第3話
履き慣れないぽっくりでぐらつく。その度に梅ちえが支えてくれた。
何とか到着した、たけだ屋の
「こんばんは、英恵さん。今日もよろしくお願いします」
椿が挨拶をすると、梅ちえや里菊も頭を下げた。慌てて瑠生も頭を下げる。
「こんばんは、今日も頼みますよ。おや、椿。このおぼこい半玉が例の子かい」
少し吊り上がった一重の目で瑠生を見てくるのは、たけだ屋の女将、
英恵は桔梗の後輩芸者だったけれど、たけだ屋の一人息子に見初められて引退した。
向島を代表する歴史ある料亭に嫁いだとき、当時話題になったと姐さんたちが教えてくれた。
そんな二人の縁もあって、たけだ屋はふく里にとって、なくてはならない大切な料亭となっている。
瑠生もそれを知るからこそ、複雑な心境だった。
協力したい気持ち半分、バレたときの心配が半分。いくら英恵が了承していても不安は尽きない。
「女将さん、精一杯務めさせていただきますので、よろしくお願いします。ほら、蓮香も」
椿に促され、後ろにいた瑠生は一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「蓮香と申します、よろしくお願いします」
慣れないかつらが重い。頭を上げるだけでも目眩がしそうだ。
「しかし……何というか、えらくべっぴんだね。幼い顔なのにどこかこう、妖艶というか、男がほっとかない顔をしてるよ。ほんとに男——とと、いけない、いけない」
ほとんど言ってるじゃん。なんて思ったけど、英恵の気さくな雰囲気に肩の力が抜けた。
座敷に繋がる廊下を椿を先頭に歩く。瑠生も彼女たちの後ろをついて歩いた。
「瑠生、大丈夫?」
前を歩く梅ちえが肩越しに振り返って囁いてきた。
「う、うん……平気……」
とは言ったものの、座敷が近づくと心臓が騒ぎだす。
部屋にたどり着き、みんながふすまの前で正座をしたので瑠生もそれに倣った。
椿がふすまをスッと開けて挨拶をすると、「待ってました」と威勢のいい声が聞こえてきた。
たけだ屋で一番、豪華な座敷は正面にちょっとした舞台があり、そこで芸事を披露する。
舞台を正面から見ると、左右にテーブルが設置され、客はすでに着席していた。
姐さんたちが順に挨拶している。里菊が終えると次は瑠生の番だ。
「蓮香と申します、本日はよろしく、お願いいたします……」
何とか言えたものの、緊張で声が上擦ってしまった。
恥ずかしいけど、俯いているわけにはいかない。
ゆっくり顔を上げると、みんなが注目してきた。
「ほー、これは器量良しばかりだね。いやぁ、絶景だ」
開口一番に叫んだのは、舞台に一番近い左の席に座っていた、かっぷくのいい男性だった。
えっと、舞台に一番近くて、入り口から遠い席──つまり、あそこが上座か。
頭の中で昨夜、椿に教わったことを反芻する。
お客は全員で五名。
上座から順に眺めていると、入り口に近い席に座る若い男性と目が合った。
下座ということは、他の客をもてなすポジションだろうか。
センター分けの前髪は緩くウェーヴがかかり、首に沿う長めの襟足が色っぽい。
キリッとした眉毛は上向きに揃えられ、切長の奥二重を引き立てている。
二十代前半に見える横顔をじっと見ていると、不意に視線が絡まった。
薄い唇で笑われて、慌てて視線を逸らして客の観察を続ける。
みんな同じように見えるな。眼鏡の人、青いネクタイに赤いネクタイ……よし、覚えた。
椿たちを見ると、客と歓談やお酌をしている。
俺も同じようにすればいいのかな……
見渡すと下座の男性が手酌していた。瑠生は彼のそばに移動して、ちょこんと座った。
まず話だよな。けど、何を話せばいいんだ?
女の人なら姐さんたちで慣れてるけど、大人の男の人相手だとさっぱりだ。
瑠生がもじもじしていると、反対側に座っていた眼鏡の客にいきなり肩を抱かれた。
「ちょっとみなさん見てくださいよ、この半玉ちゃん、えらくきれいじゃないですか?」
眼鏡の客のひと声で、みんなの視線が瑠生に集まった。
「これはまた美しいね。桃色の振袖に赤い
「確かに。唇の紅がぽってとして、何とも可愛らしい。あ、この目のふちを赤くするのも半玉のしるしでしょ、ちょっとした赤が
客からの感嘆が止まらず、瑠生を眺めては褒めちぎってくる。
耐えられなくなった瑠生は、椿に視線でヘルプッ、と訴えた。
「まだ十代でしょ? 先が楽しみですねぇ。あ、そう言えば会長。この子はほら、あの神楽坂で顔も芸事も秀逸の蘭子を思い出しませんか? この半玉は彼女に次ぐ逸材ですよ」
「蘭子と言えば好いた男と一緒になるって、あっさり花柳界から身を引いたよね。芸者衆のてっぺんに君臨していたのに潔かったが、陰で
「確かに。でも会長、蘭子が去ったあと急に神楽坂の料亭、えっと何て言いましたかね。ああ、そうだ。
「存じ上げておりますよ。何でも、今の主人が凄腕だとか」
青のネクタイが話を振ると、沖と呼ばれた下座の男性は、頼もしい話ですね、と笑顔で応えていた。
「さすが物知りだね沖君は。学生のときからホテルや旅館、料亭の合併や売買を手掛けてきただけある。お爺さんが生きていたらさぞ喜んだだろう。今や一国一城の主人なんだから」
「会長は沖君のお爺さんと親しかったんですよね? それが今回の案件を彼に任せた理由ですか? 会長が花柳界の現状を視察するのに、畑違いの沖君を指名したのは驚きましたけど」
赤ネクタイの客が首を捻りながら、会長に問いかけている。
その間も瑠生たちは口を挟まず、黙って接客を続けていた。
「私がまだ駆け出しのとき、彼のお爺さんにはよく助けてもらったんだ。上の人間は舌が肥えててね、接待するのに沖君のお爺さんの店に随分無理を言ったもんだ」
「ああ、知ってますよ。漁港の近くの小料理屋でしょ」
眼鏡をクイっと上げながら得意そうに男が言う。
「そうそう。彼のお陰で私は
おちょこの中を飲み干した会長に、椿がスッと
さすが椿姐さんだ。俺も、あんな風にできるかな……
真似しようと瑠生が徳利を持とうとしたら、沖と手が触れた。
「す、すいません」
慌てて手を引っ込めた。
一瞬、重なった指先が火傷したように熱い。
動揺して沖が手酌するのを黙って見ることしかできない。ちらっと盗み見ると、おちょこに口を付けながら瞳で微笑まれた。
恥ずかしくて思わず下を向いてしまった。
初めて味わう緊張感に戸惑う瑠生をよそに、大人たちの話は続いていた。
「沖君の手腕には惚れ惚れするよ。買い手と売り手のそれぞれが自社に有利な契約になるよう、交渉術にも長けている。多様な職種に顔も広いし、何より冷静だ。うちの事務所にいないタイプだ。まだ二十六歳だったかな。若いのに大したもんだ」
「なるほど。だから今回の視察には、打って付けだということですな」
「そういうことだ。会社の経営者にもなると忙しいだろうに、付き合ってもらって悪いね、沖君。あとは神楽坂だけだから頼むよ」
会長がおちょこを沖に掲げて、期待しているよと言った。
沖って人、すごい褒められて……あれ、でもこの人、どっかで見たような気がするな。
横顔を見つめながら頭の中の引き出しを探したけれど、思い出せない。
まいっか。きっと俺の勘違いだな。
自分に言い聞かせていると、隣から柔らかい声がして、反射的に顔を上げた。
「とんでもありません。私の方がお礼を言いたいですよ。こんな青二歳に貴重な仕事の参加を許してくださって。それにたくさん褒めていただけて励みなります」
青二歳? ってどういう意味だろ。
瑠生が首を傾げていると、赤ネクタイの客が向かいからおちょこと徳利を差し出してきた。
「仕事の話はこの辺にして飲みましょう。半玉ちゃん、お酌しておくれ」
こっちに来いって意味かな……
瑠生が腰を上げかけたとき、振袖の袖口から沖がそっと手を差し入れ、瑠生の手首を掴んできた。
な、なに……何でこの人、手首を握ってくるんだ?
さあさあと、青、赤ネクタイに急かされても、瑠生の手は見えない場所で拘束されている。
どうしていいかわからず視線を泳がせていると、椿が一手を打とうと瑠生に視線で合図をくれた。
けれど、椿より先に動いたのは、沖だった。
「吉田会長、そろそろ芸者さんの踊りでも見たいと思いませんか」
沖が上座に座る吉田に話しかける。
「そうだな。今日はそれを一番楽しみにして来たんだ。ふく里の芸者は一級品だからね」
吉田がクイっと酒を呷ると、それが合図のように椿が腰を上げた。
三味線を抱えて椿が舞台の隅に座ると、梅ちえと里菊も舞台に立った。瑠生も二人の横に並ぶ。
お酌するよりこっちの方が緊張しないや。
舞台から、ふと、沖と目が合う。
ジッと見てくる視線が気になったけど、三味線と里菊の歌が聞こえてくると体が勝手に動いた。
踊りを終え、三つ指をついて挨拶し終えるまで、瑠生は沖の視線を浴びていた気がする。
踊りが下手だったのかな。でも、大きな失敗はしなかったはず。
気を取り直して慎ましさを装い、微笑んだり相槌を打ったりしていると、どうにかこうにかお座敷はお開きを迎えた。
客を見送るとき、
困っていると、半玉になったばかりで用意してないんですと、梅ちえが機転をきかせてくれた。
姐さんたちが客を見送りに部屋を出て行ったあと、一人残った沖が瑠生に手を差し出してきた。
握手?
応えるよう手を伸ばした瞬間、手首を掴まれて沖の方に引き寄せられてしまった。
戸惑っていると、沖が指先を何度も撫でてくる。
な、何してんだ、この人っ。人の指ばっか触ってきてっ!
カチンときた気持ちを我慢して、文句を喉の奥に押し込めた。
困ったときの微笑み戦法で挑むと、ようやく手を解放してくれた。
これで帰れる。ホッとしていたら今度は頬を撫でられた。
な、撫でられたっ。こんなこと、芸者の世界ではあるあるなの? お触りって自由なの!?
引きつった笑顔をぎりぎりの力で返した。
瑠生が覚えた対処法は、これしかない。
とにかくここから早く出たい。でも、客が帰らないことには先に出るわけにもいかない。
もー、早く部屋を出て──
笑顔の下で訴えていたら、突然、沖に抱き締められた。
帯のせいで沖の腕が一瞬、迷う。すると、うなじと腰に手が移動して、密着するように引き寄せられてしまった。
だ、抱き締められてる? こんなのも芸者の仕事!?
瑠生よりずっと背も高く、胸板も厚い。頼り甲斐のある腕の中に小さな体はすっぽり包まれている。
椿姐さん、こんなことされるって俺、聞いてないよ。
必死で
胸と胸の隙間を埋めるよう、力を込められていると、ふわっといい香りがした。
この人、すごくいい匂いがする。それになんだか温かい……
大人な香りと温もりに心を奪われていると、「蓮香……」と、呼ばれた。
反射的に顔を上げると、頬を撫でられながら、信じられないことを言われた。
「君の化粧を落とした顔を見せてくれないか。よかったら違う着物を着てるのも見たい」
は、はぁ? この人、何言ってるの? 違う着物って何だよっ。
放心状態になっていると、また手を取られて、しげしげと瑠生の手を眺めている。
ヤバい……この人、絶対、ヤバい人だ。
この場をどう切り抜けるか考えていると、廊下から吉田の声が聞こえてきた。
「おーい、沖君。車はもう来てるのかー」
吉田の声で沖が離れると、そのまま何も言わず座敷を出て行ってしまった。
一人取り残された瑠生が呆然としていると、心配した梅ちえが迎えに来てくれた。
「瑠生——じゃないや、蓮香、帰るよ」
「は、はい……」
取り敢えず返事はしたけれど、頭の中は怒りが充満していた。
化粧を取った顔って……。おまけに、違う着物って。あの沖って人、何を考えてるんだっ。
怒りが足音に現れそうになって、慌てて
でも……至近距離でも男だってバレなかったな。
腹は立っていたけれど安心はした。
深呼吸すると、自分の体から沖の香りが立ち込める。
胸元に鼻を近づけ、移り香を確かめるように深く吸い込んだ。
ほんのり香ったフレグランスに脳が
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