私が横浜市電の車掌になった理由をよく聞かれる。でも、そんなに深い理由はない。母が「交通局の仕事は安定しているから」と言って募集要項を渡してきたのを覚えてる。それまで、路面電車のことも路線のことも、全く知らなかったし、興味すらなかった。「色んなお客さんが乗りに来るから、人との繋がりを勉強しなさい。」と思って母はこの仕事を私に勧めたのではないかと、最近思う。

 いつものように、紺色の制服に袖を通す。少しだけ秋の香りがする。今日はどんなお客さんに出会うだろうか。いつも通りのクリーム色に青いラインの一両だけの電車。その一番うしろに立ってこの街を眺める。そんな瞬間が私は好きだ。

 私には最近不思議なことが起きた。未来からきた人に出会ってしまったのだ。

 私はその日、いつも通り市電に乗務していた。夜の二十頃、まちの人達は次第に夜の支度を始める時間だろうか。長かった梅雨がようやく明け、日中は少し蒸暑さを感じさせるほど暑かった。夜のこの時間に市電の窓を少しだけ開けて走ると心地よい風が入ってくる。時々聞こえる虫の鳴き声、港の方角から聞こえる船の汽笛。「あっという間に暑い日が来てしまうな」そんな事を考えていたら、その日の乗務が終わる桜木町駅前の電停が近づいてきた。

 桜木町の二つ前の電停だろうか。一人の男性が立っていた。明らかに様子がおかしかった。この街の人ではないことはすぐにわかった。必要以上に物珍しそうに街を見渡していたからだ。

 捨てられてしまった子犬のような、不安そうで、力も抜け、生きようとする原動力の気配さえも感じ取ることができないような顔つきだった。

 思うがまま、彼を乗せた。そして彼が桜木町駅前の電停で降りようとした時、私はあることに驚いた。

 見たことないお金だった。

 いつも見ている鳳凰が描かれた銀貨ではなく、桜花が描かれた硬貨だった。でもなぜか「おかしな人」とは思わなかった。

 その時は、私が運賃を立替えた。その方法しかとっさに思い浮かばなかったから。ううん、もう一度彼に会って話をしてみたい。そう思ったからかもしれない。その日の桜木町駅はいつものように国鉄から降りてきた人が、それぞれの家路を辿ろうとしていた。

 次の日の日中、彼はどの電停にも現れなかった。私が昨日見たのは何かの幻だったのか。でも彼の目はこの世で必死に生きている、そんな人間の目だった。

 その日は夕方で乗務は終了となった。辺りは夕暮れ時特有の忙しなさが商店街を張り詰めていた。沈みかけの夕日が生み出すオレンジが、路面電車の側面の鉄板とガラスに煌々と注いでいた。

 私はその光源となっている夕日に目を向けようとした時、彼を見つけた。

 彼は昨日のお返しと言ってこの時代の硬貨を私に差し出してきた。私は彼のその親切さ、どこかここではない世界で抱えてしまった辛さ、でもその目の奥から感じるほんの微かな頼もしさに、少しだけ心を近づけようとしていたのかもしれない。

「どこからいらっしゃたのですか?」

 気付けば私はそんな事を彼に聞いていた。

 彼は戸惑い、そして何か思い切ったような目つきで

「横浜……未来の世界の……」その言葉の後半は目を合わせていなかった。「信じてくれない」そう思ったのだろう。

「おかしな人だ。」人は間違いなくそう言うだろう。しかし、私は少しの戸惑いの後、彼の言った言葉を信じることにした。あの瞳を見たとたん疑いなどなくなっていた。

 その後、彼といろんな話をした。未来では港を埋め立てた「みなとみらい」という地区が存在するらしい。

 私は未来の話をする彼の顔が好きだった。

 夏の暑さが次第に本領を発揮しつつある季節、彼は私に、

「市電で何かできないか」とつぶやいた。彼が私の大好きな市電に思い募らせていることに、どこか幸せな気持ちになったのを覚えている。それが蒸し暑い横浜の街にちょうど浜風が当たった心地よさなのか、それとも私の胸の中の大切なものが動いた時の感情なのか、わからなかった。

 私たちで考えた納涼列車。その運行当日。私は鮮やかな生地で作られた浴衣を身にまとい、鏡に映った自分を見る。心配そうな目、そして無理やり口角を上げ、眉に力を入れ、たくましさを装う。なんでこんなに……。私はこのときようやく気付いた。


 恋をしてしまった。


 私のこの姿を彼に見せた時、彼の顔が少し赤みがかったのが見えた。でもそんなのとは比べものにならないくらい私の顔も熱かった。いつもの横浜の街の夕日のせいにしたかったけど、まだ太陽は高い場所にいた。


 嬉しい。そう思ったその瞬間、ある葛藤が私を襲った。私が恋してるのは未来の人。未来に戻らないといけない人。未来で強く生きてほしい人。

 私といつまでもこの世界で……でも。

 納涼列車が大成功に終わったその日の夜。目から溢れて顔を伝っていくものがあった。


 次の日、私は車庫の事務所の廊下を歩いていた。心の中の葛藤を抱えたまま。そのせいか、足を進めるテンポが無意識に遅くなっていた。周りから見れば「何か悩んでる人」そのものだった。


「なぁに悩んでんだよ。」後ろから声がした。整備部長だった。作業服の帽子を取り、白髪混じりの髪が揺れる。深い目の堀、口ひげ。相変わらずオーラがあったが、口の右側だけの口角を上げながら少し微笑んでいた。


 整備部の部屋は車掌の詰所のそれと比べて、男の仕事への熱と油の香りが漂っていた。その時は私と部長しかその部屋にいなかったので、私は来客用のソファーに腰を掛けて、達也君が仕事をしている姿を想像しながら部屋を見渡していた。

 部長が面倒くさそうな顔をしながら、帽子を部長の席の机に置き、体重を椅子に思いっきり預けるように座った。


「私、彼の見る景色を一緒に見ていたいんです。でも、彼は未来から来た人だから……きっとたぶん、未来に戻って……それで……」心の中にある葛藤を無理やり声に出してみた。案の定まとまりのない、いびつな言葉になっていた。

 部長はまた、口の右側だけの口角を上げ、呆れたように笑ったあと、ため息を捨ててこう言った。

「どいつもこいつも。気持ちが交差してやがる。若いねぇ」そして部長が背もたれに大きくもたれながら続けた。

「もしあいつが本当に未来に帰るべき人間だと思うのなら、お前はそっと背中を押せるような人間になるんだな。」足を組み、さらに上半身を倒すようにしてそう言った。

「でも……私……」私の胸の中は、何もかもが絡み合っていた。

「お前ら見てるとな、市電そっくりだと思うんだよ。」そう面倒くさそうに微笑みながら言うと、ゆっくり立ち上り、書類棚から一冊の薄い冊子を取出した。それを私の前のテーブルに軽く投げるようにして置いた。


『ダイヤモンドクロッシング』


 それは教育用に用いられる鉄道の教材だった。

「路面電車によく使われる線路の構造でな、線路同士が同じ平面で直交する箇所をダイヤモンドクロッシングって言うんだ。」部長はその教材を顎で指しながらそう言った。私は机の上に置かれたその教材を片手で開きながら眺めてみる。そのなかに、線路が互いに直交し、四本の線路で切り取られた中心部が、菱形になっていることがよくわかる写真があった。

「その線路はな、たった一箇所だけで交わって、あとは別々の道へと続いていくんだ。」

 私は、言葉で表現するのが難しい感情に襲われた。目には潤いを感じ、全身にはなぜか力が入った。

 私はしばらくソファーに座り、ある決心をして立上り、「ありがとうございました。」それだけ部長に言って部屋を出た。

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