第17話

 決戦は金曜日──って歌じゃないけど、瑠生にとって今日はまさにその日だ。

 学校が終わると、姐さんたちがいつもお参りする小梅稲荷神社へ向かった。

 どうか上手くいきますように、と手を合わせる。

 それからやって来たのは、おきコンサルティング。


 ──沖のとこって、自社ビルなんだよな。儲けてる奴は違うよ。


 そんな皮肉めいたことを、神楽は言っていた。

 見上げると、地上八階建ての真っ白なビルが、瑠生の前に立ちはだかる。

 磨かれたガラス窓が、夕陽を映して美しく光っている。まるで、足元にも及ばないだろう、とでも言っているみたいに。


「きれいなビルなのに、社長は腹黒いって絶対だめだろ」

 独り言を言いながら自動扉の向こうを覗き込むと、警備員の姿は見えない。


 ……第一関門、クリア?


 以前、神楽の会社に行ったとき、警備員に止められたいやな経験が頭をよぎる。

「あのとき、めちゃくちゃ怖かったよな……」と、口の中で呟いて苦笑する。

 でも、このまま入ったら、また誰かに止められるのは確実だ。


 犯罪者じゃないのに、なんでこんな緊張するんだ——


 ここへ来る道すがら、訪ねる理由を考えてみたけど、何も浮かばなかった。

 こうなったら最終手段、強行突破しか残っていない。

 結局、神楽を訪ねたときと同じ、アポなし突入だ。それしか思いつかない自分に肩をすくめた。


 ネクタイを締め直し、リュックの肩ひもを直してから、一歩を踏み出した。

 自動扉を抜けて中へ進むと、予想どおり警備員の姿はない。だが、代わりに入口に設置された改札みたいな機械が瑠生の行く手を阻む。ICカードをかざすタイプだ。


 さすがにこの機械を突破する勇気はないな。


 どうしたものかと逡巡していると、向こう側のロビーにソファとテーブルが見えた。

 スーツ姿のビジネスマンたちが、ノートパソコンやタブレットを手に談笑している。

 そこを、なんとかして通らなければならない。

 ふと、ロビーの奥に見覚えのある顔が目に入った。


 ──あの人。もしかして、沖って人じゃ……?


 吹き抜けの日差しが差し込む特等席。そこに座る男性は、難しい顔をして向かいに座る二人の話を聞いていた。

 相手の顔は見えないが、深く頭を下げている様子から、謝っているのが分かる。


 ラッキー。通行手形がなくても、話が終わるまで待ってればいい。


 そう決めると、まずは身を隠す場所を探した。

 瑠生は改札機の横にそびえる円柱の柱を避難場所に選ぶ。

 柱は体の二倍以上の太さがあり、これなら向こうからは見えないはずだ。


 身を潜めて二十分ほど。

 ようやく三人が立ち上がり、軽く会釈を交わすのが見えた。どうやら商談は終わったらしい。


 やっと終わった……


 瑠生は彼らに背を向け、両腕を上げて大きく伸びをした。

 欠伸を噛み殺したその瞬間、背後に気配を感じる。

 振り返ると、すぐ目の前に沖が立っていた。

「──っ!」

 心の中で悲鳴を上げる。顔が引きつる。

 沖は一言も発さず、にこりともせずに瑠生を見つめていた。その視線が刺すように痛い。


 下手な言い訳でやり過ごすのは無理だ──。

 脳内で、もう一人の自分が叫ぶ。

 瑠生は、さっきの二人に負けないくらい深々と頭を下げた。

「す、すみません!」

 声が少し裏返る。恥ずかしさで顔が熱くなる。

 ゆっくり頭を上げると、沖はまだこちらを見下ろしたままだ。


 柔らかく波打つ前髪が額の半分を覆い、開閉する扉の風でふわりと揺れる。

 その隙間から覗く鋭い眉と、奥二重の瞳。何も言わずに、ただ見つめてくる視線。

 息が詰まる。心拍数が勝手に加速してきた。

 スーツの迫力に瞳が囚われていると、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 中学の頃、初めて感じたあの感覚と熱が、体の中で再現される。


 風が香りを運んでくる、落ち着いたウッディ系の香水。大人の香りに、脳が否応なく支配される。

「君は──」

 低く響く声で瑠生は我に返った。


「あ、あのっ、すいません! 会社まで押しかけて! 俺は向島のふく里って置屋の人間で、来栖瑠生って言います。高校二年です。以前、うちであなたと会ってます。ど、どうしても沖さんに話を聞いてほしくて……」


 一気にまくし立ててから、息を飲んだ。

 言えた。完璧だ。

 ふく里の名前を出せば、少しくらいは耳を傾けてくれるかもしれない──

 期待を込めて顔を上げる。……けれど、沖の表情は変わらなかった。

 眉間にうっすらと皺を寄せ、難しい顔をしている。


 ヤバい……マズい……


 頭の中でその言葉がぐるぐると渦を巻く。

 ただでさえ、ふく里が危機的状況なのに、自分が余計なことをしてどうする。

 サーッと血の気が引いていくのが分かった。


 落ち着け。焦るな。誠心誠意で話せば、きっと伝わる。

 買収を止めるのが無理でも、せめて保留にしてもらえないか。

 そうだ、それを言うんだ。ここで引いたら終わりだ。

「あ、あの……沖さん。お願いがあります」

 声が震えた。

「どうか、たけだ屋から手を引いてください」

 膝に額がぶつかるほど、深く頭を下げた。

 ギュッと目を閉じ、地面に向かって祈るように動かない。

 血が逆流するように頭が重い。それでも、下げ続ける。誠意を見せなければ──

 じゃなきゃ、こんな高校生の訪問なんて、ただの迷惑だ。


 同じ姿勢のまま、時間が止まったように静まり返る。

 けれど、どれだけ待っても言葉はない。それでも、頭を上げることはできなかった。


 お願いします……何か言ってください……


 心の中で必死に嘆願していると、目の端で沖の影が動いた。

「……話を聞こう」

 低く静かな声だった。

 パッと顔を上げた瑠生の口から、反射的に声が飛び出した。

「いいんですかっ!」

 ロビーに響く大声。

 しまった、と思うより先に手で口を覆う。

 周囲の数人がぎょっとして振り返った。

 制服姿の自分に視線が集まっているのを感じて、急に顔が熱くなる。


 やっぱ制服で来るんじゃなかった……沖さんに恥かかせたかも……


「……場所を変える。着いて来い」

 沖はそれだけ言うと、踵を返してエレベーターへ向かって行く。

「あ、はいっ」

 慌てて鞄を抱えると、つんのめるようにして後を追った。

「……あの、制服ですいません。でも、ありがとうございます」

 歩きながら、勇気を振り絞って声をかける。けれど、返事はない。

 ただ、前を歩く長身の背中が一瞬、揺れたように見えた。

 そのわずかな仕草に、瑠生の胸がトクンと鳴る。


 怒ってる……? それとも、呆れてるだけ……?


 沖と自分のあいだに、分厚い透明な壁があるように感じる。

 まるでギャグ漫画の主人公みたいに、瑠生の顔には縦線が何本も描かれた。そんな気分だった。

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