ダイヤモンドクロッシング
@e-hnu12
希望を失った街
港と都市が融合した街、横浜。ひと昔前、この町には市電が走っていた。それは歴史の資料で知った話でも、誰かから聞いた昔話でもない。紛れもなく、僕が体験した——あの日の横浜の物語である。
二〇一八年四月、僕は街づくりの計画や都市開発、施工管理を行う会社に入社した。
学生の時は都市開発のことが学べる学部に所属し、四年間をなんとなく過ごした。正直授業の内容や教授の言葉、試験の内容や成績など、あまりよく覚えていない。ただ、人とそれを取り巻く街はかなり密接に関係しているということはうっすら頭の片隅なのかノートの片隅なのか、どこかに残っている。
大学四年生の夏休みだろうか、僕は航空券が安いからという理由だけで熊本に訪れたことがある。その街には路面電車が走っていて、それを利用する乗客は、観光客はもちろん地域住民や通学、通勤で利用している人もいて「街に溶け込んだ東京にはない乗り物」ということを覚えている。
それからなぜか僕は路面電車というものに惹かれ、この会社の採用面接の時に、路面電車のような交通システムを再構築することに挑戦したいと話した。
その当時は街づくりに携われることに心を弾ませ、目の奥は今よりも少しは輝きを持ったものだったと思う。
その当時は。
それから数ヶ月が経ち、僕は横浜の都市開発グループに配属された。
入社当時の弾んだ心や目の輝きは誰がみてもほとんど失われているように見えているだろう。想像を絶する残業時間、上司からの冷たく重い圧力、それにしてはさほど十分とは言えない給料、三時間ほど家で睡眠をとってから再び会社へ足を運ぶ毎日で体は限界を迎えつつあり、無意識のうちに下を向いて歩くような心持ちになっていた。
僕はいつも通り会社に向かう。
朝の通勤電車で毎日鶴見川を横浜方面に向けて渡る。
東の空をつい先ほど登り始めたばかりの太陽が電車の車内に差し込み、それに気づいて毎回僕は窓の外に目を向ける。
鶴見川を渡る線路は比較的水面の近くに渡してあり、川の水に反射する太陽の光が、割れて床に散らばったガラスに光がキラキラと乱反射するように輝いている様子を近くで見ることができる。まだ低い太陽の方向を見ると沿岸部の工場の煙突から煙が出ているのが見え、まるで映画のワンシーンのように感じる事がある。
僕はこの景色を見る瞬間が唯一好きである。しかし、この橋を渡ると理不尽で退屈で地獄のような職場がすぐそこまで迫っていることになる。
会社のビルの一階の入り口は自動ドアになっていて、そこから入ると内側からその自動ドアを開けるのは何時間もたった帰社のタイミングのみとなる。
その自動ドアのセンサーはかなり近づかないと反応しない。たまにしばらく開かないこともある。まるで機械が自分を人間と認識していないかのように。
所属している部署は十二階にあり、エレベーターで登るのが日常だが、なぜか低層階の社員も利用するためいつも満員に近い状態となる。
オフィスに入り、自分の席に向かい半径二メートル程にしか聞こえないような声で挨拶をするが返答があるのはよくて二名ほどである。
少しだけ重みがあるまぶたをこじ開けながらそれと同じようにノートパソコンを開く。
僕は、横浜の街に路面電車を再び走せるというプロジェクトを立ち上げた。
路面電車の軌道を敷くために路線の計画を行ったところ、伊勢佐木町の商店街の入り口に佇む理髪店が支障している。今日はその理髪店に勝ち目のない交渉に行く日である。二週間前にアポを取り、店長に時間を作ってもらった。
書類を整理し、午前十時ごろに席をたった。「行ってきます」は言わなかった。他の人が社外に出かける時は誰も言っていないからだ。
伊勢佐木町の商店街は平日にしては人が多いように感じた。
あと一時間ほどすれば正午になるというこの時間は少し穏やかに時間が過ぎる。子供を学校に送り出し、家事がひと段落した主婦が八百屋の前で何やら悩んでいたり、書店の店員が店先に並べた本の清掃をしたりしている。
少しレトロに感じる雰囲気を感じていたが、店と店の間に設置されたモバイルバッテリーの貸出しサービススポットを見るとやっぱり時代は令和なのだと再認識させた。
商店街の入り口にその理髪店はあった。ヨーロッパにありそうなカフェの入り口のような木製のドアと、脇には植木鉢。そしてゆっくり回る理髪店のサインポール。深呼吸とまではいかない程の少し大きな空気を体にためて、一秒ほどで吐き出した。緊張している時はいつもこうしている。
ドアを開ける。「いらっしゃい」言い慣れた感じで店の奥から聞こえる。五十代だろうか、まさに職人と言った言葉が似合う男性が鏡越しにこちらをみていた。店には客はいなかった。
店長が僕に聞こえるか聞こえないか程度のため息をして
「そこ 座んな」と言った。彼が顔で指した先は散髪用ではなく待合室用の簡素な椅子だった。
僕はその席に向かい、カバンを床に置き、道具を整理し終えた彼を、背筋を伸ばして迎えた。
「本日はお時間いただきありがとうございます。私は横浜市の交通の再構築を担当して…」
言い終える前に「聞いてるよ」と遮られた。
少し戸惑ったが、続けて机の上に資料と名刺を置いた。
「交通システム部 立花 達也」
この度、路面電車の路線をこの地域に整備することになりました。
「要するに…」言いながら彼はタバコに火をつけた。
「うちが邪魔だって言うんだろ」冷たい人間が発する言葉で僕に刺した。
「邪魔とは申し上げておりません。人々の豊かな暮らしのために市電の再建を。」緊張を振り切って言った。面接での言葉のように綺麗事だとも思った。
「今のこの街が豊かじゃないとでも?」彼に返された。戸惑う僕を見向きもせず続ける。
「この店は親父やその前の世代から続いてるんだよ。戦後からずっとだ。鬱陶しく伸びた髪をここで切ってきた。商店街の連中や桜木町から来るサラリーマン。夕方になれば学校帰りのガキもここにきて、さっぱりした顔で帰ってく。」切った後の鬱陶しく伸びた髪を見るように僕を見つめながら言った。その言葉の奥には誇らしさも沈んでいた。
「ご協力いただければ再築の補助金のご案内もいたします。」僕は上司から冷たい顔をされながら渋々承認を得た書類を差し出すが、彼は一見もしなかった。
「ここじゃないとダメなんだよ。ずっとここでやってきたんだから。」彼は立ち上がってしまった。もう無理だと僕は思った。最初から勝ち目なんてなかったけれど。
彼は再び散髪用の椅子の後ろに立ち、鏡越しに僕を見ながら
「若いの。新しいことを考えるのは立派だが、人がどうやって街で暮らしているか考えるんだな。地図に鉛筆で線を引っ張っただけで『豊かになります』だと? ふざけるな。もっとこの街の人の顔をよく見るんだな。」
彼は二度とこちらを振り向くことはなかった。店を出るしかなかった。
相変わらずサインポールはゆっくりと回っている。僕の中にこれがあれば、もうすでに錆びついて止まっているのかもしれないと頭の中で思った。
ゆっくりとこの街をあとにする。どうしようもなく僕の心は凝り固まっていく。
この世は救いようもなく退屈で理不尽だ。重い足をとりあえず持ち上げながら歩く。
その日の夜、再び伊勢佐木町を訪れた。特に理由はなかった。一人で商店街の奥まったところにある居酒屋で酒を体に注ぎ込んだ。
ダメだ。体が疲れすぎている。水平を保つのがやけに難しい。クラクラする。酒の酔いとはどこか違う気がする。
「『豊かになります』だと? ふざけるな。」昼間の散髪店での言葉が頭の中で立ち往生している。言われ慣れた罵倒もなぜかあの言葉はこびりついて離れようとしない。
もう帰ろう。お金だけ支払い、店を出る。角を曲がる。桜木町まで歩いて帰るため、とりあえず大通りに出よう。確か右手に書店が見えたところで左に曲がる。どこかおかしい。
さっき来た場所だ。
もう一度。少し歩けば酔いも覚めるだろう。よかった。大通りに出ることができた。もう自分がどこにいるかわかっていない。とりあえず大通りに出ることができて一安心していた。でもやっぱりどこかおかしい。
駅はまだ遠いのに、鉄輪が転がる音がする。しかも、今の時代の最新の制御で走る近郊型の鉄道の走る音ではない。
どこかぎこちなく、うるさく、非効率で健気な、そんな音だった。
僕はもう一度街を見渡した。違和感が僕の体を突き抜けた。下を向き、街から目を逸らして大きく息を吐く。悪いを夢を見ながら歩いてしまうほど呑んだのか。自分に言い聞かす。
もう一度街を見渡す。
路面電車だ。——
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