ダイヤモンドクロッシング

 僕は今日も桜と一緒に、横浜市電も走る大通りを歩く。あの理髪店で散髪してもらい、なんだか昨日までの自分より清々しい。すっかり住み慣れた桜木町から伊勢佐木町周辺の街。でも横を歩く桜はいつもの明るい桜ではないような気がする。どこか無口で、それでも心の中に秘めた思いを抱えて歩く、そんな感じだった。

「達也くん。未来の横浜には帰らないの?」桜のその言葉は、ただの質問ではなく、未来に帰ることを勧めるようだった。僕は、少し背中が冷たくなる感覚があったが、それが桜の本心かわからなかったので、

「……未来に行っても、僕を必要とする人なんかいないから」そう言うと、桜はただ前を向くだけだった。


 桜に、行きたい場所があると言われてやってきたのは、二つの市電の線路が直交する箇所で、それが近くに見える電停だった。

「ここはね。ダイヤモンドクロッシング。私たちが最初に出会った場所。線路が一瞬、ここで交わって、それでそれぞれの場所へ向かって、ただひたすら。」震えたような声で桜が言う。それに続いて、


 「まるで私たちみたいだね。」


 それを聞いて全てがわかった。桜が僕に冷たく接していた理由。そして桜が僕をここに連れてきてくれた理由。僕は少しうつむいて、そしてあることを決心した。そして

「桜、行きたいところがあるんだ」僕だけをじっと見つめる桜に言った。

 僕と桜はまた歩き始めた。


 僕は、桜木町の南に位置する長者町という街に向けて歩みを進めた。そこには港からの海運を行うための吉田川という運河が東西に伸びていた。運河にかかる千秋橋という橋は市電も行き交っている。僕たちは千秋橋の真ん中で立ち止まり運河を眺める。

「桜、ありがとう。君に出会えて忘れていたものに気づくことができた。僕は……未来で……」途中で自身が無くなった。でも僕はもう分かっていた。ここは未来に戻れる場所だ。桜が僕を見る。

 泣いていた。


 桜の顔をじっと見つめる。そして僕は桜に微笑んだ。

「どこかできっとまた会える。だから大丈夫。」そう言って僕は反対側の橋の欄干に向けて、車道と市電の軌道敷を横断した。反対側の欄干に着いた時に後ろから桜の声で

「達也くん!私も!出会えてよかった。達也くんならこれからもきっと大丈夫。強く生きて!」泣きながら、ただひたすら声を振り絞っていた。いつも通りの優しい眼差しは涙で溢れていた。溢れる涙を拭うことも惜しんで、こちら側に叫んでいた。

 僕は振り向き、思わずこらえきれなくなり、そして溢れた。桜に応えるように頭だけでうなずき、涙をぬぐった。眉に力を入れ、鋭い眼差しで桜を見つめた。

 両側から市電がやってくる。僕が大好きだった、横浜の夕暮れだった。「強く生きて」桜のその言葉が、深く心に刻まれた。市電が迫る。

「ありがとう」桜とこの街にそれだけ伝えた。





 僕は気づくと、地下鉄の伊勢佐木長者町駅の改札外にある階段に座っていた。市営地下鉄。桜がいた時代にはもちろん無い。吉田川は一九七三年に埋め立てられ、運河にかけられた千秋橋は、橋の面影だけを残した大通りの一部となっていた。市営地下鉄は埋め立てられた吉田川の下を通っている。つまり、市電と直角に交わっていた吉田川の下に市営地下鉄は走っている。

 僕はあの時、過去と未来のレールが交わるあの場所で、桜と未来で強く生きる約束をした。僕と桜の気持ちが直交した。

 ダイヤモンドクロッシングのように。

 地下鉄の改札機がICカード読み取り時の音を響かせている。僕は目の縁に残った涙を拭き取り、そっと立ち上がった。


 次の日、僕はいつも通り鶴見川を渡る。窓からいつもの景色を眺めながら、胸に手を当てる。

「大丈夫。」


 オフィスに足を踏みだす。いつもより少し大きな声で挨拶をする。なぜだろう、何人から返答があったかなんて気にもならなかった。背筋を伸ばしキーボードを叩く。自分が思うまま、真っすぐに。そして僕は上司の席に向かう。

「課長、路面電車再建の件ですが…」鋭い目ができていただろうか。きっと大丈夫。


 スーツの身だしなみを整え、以前に交渉した理髪店の前に来た。中に入ると店主は、一人だけの客の施術中だった。ドアの開く音に彼が反応し、「いらっしゃ……」と定型文を言いかけたが、顔だけで待合用の椅子を指してきたので僕はそこに座った。今一度僕はこの店の内装を見回していた。そして、ある一枚の写真が飾られたフォトフレームを見つけた。そこに入れられた写真は二、三枚に破かれたものをつなぎあわせていることが、遠くからでもわかった。そして写真の左上はちぎられていた。

 写真を手に持つ。そこに写っていたのは、クリーム色に青い帯を巻かれた路面電車、そしてその市電の前には街の人が笑顔で写っていた。紺の前掛けを腰に巻いた魚屋、調理用の白い服に身を包んだ中華料理屋、少し派手な婦人服を身にまとった婦人服屋の店主。さらに僕の髪を切ってくれた理髪店の男性。そして、左端には笑顔の男女二人が映っている。桜と、ちょうど写真のちぎられた部分が頭の部分になっていて、顔を確認することができなかったが、明らかに僕だった。

 気付けば僕は涙が溢れていた。施術を終え、お客さんを笑顔で送り出した店主が、僕をしばらく黙って見たあとに、

「若いの。お前、横浜の街が好きか?」と投げかけた。僕は首を縦に振ったあと、市電再建の白紙の件を彼に伝えた。

 大さん橋を出港する船の汽笛が微かに聞こえた。






 二〇一七年 八月。桜は熊本で暮らしていた。孫を連れ、電停で市電が来るのを待っている。扇子を広げ、孫に向けて扇ぐ。透き通るような夏の青空。脳内に残響してしまうほどのセミの鳴き声。ようやく市電が電停に到着した。手をつないだ孫は彼女より早く乗り込む。床下から低く、たくましい音を立てながら、走り出す。つり革が左右に揺れる。あの頃と同じように。

 二、三駅過ぎた頃だろうか、一人の青年が乗り込んできた。乗車の際に不安そうな顔をしていた。乗り慣れていないのか、恐らく観光客だろう。トートバッグの中から『交通工学』の教科書を取出し、真剣そうに眺めている。大学生だ。そう思った。次の瞬間、彼女の胸の中に微弱な電流が流れたようにふと何かを思い出した。そして隣に座っている孫に向かってこう言った。彼に聞こえるように。

「市電はね、街と一体になれる唯一の乗り物なの。でもね、市電があっても無くても、会いたい人に会いに行きたい。そう思えるだけで、それでいいの。」彼に届いただろうか、それはわからなかった。彼はそれから二つ先の電停で降りていった。その電停を出発してすぐ、彼女たちが乗った市電は、他の路線と直交する箇所を越えていった。

「おばあちゃん」隣に座っていた孫が彼女に呼びかけている。心配そうな声で。

 彼女が泣いていたからだ。

 大きく勇ましい入道雲が、市電が走るその街を見守るように眺めていた。

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