第4話

 東京・向島。

 浅草から隅田川を挟んで向こうに見えるその街の名前は、ふく里で暮らすようになってから耳にしていた。

 寺や古い喫茶店、文豪の碑なんかもあって、少し歩くだけで昔の気配が残っている。

 その片隅にふく里という置屋がある。戦前から続く古い家で、今は瑠生の大切な場所だ。

 赤坂や神楽坂みたいな華やかさはないけれど、誰でもお座敷に上がれる気安さがある。

 そんな街で、ふく里はずっと芸をつないできた。


 土曜の朝、八時半。

 一階から梅ちえの声が響く。

「瑠生ぼー、お稽古行くよー」

「ちょっと待っててー」

 いつもなら一番に準備しているはずの瑠生も、今朝は寝坊してしまった。

 昨夜のお座敷のことが頭を離れず、なかなか眠れなかったのだ。

 枕をかかえては何度も寝返りを打ち、何かに抗う内にいつの間にか眠っていた。

 目が覚めたら稽古に行く十分前で、慌ててパジャマを投げ捨てた。


 寝坊したのはあの変なイケメンのせいだ。素顔を見せろとか、別の着物に着替えろとかおかしなこと言うからっ。


 ぶつぶつ恨み節言いながら、着物に着替えて部屋を飛び出した。

 狭くて高さのある階段をドタバタと駆け下り、薄暗い廊下を走りかけた足にブレーキをかけた。

 足袋のせいで危うく滑りそうになる。


 いけない、いけない。走ったらまたお母さんに叱られる。


 着物の裾を整え、瑠生は静々と歩いた。

 昔ながらの古い家屋、『ふく里』が瑠生は大好きだった。

 外から帰ると苔の生えた門をくぐり、竹で作られた門扉を開けて飛び石を歩く。

 一旦そこで足を止めてしまうのは、庭に植えられた白木蓮が美しいからだ。


 高さはニメートルほどで、五月には真っ白な花が上向きに咲き、甘く上品な香りが庭中に広がる。

 瑠生が初めてここへ来たときは、ちょうど満開の時期だった。

 母を失った悲しみで折れそうな心を、白い花と香りに慰めてもらった気がした。

 梅ちえが蓮香と名付けてくれたことも頷ける。


 台所に着くと、梅ちえがお茶を啜って待っていた。

「遅いよ、瑠生坊。もしかしてまだ寝てた?」

「おはよう、梅ちえ姐さん。ちゃんと起きてたよ、ちょっと寝坊しただけ」

 言い訳をしながら、ご飯をラップの上に盛る。梅干しと塩昆布を乗せて、おにぎりを作って頬張った。


「おはよ、瑠生坊。今日もお稽古行くのね、偉い偉い」

 珠暖簾たまのれんから顔を出して台所にやって来た里菊が、ふくよかな頬にエクボを作って言う。

「あら、あんたたちまだいたの? 遅刻したらお師匠さんに怒られるわよ」

 里菊の後ろから凛とした声が聞こえた。

 綺麗に髪を結い上げ、上品に着物を着こなした椿が、優しく叱責してくる。

 いつもの、この朝の風景が瑠生の癒しだ。


「はーい。じゃ今日も見番けんばんへ行くとしますか」

「そうそう。見番といえば、あの床板、どうするのかしらね。置屋と料亭が組合に登録してても、修理代までは無理よね。畳も交換どきでしょ」

 里菊が瑠生の頬についた米粒を取りながら言った。


 そっか。そんなに傷んでたんだ、あそこ……


 料亭と置屋を取り次ぐ大事な場所なのに、使えなくなったら困る。

「そればっかりは、私らにどうすることもできないね。瑠生坊、用意できてる?」

「……れき、へる」

「食べながら返事するんじゃない。ほら行くよ、里も」

 梅ちえのあとに瑠生と里菊も続く。三人の背中に向かって、椿が行ってらっしゃいと言ってくれた。


 玄関で草履を履きながら、瑠生はいつもの日常を噛みしめていた。

 姐さんたちとの、たわいもない会話。朝の挨拶、行ってらっしゃいの声、寝坊を叱ってくれること。

 どれも彼女たちは、当たり前のように与えてくれる。

 そんな何でもない日々が、家族を失った瑠生を幸せにしてくれた。


「瑠生坊、ほら、ちょっと早足で。遅れるよ」

 梅ちえに声をかけられ、瑠生は着物の裾をはためかせて走った。

 まだ自分は子どもだけど、いつかきっと彼女たちの役に立つ男になる。

 そのために、稽古も学校も頑張るんだ。


 二人の背中を追いながら、やってやろーじゃないかと瑠生はこっそり意気込んだ。

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