一九五九
令和の時代でこのクルマが走っていたとしたら「旧車」と呼ばれるだろう。そんなクルマが辺りを走り回っていた。
その大通りは、片側三車線になっていて、三列になった車が目をこらさなくても見えるほどの排気ガスを生み出しながら、続々と走ってくる。
反対方向の車線も同様だが、その車線との間には奇妙な空間があった。
レールが敷かれていた。
少し上を見ると、漢字の「井」のように電線がクモの巣状に張り巡らされていた。
その電線の向こう側にはやけに古びた建物があり、その屋根に取付けられた縦の看板には、旧字体で「横浜銀行」と埋め込まれていた。
遠くの方から、バスよりも二回りほど大きな塊が走ってくる。
クモの巣のような電線から、鉄の棒で吊るされるようにして、大通りのどまんなかを切り裂くように。
横浜市電である。
全面の上部に埋め込まれた行き先表示には「弘明寺」と掲げられている。
僕は異世界に来てしまった。半分は信じていなかったが、ここが横浜の街だということはわかった。しかも昭和の時代の。
郵便ポストの下に散らばった新聞紙を拾って年号を確認しようとしたが、それはしなかった。
「どうせこの街に呪われすぎて、悪い夢でも見ているのだろう。」そう思ったからだ。
僕は、路面電車を近くで見るため、ゆっくりと自動車用の車線の中央にある電停に向かった。
どうせ夢の中だと思い込んでいたので、知らない世界の中を歩くことに恐怖感はなかった。
電停にたどり着き、看板に目をやると、
「尾上町」と記されていた。
こうして大通りのどまんなかに浮かんだ島のような電停に立ってみると、ますます違和感が僕の体を包み込んだ。
古いクルマが行き交う。うるさく、乗り心地もあまり良さそうではない。電停を挟んで走るクルマの車列はすべてそんな旧車ばかりだった。
「よくできた夢だなぁ」そんな事を考えていると、遠くの方から市電がやってくる。
まだ遠くを走っているので、自分がいる電停の一つ前の電停に停車したのがわかった。そしてその車体が近づいてくる。
全体をクリーム色で塗られ、前面のちょうど中心に前照灯が一つだけ装備されている。
車体を一周するように青色の細い帯が巻かれていた。運転席側に装備された、縦長のバックミラーが自動車社会の合間を縫うようにして走る路面電車の風格を押し上げた。
甲高い、ブレーキの音を響かせて、徐々に速度を落とした車体が僕のいる電停に停車した。
乗客が二、三名降りたあとに後ろのドアから女性が降りてきた。後ろで縛った髪が仕事熱心な心を物語っていた。恐らく僕と同じ二十代半ばだろう。
紺色の布を体の左側で重ね、金色の六つのボタンで止めてある。膝下までのスカートもそれと全く同じ色だったので、彼女が身にまとっているのは制服だとその時点でわかった。
同様に制服と全く同じ紺色の帽子は、つばの部分が大きく波打っていて、顔の上半分はよく見えなかった。
「ご乗車になりますか?」久々に聞いたやさしい口調だった。と同時に、隠れていた彼女の顔がよく見えるようになった。
まっすぐ輝きをもった瞳に、僕に寄り添うかのような角度の眉。じっと僕を見つめる。
ようやくはっとした。夢じゃない。
時空を超えてしまったと分かったのはこの時だった。
夢だと思い込んでいたので、市電に乗るかどうかなんて考えていなかった。
「あっ…あの。乗り方…わからなくて。」
とっさに出た言葉だった。僕の知る横浜の人間なら冷たく接しただろう。しかし彼女はちがった。
少しだけ戸惑いを見せたが、次の瞬間からは優しい声で、
「大丈夫ですよ。どちらまで行かれますか?」
僕は、とりあえず馴染み深い街に行こうとした。そこにいけば何か解決するかもしれないと思った。
「さ…桜木町」
そう答えた。
「後払いになりますので、とりあえずご乗車ください。」相変わらず優しく、でも接客の時だけに見せる優しさではなく、彼女の真ん中の、芯にあるところから滲み出るものだとなんとなく感じた。
車内に入ると暖色の光が僕を包み込んだ。
広告にはその年の一年のカレンダーが掲示してあった。たくさんの街の人が市電を足として生活しているのだろう。そう思った。
一九五九年
僕の体の中心に冷たい何かが通り抜けた。
タイムスリップして三十分ほどしか経っていないだろうか。
そろそろ桜木町に着く。
電停に着き、車体が完全に停車した時点で、僕は再び彼女のところへ行き、運賃を渡そうとした。
車内に掲示してあった運賃表を見たが、よくわからなかったので、百円玉を二枚彼女に渡した。お釣りなんてどうでもよかった。それよりこの意味不明な乗り物から飛び降りたいという気持ちのほうが強かった。
彼女はその百円玉を見て、少し戸惑っていた。
僕は今、ようやく思いついたようにはっとした。
未来の硬貨だった。
彼女は心の底から不思議そうな顔をしたが、無理やり小さな笑顔で
「少々お待ちください」とだけ言った。
桜木町は様々な市電の路線が交差し合う関係で、路面電車の少し大きなターミナル駅のようだった。そのため、車掌もここで交代するらしい。
彼女は車掌用の小さな荷物を取り出し、車体の外へ出る準備をした。
僕は先に車両の外に出て、彼女が降りるのを待った。
次に乗務する彼女と同じ制服を着た車掌に簡単な引き継ぎをしたあと、彼女は僕のほうを振り向いた。
彼女は何も言わずに、運賃ぴったりの硬貨を自分の小銭入れから取り出し、切符を切る。
「……次で、いいですから。」
そう言って電停を離れた。
僕は、もうすでに途方に暮れていた。
古びたビルとビルの間の空間に身を細めていた。
「あんた、泊まるとこあんの?」男性に声をかけられた。紺色の前掛けを腰に巻き、白い文字で
「産地直送 鮮魚」と書いてあり、魚屋の人間だとわかった。
僕は驚いた、いきなりだからというより、未来の世界ではこんなボロ雑巾のように捨てられた人間には見向きもしないからである。
何も言えずにいると、
「ちょっとこっち来いよ」と、つよい口調ではあるが温かみのある言葉を僕に言い、言われるがままにあとをついて行った。
そこは野毛にある、簡易宿泊所というか下宿屋というか、とりあえず旅館とは絶対言えないような場所だった。
「やっちゃん! こいつ今日泊めてやってくんねぇか?」大きな声で魚屋が言う。なんでこの人はこんなにも僕のためにしてくれるのだろう。
「なんだよ。こんな時間に」事務室のような部屋の奥から魚屋と同年代の男性が出てきた。
二人が目を合わせると、声も出さずに右手をさっとあげて挨拶のようなものを交わしていた。
「ここはな、横浜港に寄港した漁船の漁師が泊まるとこだ。」魚屋が僕に言った。魚屋がまた事務室に向かって、
「なぁ 一部屋ぐらい空いてんだろぉ」そう言うと、事務室の中の男性は掛けていた眼鏡を外しながら
「一部屋どころじゃねぇよ。何部屋空いてると思ってんだ。」と笑った。
魚屋は、「だよな」と言わんばかりに
「へへへ」と笑った。
僕は今晩、この下宿屋で一晩を過ごすことになった。
六畳ほどの大きさの部屋に入り、溶けるように崩れ落ち、仰向けになった。
隣の部屋からラジオの音が聞こえる。未来の世界では特番でしか紹介されないほどの昭和の歌謡曲だった。
窓の外から市電が走る音が聞こえる。
翌朝、昨日の魚屋の店に招かれ、鮮魚売り場の奥にある、小さな木製の机の上で朝食を食べた。
魚屋が差し出した海鮮丼は鮪やいくら、イカやしらすなど、朝食にしてはあまりに鮮やかであった。
そして僕は横浜の街を歩き回った。令和の時代では埋め立て地となってほとんどテーマパークのような世界のみなとみらい地区は、この時代ではまだ「港」として機能しているようだった。
相変わらず、路面電車が走っている。
昨日見た紺色で落ち着いた制服を身にまとった車掌が一人ずつ乗務しているのが見えた。
令和の時代に走り続けている路面電車も車掌は乗っていただろうか。そんな事を考えて、そしてまた商店街のほうへ歩き始めた。
とりあえず、この時代の硬貨を拾い集めてあの車掌に返そう。そう思った。
商店街を歩く。書店や薬局、婦人服屋など、様々な店が立ち並んでいた。婦人服屋の店主であろう七十代くらいの女性が、隣の靴屋の店主と話している。
「来年の商工会の会長、田中さんで決まりかねぇ」
女性が言う。
「あの魚屋の?田中さんなら賑わうねぇ」靴屋の店主が応える。昨日からお世話になっているあの人は田中っていうのか。
僕はその商工会の話を耳にし、これまで横浜の街では感じたことのない、どこか黄色いような橙色のような、とにかく、少しだけ温かみを帯びたそんな空気をこの商店街で感じた。
その日の夕方まで、昨日の女性の車掌は見かけなかった。今日一日で、数多くの市電の車掌を見て、路面電車の編成数を実感し、もう会えないかもしれないと、そう思うようになっていた。
ようやくの思いでかき集めた硬貨をポケットに入れ、沈む夕日を眺めていた。自動車が吐き出した排気ガスのせいか、この世界は少し濁って見える。
しかしその不鮮明さが、夕日の暖かい色を絶妙に乱反射させ、街全体が暖色に染まっていた。
「ご乗車ありがとうございました。」電停に停まっている市電の影から聞こえた。優しく、でも硬く太い芯を秘めたような、聞き覚えのある声だった。
昨日と同じように桜木町の電停で乗務を終えたところらしい。
「あの……」思い切って話しかけた。
「あっ」彼女は優しく小さく微笑んだ。でも少し驚いたように。
「昨日はありがとうございました。」そう言いながら硬貨を彼女に手渡した。
「わざわざありがとうございます。」ほんとに返しに来てくれたんだ。そう思っていただろうか。
彼女は僕の無意識に出たそんな態度を見て、少し安心したのか、続けてこう話した。
「どちらからいらっしゃったんですか?」
それを聞いて僕は硬直した。その返しを何も考えていなかった。どこからも何も、この街から来ている。しかし遥か遠くの世界の。
彼女からの問いが頭の中で残響する中、透明度が高すぎるその声になぜか、本当の事を話そうと思ってしまった。
「横浜……未来の世界の」
彼女は戸惑いを見せた。当たり前である。
「未来……?」彼女が言う。しばらく僕のほうを見て続ける。
「やっぱり、見たことないお金でしたもん。」
小さく笑った。驚いた。こんなこと信じたのだろうか。
「信じてくれるんですか?」疑いではない。どこか安心もかき混ぜて言った。
「あなたの顔、嘘つきではないような気がします。」
僕は思わず口角にある、凝り固まった何かが崩れ落ちるような感覚があった。
「ということはご飯もお金も働く場所も何もかもないってことですよね?」心配そうに問いただしてくる。
「……」返答に困っていると、
「ちょっとついてきてくれますか?」と言って二人で歩き始めた。歩いている途中で、
「名前。吉沢 桜って言います。」改まって僕に言った。自分の名前も言おう。自然に思った。
「立花 達也」
そういえば昨日、理髪店を訪れた時、名刺を置いただけで、自分の言葉では発していなかったと気付いた。
「達也さん。」この時代では変わった名前なのだろうか。そんな事を思いながら歩き始めた。
歩いている間に、色んな事を話した。僕と彼女が同い年であることもわかった。
「同い年」では絶対ないが、この世界ではそんな関係が成立する。
少し歩いてたどり着いたのは、横浜市電の車掌の事務所が併設された車庫だった。
線路が何本も敷かれ、連結されて二両になったものや、一両だけのもの。様々な路面電車が無造作に置かれていた。まるで模型のようだった。
「このあいだ整備さんが人が足りてないって言ってたんですよ。」そう言いながら、彼女は複雑に左右する事務所の廊下を迷いもなく歩き続けた。歩いているうちに彼女の車掌業務用の見えない鎧を脱がされ、肩の力が抜け、口調も柔らかさがさらに増したように感じた。
「あっ。いたいた。整備部長さーん」工場の隅にある事務用の机が五つほど並べられた、事務所だった。
整備部長の男性との話は驚くほど早く進んだ。
僕が会社に入社してすぐ、研修で取得した電気工事士の資格の話や、大学の時に履修した、交通工学の話などをしたら彼は一言。
「ここで働くのはどうだ」と。
未来に帰りたい。そんな思いは自分の中には無かった。
整備部長が「お前はこれだけ読めば大丈夫そうだ」と言って渡してきた、厚紙の表紙に「標準整備仕様書」と書かれた本だけを抱え、辺りを見回すと、すでに夜の黒が世界を包み込んでいた。
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