第10話

「ただいまぁ」

 疲れた声と同時にふすまが開いて、梅ちえと椿が戻ってきた。

「おかえり。あれ、小桃と里菊姐さんは?」

 抱えていた風呂敷をどさっと置くと、梅ちえが座卓に突っ伏している。

「二人は家に直帰したー」

 疲弊した声と格好で梅ちえが呻くと、支度部屋に行きかけた椿が振り返った。

「梅、疲れてるなら早く帰りなさい。私はお母さんに話があるから着替えてくるわね」

「ふわーい。でも、動けないぃ」

「珍しいね、梅ちえ姐さんがそこまでバテるのって」


 食器棚からグラスを二つ取り出しながら梅ちえを見ると、まだ上半身を座卓に預けたままで、眠ってしまったのではと思うほど動かない。

「姐さん、梅ちえ姐さん。こんなとこで寝たらだめだよ。ほら、これでも飲めよ」

「……うーん、瑠生坊、何……これ」

 本当に眠っていたのか。寝ぼけて懐かしい呼び方をしてくる。

 冷えたグラスを梅ちえの頬に当てながら、「レモネードだよ」と、悪戯をしてやった。


「ぎゃ、冷たっ! 酷いな、瑠生。頑張って働いてきた姐さんになんてことすんのよ」

「まあまあそれ飲めよ。シャキッとするから」

 眠気に抗いながらグラスに口をつけ、嚥下した途端、「うまっ!」と叫んでいる。

「だろ? 俺のお手製だぞ、心して飲めよ」

 言われなくても飲むわよ、と梅ちえがグラスを一気に空にした。


「はぁ、美味しかった。生き返った」

「なら、よかった」

 おかわりを作りに立ち上がると、梅ちえが瑠生のスエットを掴んできた。

「何、おかわりいらない?」

 尋ねても首を左右に振るだけで、何も言わない。

 視線を合わせてみると、深刻な顔をしている。

 よほど今日のお座敷が大変だったのか、それとも厄介な客でもいたのか。


「姐さん、どうした。腹でも減ってるのか」

 瑠生が覗き込むと、梅ちえの目が潤んでいる。

「な、なに。どうしたのさ、言ってくんないとわかんないよ」

「……瑠生、ふく里がなくなっちゃうかも……」

 突拍子もないことを梅ちえが口にした。

「何わけのわかんないこと言うんだよ。レモネードで酔ったのか?」

 梅ちえの頬をペチペチと軽く叩いてやった。


「瑠生。私たち、む、向島にいられなくなっちゃ……うぅ」

 切れ切れの声でとんでもないことを言う。

 しかも今度は、わあわあと声をあげて泣き出した。

「ちょ、ちょっと梅ちえ姐さん。どうしたんだよ、一体何があったんだ」

「ったく、梅ちえは内緒とか秘密って言葉を知らないのね。ほんと困った子だわ」

 着物からデニムとパーカー姿になった椿が居間に戻ってきた。

 梅ちえの横に座ると、泣きじゃくる背中をさすっている。


「椿姐さん、どういうこと。梅ちえ姐さんが言ってたことって──」

 焦っている瑠生とは反対に、レモネードを一口飲んだ椿が、あら、これ美味しいわねと、冷静に感想を言っている。

「椿姐さん……」

「瑠生、お母さんは宇多師匠のとこに行ってるんでしょ?」

「あ、ああ。それが何か関係あんのか」

「う……ん、多分ね。きっと師匠に伝手とか知恵を借りにいってるんだと思うわ」

「伝手? 何の伝手なんだよ。姐さん、もっとわかるように話してくれ」

「そうよ。姐さん、瑠生にも話してる方がいいわ。だって、私たちは家族も同然なんだもん」

 ムクっと起こした梅ちえの目は真っ赤だった。


「そう……ね。本当はお母さんが帰ってから話そうと思ってたけど。瑠生、今から話すことはまだ決まったことじゃないの。そう思って聞いてね」

 深刻な顔で椿が言うから、思わず崩していた足を正座に変えた。

「あのね、たけだ屋さんが……なくなるかもしれないの」

 椿の言葉に固まった。

 意味をすぐに理解できず、『なくなる』の文字が頭の中でぐるぐる回っている。


「えっと、言い方が違うかもしれないわね。なくなる、じゃなくて買収されるって方が正しいわね」

「ば、買収って──ドラマみたいに、潰れそうな会社が奪われて、社長が解任されたりとかってやつ!?」

 自分で言った言葉は酷いと思った。

「そういうことかな。実はね、神楽坂の料亭が向島にも店舗を増やしたいとかで、物件を探してるらしいの。それを組合の会長と観光協会の会長が話してたのよ」

「じゃ、たけだ屋を神楽坂の店が向島店にするってこと?」

「神楽坂は、たけだ屋を盗もうとしてるのよっ」

 梅ちえが叫びながらこぶしをドンっと座卓に叩きつける。振動でグラスが倒れて、溶けた氷が座卓の上に水溜りを作った。


 布巾を取ってきて瑠生が拭いていると、梅ちえがごめんと、小さな声で謝ってくる。

「椿姐さん。もし、それが本当になったらうちはどうなるんだ? たけだ屋さんあってのふく里だろ? 常連さんもたけだ屋さんを利用してるし、そのお客さんたちは——」

「買収されてしまうと当然、経営者は変わるわ。英恵さんたちがそのまま残って働けたとしても、神楽坂の従業員となって経営者の方針に従うしかない」

「え……それって何も口出しできないってこと?」

 椿の腕を掴んで言った。つい、力を込めてしまい、慌てて手を離した。


「そうね……。新しい経営者がふく里の芸者を使わないって言えば、英恵さんたちにはどうすることもできなくなるわ」

「……そんな。じゃあふく里は──」

「もう向島でのお座敷はお役御免なのよっ」

 梅ちえがひと言叫んで、また座卓に突っ伏した。


 ふく里がなくなる……


 姐さんたちがお座敷に呼ばれなくなる。そんなのだめだっ。

 しっかり者で視野の広い椿。初めてのお座敷でも彼女の存在は、瑠生にとって、とても心強いものだった。

 いつも明るく元気な梅ちえは、瑠生がふく里にきた日から気軽に話しかけてくれた。蓮香という芸名も、瑠生のことを思って名付けてくれた人。

 里菊だって普段はほわんとしてるのに、いざとなったら助け舟を出してくれる。最近では、宇多に張り合ってみんなを笑かそうともしていた。

 咲希だって、ようやく今日、半玉としてデビューしたばかりなのに。

 そんな彼女たちの働く場所がなくなってしまう……


 冷静になれと自分に言っても、瑠生の中に生まれた怒りは咆哮をあげていた。

「椿姐さん、何か回避する方法はないのか? 俺にできることなら何でもするからっ」

 言ってはみたけれど、眉根を寄せただけで椿の口は開かれない。

 梅ちえも泣きじゃくっている。

「……とにかく、ここで私たちが額を突き合わせてても仕方ないわ。お母さんが帰ってきたら話すから。もしかしたら、師匠からアドバイスを聞いてるかもしれないし」

 今日は解散しよ、と椿が言うから従うしかない。


 一人で帰すのが心配なほど梅ちえは滅入っている。瑠生は客間に布団を敷いて寝かせた。

 瑠生もベッドに入ったけれど、まったく寝つけない。

 うとうとしかけた真夜中、玄関の引き戸が開く音で目が覚めた。

 桔梗が帰って来たと思ったけれど、出迎えるのはやめた。

 きっと椿と話をするはずだから……

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