第11話

「ねえ、誰か名簿を知らないかい?」

 瑠生と里菊が台所でくつろいでいると、和室から桔梗の声がした。

「お母さん、どうしたの?」

 里菊が腰を上げて声をかけたから、瑠生も一緒について行く。

「ここに入れてあった名簿がないんだよ」

「名簿って、顧客名簿のこと? 誰もそんなところ触らないと思うけど……ねえ、瑠生」

 同意を求められ、瑠生は大きく頷いた。


「おかしいねぇ、どこを探してもないんだよ」

「椿姐さんが持ってるとか? 俺、聞いてくるよ」

 踵を返すと、すぐ後ろに椿が立っていた。話を聞いていたのか、持ってないわよと、心配そうな表情になった。

「紙の管理はこういうときに困るね。こんなことなら、瑠生にパソコンで作り直してもらっときゃよかったよ」 


 以前、顧客名簿を桔梗が見ていたときに、瑠生は提案したことがあった。データ化した方が便利だよと。

 色褪せたノートには思い出が詰まっている。味があっていいんだよと、桔梗は瑠生の申し出を断っていたのだ。

「そろそろ、すみだ祭りの準備をと思ってたんだ。案内葉書の用意で枚数を勘定するのに、名簿を見たかったからね」

 大きな溜息と同時に桔梗が座り込んでしまった。

 いつもより疲れた顔に見えるのは、たけだ屋の件もあるのが透けて見えた。


 桔梗にかける言葉を探していると、玄関の呼び鈴が鳴った。

「俺、出るよ」

 桔梗を気にしながら玄関に向かうと、すり硝子の向こうに背の高いシルエットが見えた。隣にはもう一人、着物姿の女性が立っている。

 サンダルを履きながら、「どちら様ですか」と声をかけた。


「沖です。おきコンサルティングの沖尚純です。田辺さんはご在宅でしょうか」

 引き戸越しに聞こえた名前に覚えがあり、瑠生は記憶を手繰り寄せながら扉を開けた。

「こんにちは……以前にもこちらを訪ねたことがある者ですが」

 瑠生に話しながら、沖の表情が一瞬、綻んだように見えた。

 瑠生を見つめる眼差しも優し気で、唇は何かを語りかけるように薄く開いている。

 名刺と沖を交互に見ながら、瑠生は既視感を覚えた。


 ──あれ……なんか、この会話、前にもしたような。


 記憶の靄を振り払うように、「どんなご用件ですか」と尋ねる。

 瑠生の言葉に、隣の女性が一歩、静かに前へ出た。

「坊や。桔梗さんに会いたいんだ、呼んでもらえないかい?」

 ほっそりとした躯体に、あずき色の訪問着を纏った女性が瑠生を見据えて言う。

 結い上げた髪の後れ毛を気にする振る舞いや、凛とした口調がどこか桔梗と似ていた。


 お母さんと同じくらいの年かな。


「あの、お母さんとお知り合い……ですか」

「神楽坂のちゑ子が来たと言えばわかるよ」

「神楽坂……。わ、わかりました。少々お待ちください」

 軽く会釈をして玄関を離れた足は一旦立ち止まり、肩越しに振り返った。


 そうだ。あの沖って人、前にここへ来た変な人だ……


 廊下の軋む音と共に鮮明になっていく記憶。眉間にはしわが生まれていた。

「瑠生、誰だった?」

 里菊に聞かれたが、瑠生は瞳だけで返事をし、桔梗に名刺を差し出した。

「お母さん、またこの人が来た。今日は一人じゃなくて、着物を着たおばさんも一緒に。神楽坂のちゑ子と言えばわかるって——」


 言葉の途中で桔梗の顔つきが変わった。

 スッと立ち上がると、何も言わずに玄関へと向かって行く。

 あとをついて行こうとしたが、椿にやめなさいと叱られた。

 それでも気になった瑠生と里菊は、椿が二階へ上がった隙に、廊下から顔を出して玄関をこっそり覗き見た。

 桔梗と着物の女性は話をしていたが、沖は玄関に飾ってある芸者の写真を見ている。


 沖を見つめていると、桔梗に名前を呼ばれた。

 ビクッと身が縮まる。

「瑠生、椿を呼んどくれ。今からちょっと出てくるよ」

 瑠生は里菊と顔を見合わせたあと、慌てて椿を呼びに行った。

 背中越しに感じた不穏を、胸の奥に抱えたまま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る