第12話

 昨夜遅く帰ってきた桔梗と椿は、そのまま桔梗の部屋に閉じこもってしまった。


 きっと買収の話をしてるんだろうな……


 寝付けなかった瑠生は、布団の中で沖の会社を検索した。

 検索ワードのトップに出た文字を、そっと指で押した。すぐにホームページの画面が開く。

 画面には真新しいビルが表示され、『経験豊富な専門家によるサポート体制で納得のM&Aを実現!』の文字が目に飛び込んできた。


 M&Aってなんだろ。


 画面をスクロールしていくと、公認会計士だの経営コンサルタントだのと、高校生の瑠生には意味不明な言葉ばかり。指を動かしていくうちに、お問い合わせ欄にたどり着いた。

 Q&Aの、『売却(M&A)を考えているのですが——』の質問に目が留まる。


 売却……売るってもしかして──


 読み進めていくと、『譲渡後も会社に残ることは可能か』などの質問が並んでいる。

 ふと、梅ちえが口にした、『たけだ屋が買収される』の言葉がよぎった。


 もしかして沖って人の会社がたけだ屋を? でも、それならたけだ屋に行くんじゃ……


 ふく里に来る理由がわからない。しかも桔梗と知り合いのような女性と一緒に、ここへ来たのも想像できない。

 考え込んでいると指が画面に触れて、別のページに移った。

 料金説明の画面が表示され、そこには成約時の報酬金額が記載してあった。


 こんなに貰えるんだ……


 沖って人は、会社を売りたい人と買いたい人の仲介をして利益を得てるんだ。

「じゃ、なんでうちに来たんだろ。ますますわからない」

 そう呟いたまま、瑠生の指先はスマホの画面の上で止まった。

「何だろ……嫌な予感がする」

 頭の奥で危険信号が点滅しているのに、どうしていいかわからない。

 ただ、桔梗を助けたい。ふく里や姐さんたちを守りたい。それしか──


 悶々としたまま、いつの間にか眠っていた。

 目覚めた土曜の朝は寝不足で、何だか身体が気怠い。

 椿に話を聞こうと探したけれど、自宅に帰ってしまったのか姿が見当たらない。

 お母さんに聞いても、きっと教えてくれないだろう。

 踊りの稽古も中止になり、手持ち無沙汰になった瑠生は掃除を始めた。


 掃除機を片付けていると、桔梗に声をかけられた。

「瑠生、ちょっと出かけてくるよ」

「どこに──」と口にしかけた言葉を飲み込む。聞いたところで、何かできるわけでもない。

 瑠生は桔梗を見送ったあと、文庫本を手に居間で寝転がった。ページをめくってみたけれど、文字が頭に入ってこない。

 本を開いたまま顔に乗せると、その下で目を閉じた。そこに英恵の笑顔がフッと浮かぶ。


 女将さん、大丈夫かな。たけだ屋のみんなも、きっと不安だろうな。


 考えれば考えるほど、何も浮かばない。寝転んだまま足をばたつかせ、胸のざわめきを振り払おうとする。 


 ああ、もう。落ち着かない。


 瑠生はため息と一緒に本を閉じると、足を振り子にして起き上がった。

 部屋に戻ってウィンドブレーカーを羽織り、自転車の鍵を手にする。

 戸締りをすませると、愛車のクロスバイクに跨った。

 庭の木蓮を横目にペダルを踏み込んで、置屋を後にする。

 隅田川を目指して軽快に漕いで行くと、まだ緑一色の桜並木が遠目に見えた。


 桜はまだ早いか……でも、この風はいいな。嫌な気分を吹き飛ばしてくれる。


 風の中に春の匂いをひと雫見つけると、心が軽くなるのを感じた。

 もう少し暖かくなれば墨堤ぼくていに沿って桜が満開になり、景色が桃色に染まる。

 サイクリングには、もってこいの場所だ。


「桜が咲いたら、また来ようっと。きっともうすぐだ」

 川沿いに着くと、瑠生は自転車から降りて空を見上げた。

 果てしなく広がる青空を眺めていると、くさくさしていた気分が薄れていく。

 たけだ屋のことを高校生の自分が、あれこれ考えても仕方ない。

「俺は俺ができることをしよう」 

 髪の間を抜ける風を感じながら空に呟くと、胸の錘が少し減った気がする。


 川面にきらめく光を眺めていると、少し先の道端で、自転車の前に屈みこんでいる男性の姿が見えた。


 あの人、どうしたんだろう。


 遠目にも、困っているのがわかる。

 瑠生は小走りでその男性のもとへ駆け寄った。

「あの、どうかされましたか」

 瑠生の声に反応した男性が立ち上がり、肩をすくめてサングラス越しに苦笑した。

「チェーンが外れたみたいなんだ。困ったよ、午後から会議なのになぁ」

 背の高い男性を見上げていると、サングラスを外しながら微笑まれた。


 うわ。この人、めちゃくちゃカッコいい。


 思わず目を細めたくなるその顔は、芸能人と言ってもおかしくないほど整っている。

 くっきりした二重に、少し高めの鼻梁。上下のバランスが絶妙な唇は、口角を上げて苦悶を滲ませていた。

 風になびく焦茶の髪を後ろへなでつける姿は、まるでファッション誌の表紙みたいだ。


 ……なんか、歯磨き粉のCMに出てくる人みたいだ。


 いい男探しが趣味の梅ちえが見たら、きっと歓喜の雄叫びを上げていただろう。

 興奮する姐さんを想像しながら男性の自転車を見下ろすと、チェーンがクランクの内側でダラリと垂れ下がっている。

「これ、インナーのチェーンリングより内側に落ちちゃってますね」

 自転車を見ながら「触っていいですか」と男性を見上げる。

「あ、ああ。君、直せるの?」

「うーん、わかんないですけど、ちょっとやってみてもいいですか」

 男性がもちろん、と言ってくれたので、瑠生は手首のゴムで髪を束ねた。

 袖をまくりながら、自転車をくまなく眺める。


「どう? 直りそう?」

 男性が前屈みになり、瑠生の手元を覗き込んでくる。

「後ろの変速機のプーリーケージ、この二つ並んだ小さな歯車の部分を進行方向に押し込んでっとっ。これでチェーンがたるむんで、ギアに引っ掛けやすくなるんだ。チェーンをギアの上側から引っ掛けて後輪を浮かしてペダルを進行方向に回せば、ギアの回転を利用して全体に引っ掛けることができる、はず……よし、できたっ」


 ペダルをくるくる回して自転車の動きを確かめると、瑠生は満足気にうんうんと頷いた。

「君……すごいな。すごい、直ってる! 助かったよ、本当にありがとうっ」

 自転車に跨った男性が、瑠生の周りをぐるぐる回りながら「サイコー!」と叫んでいる。

 見た目はカッコいいのに、子どもみたいにはしゃぐ姿がおかしくて、思わず笑ってしまった。


「よかったです。あ、でも素人がやったんで、ちゃんと整備士さんに見てもらってくださいね」

 自転車から降りた男性が瑠生のそばに来て、手を差し出してきた。

 握手かと思ったけれど、自分の手はオイルで黒く汚れている。

 瑠生は手のひらを見せながら、首を振った。


「だめですよ。俺の手、オイルで真っ黒だから」

「いいんだ。ぜひ、握手してくれ。汚れたのは俺のせいなんだし、本当に助かったよ」

 一段と爽やかに笑いながら、彼は続けた。

「なあ、改めてお礼をさせてくれないか。あ、俺の名前は多鹿神楽たじかかぐら。君は?」

「俺は、来栖瑠生です。高二」

「クルスルイ? それ漢字? それとも外国の名前の人?」

 これまでにない聞き方に、瑠生は声を出して笑った。


「そんな尋ね方されたの初めてだ。お兄さん、面白いね」

「お兄さんじゃない、神楽だ。漢字で書くと、ごちゃごちゃしてうるさそうな名前の、多鹿神楽、三十歳だ。名刺を渡したいけど、スーツに入れっぱだなぁ」

 神楽が頭をかいて残念そうな顔をする。

「気を使わないでください。えっと、か、神楽さん」

 初対面でいきなり名前呼びは少し抵抗がある。


 まぁ、もう二度と会うことはないから、いっか。


「ありがとう。この辺りは、本当に景色がきれいだね。初めて来たけど、近所だったら毎日走りたいよ」

「でしょ。俺もここを走るの大好きなんです。桜が満開になるともっときれいですよ」

 もうすぐ芽吹きそうな枝葉を見上げながら、瑠生は言った。

「……瑠生君はこの辺に住んでるの? 今日は無理だけど、ぜひ、お礼をさせて欲しい」

「いいですよ。大したことしてないから。じゃ——」

 瑠生が自転車に跨った瞬間、神楽にハンドルを掴まれた。

 ペダルを踏み出せずに戸惑っていると、今度は手首を取られ、そのまま握手の形にされる。


「ちょ、お兄さ──じゃない。神楽さん、手が汚れるって」

「平気だ。これは感謝のしるしなんだから」

 離そうとした瑠生の手を、神楽がもう一度握り返した。

 おまけに両足で前輪を挟み、真正面から立ちふさがるようにして。

「あの、そろそろ手を離し──」

 ようやく手が解放されたかと思ったら、今度は指先をそっと包み込まれた。


「瑠生くんの手、細くてきれいだな。……このホクロなんか、奥ゆかしい」

 ほら、と言って恭しく瑠生の手を取り、人差し指のホクロを指差す。

 指のほくろがなんだっていうんだろ。

 瑠生が呆れていると、神楽は小さな点を愛おしそうに見つめている。


 この人、カッコいいのに、ちょっと変だ。ヤバい人かも……


 いつまでも握られていることに耐えきれず、瑠生はそっと手を引く。

「ごめん、ごめん。瑠生くんが俺のモロ好みだから、つい見惚れてたんだ。な、連絡先教えてくれよ。やっぱりお礼がしたい」


 好みって──そんな軽口で言われても、信用できない。


「い、いいです。お礼なんて──」

 言いかけた言葉を途中で止めた。

 そうだ。いいこと思いついた。


「じゃ、向島のたけだ屋って料亭でお座敷予約してよ。そんときに、ふく里の置屋から芸者を呼んで。それが俺にとってのお礼になるから」

 瑠生はペダルにグッと力を込めると、勢いよく走り出した。

「じゃーね、神楽さん」

 後ろ手に手を振りながら、一目散に家へ向かう。

 料亭で芸者遊びは結構な値段になる。あんな若い人には、絶対に無理だ。

 名案を閃いた嬉しさに、瑠生は立ち漕ぎしながら全身で風を切った。

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