。でも、その、半玉のことはどうやって伝えれば……」

 売り上げのことは、沖がたけだ屋に確認すればわかる。けれど、半玉の件はどうやって伝えればいいのか。

 瑠生が考え込んでいると、沖が紙に何かを書いている。

 覗き込もうとしたとき、机の上に名刺をスッと滑らせてきた。


「名刺の裏に僕の連絡先を書いた。蓮香の都合がわかれば。すぐ、たけだ屋の座敷を予約しよう」

 瑠生は名刺を受け取ると、聞きたかったことを口にしようとした。けれど、それは沖のスマホが鳴ったことで阻止されてしまう。


 蓮香を探している理由を聞いてみたかったんだけどな。


 電話中、景色を見たりと時間を持て余していたけれど、中々、終わらない。


 どうしよう。電話が終わるまで待って、挨拶して帰るべきか。


 意味もなく部屋を見渡していると、沖の口から出た名前にピクリと反応した。


 今、『神楽』って……


「ああ、今来ている。目の前にいるが」

 電話中の沖と視線が絡まる。やはり電話の相手は神楽で、瑠生の話をしているようだ。

 当然かと思った。

 仕事で付き合いのある二人だ。

 怪しい高校生が訪ねるかもしれないと、前もって神楽から聞いていてもおかしくない。


 そっか。だから沖さんがロビーで俺を見たとき、追い出そうともせず話を聞いてくれたんだ。


 もしかしたら神楽が口添えしてくれていたのかもと、少し期待をしたけれど、会話の様子からして、買収の話とは関係なさそうだった。


 このまま盗み聞きするのは悪いと思い、瑠生は頭を下げて踵を返そうとした。

「待て。君の連絡先を聞いてない」

 電話中だというのに、沖が叫んでいる。

 ちょっと偉そうだなと思った瑠生は、無言で机の上にあったメモとペンを手にした。

 そこへ自分の名前と携帯番号を書いていると、ふと、視線を感じた。


 上目遣いで見ると、スマホを耳に当てたまま、ペンを持つ瑠生の手をジッと見ている。


 何で見てるんだろ。字が汚くて読めないとか?

 ま、いっか。読みづらかったら聞いてくるだろ。


 自分だけで納得すると、沖のマネしてメモを滑らせるよう差し出した。

 ふふんと、鼻で笑って返してみたけれど、沖はチラッと見ただけで、神楽との通話を再開した。


 あーあ。ダメージゼロか。もうマジで帰ろう。


 瑠生はクルッと向きを変えると、沖に背を向けてドアに向かった。

 ふと、背中に強く視線を感じて肩越しに振り返ると、沖がこちらをまた見ている。まるで何かを確かめるように、目に焼きつけるように。


 それは瑠生が会釈をして出て行くまで、続いていた。

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