納涼列車

「未来の横浜ってどんな街?」

気づけば桜とは敬語で話さなくなっていた。

路面電車の整備の仕事もだんだん慣れてきた。と言っても最初のうちは車庫に入ってきた路面電車の台車枠の点検や車内の清掃がほとんどだったので、誰でもできる仕事ではあった。

「……今よりもずっと便利だよ」混雑とか冷たさとかそういった生き辛さ的なことは桜には言いたくなかった。


 夏の季節になっていた。この辺りは未来のそれと比べて、かなり涼しい。でも相変わらず蒸し暑さから来る鬱陶しさはこの時代もそのままだった。港が近く、海からの風が唯一街の人々を涼しいと感じさせていた。

夕暮れ時にお互い仕事が終わったので二人で歩いていた。桜は未来からきた僕に興味津々らしい。最初は信じていないような感じもあったが、未来で埋め立ててできた「みなとみらい」という街や、山下公園の氷川丸は遥か未来までも、繋留され続けていることなどを真剣に話したら、すっかり疑いはなくなっていた。


 二人は大岡川に架かる弁天橋を並んで渡る。クルマも市電もこの橋を渡って桜木町駅に近づくことになる。この橋は令和の街でも残っている。


「未来の世界の勤めてる会社で、市電を再建させるプロジェクトをやってるんだ。前に熊本で路面電車に乗ったことがあって、それから路面電車に心惹かれてるんだ。」僕は桜に言った。未来ではすでに横浜市電が全廃していることはかなり前に話したことがある。だからこの話をすると桜は喜んでくれると勝手に思っていた。

「ほんとに!嬉しい。」予想通りだった。でもどこか、心の底から喜んでいないようにも見えた。


「私市電が大好きなの。街の知ってる人、知らない人。色んな人が市電に乗ってしばらくしたら降りてまちに消えていく。そしたらまた次のお客さんが乗って…それを市電の一番後ろに立って見てるのが好きなんだよね。」彼女の言った言葉、なぜか僕の心の底に沈んでいった。「やっぱり未来の街で市電を…」そう思った。


 僕はこの街の温かさに浸ったせいか、少しづつ心の彩りを取り戻しつつあった。そして僕は自分の頭の中だけにあることをしまい続けていた。「市電で何かできないか」と。そしてそれを桜に打ち明けようとした。


「何か市電を使ってできることはないかな?」思い切って言ってみた。僕はほかの世界から来た人間だから、そんな事を言うのは少し戸惑ったが、桜にだけは伝えたいと思っていた。


「あっ。それ。いいね。」桜が嬉しそうに言った。「何がいいかなぁ」と考える顔をして桜が向かってくる市電を眺めていた。

沈黙が続いたあと桜は、僕が「この暑さどうにかなんないのか」という顔をしながら無意識に手でうちわを作り、あおいでいる姿を見て、

「納涼列車!どうかな?」


「部長がなんて言うかなぁ」僕はそう言った。相変わらず自分から取り出すことのできない消極的で縦社会体質の心が、その言葉を生み出した。


でも二人はどこかやる気に満ちあふれていた。根拠もなく、小さくて薄い、風なんて吹けば飛ばされてしまいそうな、そんな程度のやる気だった。


市電が通るたびに小刻みに揺れる弁天橋の上で、僕らは立ち止まり、遠くに沈む夕日を見ていた。


「余計なことはやめとけ」整備部長に予想通りの言葉を吐かれた。未来の社会で言われ続けた言葉だった。でも、この世界での僕は「やってやる」そう思っていた。

あの社会で培った書類作成のノウハウのおかげで、部長を説得するのはやけに簡単だった。

窓をすべて取り外して走行。車内には風鈴。乗務する車掌には浴衣を着用させる。そんな程度の現実的な項目を並べて企画書にして部長に差し出した。


「俺は乗り気じゃねぇんだけど、交通局の上層部がやれって。」僕の目を見ずにそれだけ言った。


 桜と二人で商店街を歩いた。お目当ては婦人服屋。僕がこの世界に来た直後にこの商店街で見つけた婦人服屋だ。商店街の通路沿まで衣服を並べてあり、遠くからでもあそこだとわかった。あの時の女性の店主が衣服の数量の確認だろうか、鉛筆片手にメモを取っていた。店には客がいなかったので、話しかけるのは簡単だった。


「車掌用の浴衣かい?いいじゃない。」この人ならきっと承諾してくれると思っていた。婦人服屋を営む前は呉服店だったらしく、生地には困っていないらしい。

「桜ちゃん。どんなのがいい?」店主が桜に問いかける。

「まだ私が着ると決まったわけじゃ…」恥ずかしそうに言った。

「いや、君が乗るんだ。」僕は言った。そんなのはじめから決めていた。その店主は、鮮やかな生地を使って、今の市電の制服と同じ形の帽子も作ってくれるらしい。

僕らはその後、納涼列車のこと、そうでないこと、色んな事をその店の店主と話した。そして二人で店をあとにした。


商店街を二人で歩く。賑わいというより、懐かしさに似た温かさ。


「おっ。兄ちゃんじゃねぇか。」後ろから声をかけられた。魚屋の男性だった。

「なんだ桜ちゃんも一緒じゃねぇか。」そう言って、何か思いついたように

「今からあいつの店に飯食いに行くんだ。一緒に行くか?ごちそうしてやる。」そう僕らに向けて言った。「あいつ」が誰なのかわからなかったが、桜が

「おじさんあの店好きね。」そう笑ったあとに、魚屋はあの日と同じように「へへへ」と返した。


 たどり着いたのは中華料理屋だった。壁はオレンジ色に塗られ、その上部は大きな黄色い看板が取付けられ、その後ろから蛍光灯で照らしているので、その看板は全体的に黄色に光っていた。魚屋がのれんを手で払いながら、少し重いドアを開ける。魚屋が続けて

「おーい!こいつらにサンマーメン食わしてやってくれ。」太く男らしい声で言った。

サンマーメン。未来の横浜にもある。横浜駅に併設されたデパートのレストラン街にある中華料理屋で、その店前の食品サンプルで見かけたことがある。

「なんだよ。またお前かよ。三つね。あいよ」そう言って厨房に消えていった。


しばらくして三人の前に丼ぶりが並べられた。見えているのは、白菜やもやし、にんじんや豚肉のあんかけで、その下には麺が隠れているのだろう。箸を取出し桜に渡すと、「ありがとう」と笑い、「いただきます」と言って食べ始めた。

「俺のは!」箸が渡されなかった魚屋が僕にいう。

「へへへ」と僕は魚屋の真似をして、箸を取り出さずに、箸立てごと魚屋に寄せた。

「なんだよ。」魚屋はそんな顔をしていた。

 あんかけを箸でかき分け、少し太い麺を探る。湯気が顔にかかる。とろみがかった麺をすする。あんかけで熱がこもっていたからか、妙に熱い。体の芯が熱くなる。上手い。

「思い付いたはいいものの、流行るかね?」大将が言った。

「きっと未来までも食べられ続けていますよ。」僕は冗談じみた口調で言った。

 大将は、それを完全な冗談だと思い込み、

「兄ちゃん、嬉しいこと言ってくれるじゃねぇか。ははは。」そう言いながら、片付けをしに厨房へ戻っていった。


「納涼列車か。面白そうじゃねぇか。なぁ大将。」僕らの話を聞き終えた魚屋が言う。

「ああ。いつだ?」大将が僕に聞く。

「三週間後の土曜日の夕方。六角橋から弘明寺までです。」横浜市を横断するようなルートだ。片道だけだが、交通局の上層部がダイヤを手配してくれた。

「賑わうね。」大将が少し笑ったあと、

「でも兄ちゃん。見ない顔だと思ったら、どうして市電にそこまでするんだい?」僕は即答できなかった。

隣りにいる桜だけが、僕のほうをまっすぐ、どこか誇らしそうに見つめる。少し微笑むように。

「市電が……好きだから。」とりあえずそう返した。すると横で魚屋がこう話す。

「横浜市電はな、昔からこの街の足としてずっと走ってきた。ほかの乗り物と違って客と客の距離が近い。それで市電を経て、次第に街に一体感が生まれる。若いやつがそこに目をつけてくれるのは嬉しいよ。」魚屋が続ける。

「兄ちゃん。いつまでこの街にいるか知らねぇが、いい大人になるよ。」相変わらず太い声で、僕の背中を叩きながらそう言った。


 僕は背筋を伸ばして言う。

「桜、明日車庫で準備しよう。隅に停まってる一一〇四号車を使う。」

 桜は、口角を少し上げ、僕のほうをまっすぐ見つめ、うなずいた。


 納涼列車の運行当日。六角橋の電停に停められた、一一〇四号車。初めてこの世界に来た時に見たものと同じ、青色の帯をまとっていた。

 普段であれば上下させて開閉させる窓も、今回はすべて取外してある。整備部の仲間と事前に取外し作業を行った。重整備の際に窓をすべて取外す工程があるので、難しいことではなかった。四、五人ほどの女性車掌を車庫に呼び、車内の内装に彩りを持たせた。いくつもの風鈴が天井からぶら下がっている。その作業はまるで文化祭の前日のようで楽しかった。


「達也くん。早いね。」桜の声だった。でも、いつもの車掌の制服ではなかった。制服と同じ紺色を基調とした生地に、きれいな花が涼しげに踊るように描かれていた。そうだった、今日はあの婦人服屋に作ってもらった浴衣……

そんな事を考えている途中に僕は思った。

「美しい」


「派手すぎないかな?」恥ずかしげに桜が言う。制服に似せた、浴衣と同じ生地の帽子のつばが、あのときと同じように桜の顔の上半分を隠す。僕は首を横に振る。

「大丈夫。その調子で今日は盛り上げてほしい。」それだけ力を込めて伝えた。


 「なんだい。涼しそうだね。」乗客が乗ってくる。常連だろうか。僕は普段、桜木町駅周辺しか乗らないので、その人がよく市電に乗るのかは分からなかった。

 ようやく車体が動き出す。午後十七時。この時期のこの時間はまだ太陽は高いが、次第に夕暮れへと変わっていく。そんな時間だった。

 風が車体を通り抜ける。普段であれば熱がこもってしまう車内の空気を簡単に洗い流すように。

 それと当時に風鈴が揺れる。軽くて明るくて儚い音が車内に響き渡る。車内だけでなく、車両を取り巻く車道にも涼しさが伝わるように。

 様々な人が乗っては降りてを繰り返していった。うちわを持ちながら

「こりゃいいなぁ」と喜ぶ人も。

 次第に桜木町に近づく。桜を普段から知る乗客が乗り込んできた。

「桜ちゃん。いいの着てるね。」そう言われると桜は少し照れていた。しばらくしてあの婦人服屋の店主が乗り込んできて、気づけば

「あの桜ちゃんの服、あたしが作ったんだよぉ」と周りの人に自慢していた。

 桜木町駅前の電停に着くと、あの魚屋が何やら机一つ分の小さな店を開いていた。よく見ると「氷」と書かれている。魚屋が呼びかけた。

「おう!やっと来たか。おれもなんかできねぇかなと思ってよ。かき氷作ってんだ。氷なんて山ほどあるからよ。」そう言って彼が続ける。

「そしたら売れる売れる。こっちのほうが儲かるかもしれねぇな!」彼らしい冗談を言っていた。

 横浜はそんな街だった。この街が好きだ。そう思った。大盛況のまま、弘明寺の電停に着いた。あっという間だった。なんだか……嬉しかった。でもどこかで、引っかかるものがあった。その正体は分からない。


「達也くん。ありがとう。」桜が僕に笑いかける。嬉しさが増した。

「またやろう。」僕が言うと、なぜか桜の笑顔は少し控えめになった。

「この市電はね、会いたい人に会いに行けるを叶える乗り物なんだ。でもね……」桜は続けようとしたが。なびいた髪を整える仕草をしてそれをごまかした。

 すっかり太陽は沈みかけ、相変わらずこの時代特有の不鮮明な空気が夕日の暖色を引き立てていた。


「お疲れ!」

 その日の夜は、あの中華料理屋を貸し切って打上げをした。交通局の人や車掌、魚屋をはじめとした商店街の連中などさまざまだった。みんな笑顔だった。

 一通り今日の話題である「納涼列車」の話が尽きたあと、全然関係のない話に移るのは、飲み会ではよくあることで、昔も今も変わらない。

 そんな話をしている中、魚屋が少し酔っ払った口調で、

「兄ちゃん。ちょっと髪伸びたんじゃねぇか?こいつに切ってもらえよ。」そう言って、隣に座っていた理髪店を営む男性の肩を叩いた。そして魚屋が続けて、

「こいつのせがれ、去年生まれたばかりでよ。」そう言った。僕は胸の奥底の小さな部分が熱くなるのを感じた。理髪店の男性は何も言わず、こちらを向いて笑いながら会釈をする。また魚屋が言う。

「楽しみだよな。お前の技術なんかすぐに抜かれるかもな。」そんな冗談を理髪店の男性に放り投げ、「そんなわけないだろ」というようなやりとりをそのテーブルでしているのがわかった。

 僕は胸が熱くなった。

 隣に座っている桜が僕のほうをじっと見ている。

「どうしたの?」僕が尋ねると、

「ううん。何でもない。」少し間があったように感じたが、いつものように、まゆの力を緩めて微笑んだ。

 その店の笑いは絶えなかった。きっと笑い声は中華料理屋の外側にも漏れていただろう。


 次の日、僕は車庫の事務所の廊下を歩いていた。心の中の不気味な引っかかりを抱えたまま。そのせいか、足を進めるテンポが無意識に遅くなっていた。周りから見れば「何か悩んでる人」そのものだった。


「なぁに悩んでんだよ。」後ろから声がした。整備部長だった。作業服の帽子を取り、白髪混じりの髪が揺れる。深い目の堀、口ひげ。相変わらずオーラがあったが、口の右側だけの口角を上げながら少し微笑んでいた。

 二人で整備事務所に入り、普段彼が座っている部長の席の椅子にドスッと腰掛けた。自分が未来から来たこと、一度全廃した市電を再び走らせる計画のことなど、彼に全部話した。来客用のソファーに腰掛けた僕に言う。

「未来からねぇ。そんなとこだろうと思ったよ。」大きな空気を口から吐き出しながら言った。

「このポンコツはなぁ。確かに街の連中の足だ。」事務所の窓から見える車庫に停まった市電を眺めながら言った。

「でもな、発展しつつある自動車社会の邪魔になっていくことなんてみんな気づいてんだよ。」そう言って彼が続ける。

「この街の人の温かさ。市電があってもなくても変わらずそこにある。『この街に市電が走っていた時代があった』それだけで十分なんだよ。無くなったものを再び敷き直す。それによって失われるものもあることを忘れるな。」そう言いながら今日の書類整理に手をつけた。

 僕は少し戸惑った。なにかに気付かされたような、否定されたような。自分でもよく分からなかった。でも、忘れかけていた大切なものを彼からもらった。それは確かだった。

「僕、市電を復活させたくて……でも、この街の人に……」うまくまとまらない言葉を懸命に並べようとしたが、それを見て彼が、

「若いねぇ。気持ちが交差してやがる。」と笑いながら、椅子の背もたれに大きく寄りかかって言った。

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