紅蓮の鏡像 急

11. 虚構の骨格


 父のプロットに記されていた「鏡の裏側」という言葉。

 それは比喩ではなく、物理的な指示だった。

 奈々未たちは、再び「鏡の間」――いや、昨夜カオルが殺害された「偽のアトリエ」へと戻ってきた。


 死体はまだそこにあった。血の海に沈むカオルの亡骸は、夜明けの冷気の中で蝋細工のように硬直している。

 飛鳥仁は悲鳴を噛み殺し、直視しないように顔を背けている。

 奈々未は合掌し、心の中で謝罪した。

(ごめんなさい。貴女を弔うのは、すべてを終わらせてからです)


「……ここだわ」

 奈々未は、巨大なガラス壁の縁――窓枠にあたる金属部分を探った。

 父のメモには『舞台転換用の奈落』という記述があった。

 この部屋は、本来「作品保管庫」として設計されている。巨大な彫刻や絵画を搬出入するための動線が必ずあるはずだ。

 彼女の指先が、壁と床の境界にある僅かな凹みに触れた。

 力を込めて押し込むと、ガコン、という重い音がして、床の一部がスライドした。

 現れたのは、人が一人ようやく通れるほどの狭いダクトのような階段だった。地下へと続いている。

「こ、これは……?」

「メンテナンス用の地下通路です」

 奈々未は躊躇なく足を踏み入れた。

「この館はV字型をしています。地上部分の渡り廊下は落ちましたが、二つの棟を根元で繋ぐ地下の配管スペースまでは壊れていないはず。……行きましょう」


 地下道は、腐った土とカビの匂いが充満していた。

 頭上を這う太いパイプからは水滴がしたたり、懐中電灯の光が届かない奥底からは、風の唸り声のような不気味な音が響いてくる。

 二人は泥にまみれながら、建物の「底」を這い進んだ。

 華やかなガラスの館の下に、このような汚濁に満ちた内臓が隠されていたとは。それはまるで、御堂筋伽藍という芸術家の精神構造そのもののようだった。


「……着きました」

 十分ほど歩いた先で、再び上り階段が現れた。

 位置関係からして、ここは谷を挟んだ対岸――「アトリエ棟」の真下にあたるはずだ。

 奈々未は天井のハッチを押し上げた。

 錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、重い鉄板が開く。

 二人は這い出した。

 そこは、埃っぽい小部屋だった。おそらく画材置き場か何かだろう。

 ドアを開け、ついに「アトリエ」のメインフロアへと足を踏み入れる。


 その瞬間。


 飛鳥が、掠れた声で呻いた。

「……なんだ、これは」

 奈々未もまた、予想はしていたものの、その光景の荒涼さに息を呑んだ。


 何もない。

 本当に、何もなかった。

 そこは、コンクリート打ちっぱなしの巨大な廃墟だった。

 赤い絨毯などない。優雅なソファも、タペストリーもない。

 あるのは、埃を被ったコンクリートの床と、建設資材のゴミ、そして枯れ葉の山だけだ。

 窓ガラスの一部が割れているらしく、そこから吹き込んだ雨風が、室内に無惨な爪痕を残している。

「嘘だろ……」

 飛鳥がふらふらと歩き出し、何もない空間を見回す。

「僕たちは、昨日までここを見ていたんだぞ? 真っ赤な部屋だった! 豪華な家具があった! 先生が死んでいた! ……全部、幻覚だったのか?」

「いいえ。鏡像、つまりプロジェクションです」

 奈々未は、床に散らばるガラス片を拾い上げた。

「私の推理通りでした。このアトリエ棟は、外側(ガワ)だけのハリボテです。ガラス壁の角度が計算されており、向かい側の居住棟にある『鏡の間(偽アトリエ)』の内装を反射するように設計されていたんです」

 彼女は窓辺に立ち、谷の向こうに見える「居住棟」を見つめた。

 あちら側のガラス壁。

 そこに、微かに赤い光が見える。

 それは、今しがた自分たちが脱出してきた、カオルの死体がある「偽アトリエ」の内部だ。

「見てください、飛鳥さん」

 奈々未が指差す。

「今、こっちから向こうを見ると、向こうの部屋の中が見えますね? でも、夜になって向こうの照明を明るくし、こっちを闇に沈めると、このアトリエのガラスは鏡になります。すると、向こうの景色がこっちのガラスに映り込み、あたかも『この部屋の内装』であるかのように見える。……それが『幻紅楼』の正体です」


 巨大な万華鏡。

 居住棟にある一つの部屋を、鏡合わせで無限に増殖させ、虚構の空間を作り出す装置。

 御堂筋伽藍は、この廃墟を「アトリエ」と呼び、誰も立ち入らせなかった。

 そりゃあそうだろう。

 入ればバレる。ここには芸術など存在しないことが。

 あるのは、虚栄心という名の空っぽの箱だけだ。


「……じゃあ、先生の死体は?」

 飛鳥が震える声で核心を突いた。

「今朝、僕たちはここにある死体を見た。あれも反射映像だったなら、本体は向こうの『偽アトリエ』にあったはずだ。でも、さっき見たとき、そこにはカオルさんの死体しかなかった。……先生の死体はどこに行ったんだ?」

 奈々未は視線を巡らせた。

 このコンクリートの廃墟の中に、死体を隠せるような場所はない。

 だが、父のプロットには続きがあったはずだ。

『犯人の誤算』。そして『愛を知っていれば破綻する』という言葉。


 奈々未は、部屋の奥まった場所にある、不自然な壁の出っ張りに目を留めた。

 コンクリートの壁に、一枚だけ、古い木製の扉が嵌め込まれている。

 廃墟の中で、そこだけが綺麗に磨き上げられ、異質な存在感を放っていた。


「……あそこ」

 奈々未が歩み寄る。

「この何もない廃墟の中で、あの一角だけが『生きている』」

 ドアノブに手をかける。鍵はかかっていない。

 ゆっくりと扉を開ける。

 そこには、狭い螺旋階段があった。

 塔の尖塔へと続くような、上への階段だ。

 そして、その階段の上から、甘い腐臭と、線香のような香りが漂ってきていた。

「上……?」

 飛鳥が後ずさる。

「まさか、この上に?」

「ええ。おそらく、ここが『心臓部』です」

 奈々未は階段を見上げた。

 薄暗い階段の先に、微かな光が漏れている。

 伽藍の死体が消えた謎。

 そして、なぜ三笘しいながこれほどまでに、このトリックに固執したのか。

 その答えは、きっとこの上にある。

 論理(ロジック)では説明のつかない、ドロドロとした情念の祭壇が。


12. 硝子の柩(ひつぎ)


 螺旋階段は狭く、急勾配だった。

 足を乗せるたびに錆びついた鉄が悲鳴を上げ、靴底から冷たい振動が伝わってくる。

 上へ行くほどに、あの甘く腐ったような匂い――百合の花とホルマリンを混ぜ合わせたような芳香――が濃くなっていく。

「……息苦しい」

 背後の飛鳥仁がハンカチで口元を押さえながら呻く。

「この匂い、画材じゃない。もっと有機的な……防腐剤の匂いだ」

「ええ。この上に『保存』されているものがある証拠です」


 奈々未は懐中電灯を口にくわえ、手すりを掴んで登り続けた。

 およそ三階分ほどの高さを登っただろうか。

 階段は唐突に終わり、小さな踊り場に出た。

 目の前には、重厚な観音開きの扉がある。

 この扉だけは、廃墟には似つかわしくない、磨き上げられた黒檀で作られていた。

 奈々未は一度深呼吸をし、扉を押し開けた。

 そこは、硝子の塔の頂(いただき)だった。

 四方の壁と天井がすべてガラスで構成された、温室(サンルーム)のような狭い部屋。

 だが、植物は一つもない。

 あるのは、部屋の中央に鎮座する、豪奢なベルベットの長椅子(カウチ)だけ。

 そして、その上に横たわる「主」の姿。


「あ……ああっ……!」

 飛鳥が短い悲鳴を上げ、扉枠にしがみついた。

 御堂筋伽藍は、そこにいた。

 深紅のガウンを纏い、胸の前で手を組み、眠るように目を閉じている。

 胸には、あの銀色のナイフが突き刺さっている。

 朝、遠眼鏡越しに見た光景と寸分違わぬ姿だ。

 だが、決定的に違うことが一つあった。

 血だ。

 朝見たときは、傷口から溢れた鮮血が絨毯に広がっていたはずだった。

 しかし、目の前の伽藍の胸にある血痕は、どす黒く変色し、完全に乾ききっている。絨毯に垂れた血もまた、カサブタのように黒く凝固していた。


「……死後硬直はとっくに解けている」

 奈々未は遺体に歩み寄り、冷徹に観察した。

 皮膚は蝋のように白く、透明感を帯びている。死斑も固定している。

 この状態は、死後数時間やそこらではない。

「少なくとも、死後三日、いや四日は経過しています」

「よ、四日!?」

 飛鳥が裏返った声で叫ぶ。

「馬鹿な! 昨日の夜、先生は晩餐会にいたじゃないか! 僕たちと話して、ワインを飲んで……!」

「いいえ。あれもまた『演出』だったのでしょう」

 奈々未は、部屋の構造を見回した。

 このサンルームは、アトリエ棟の最上階、V字の先端部分に位置している。

 正面のガラス壁からは、谷を挟んで向かい側の「居住棟」が見下ろせる。

 ちょうど、居住棟の「鏡の間(偽アトリエ)」と真正面に向き合う位置関係だ。


「分かりました。これが『消失トリック』の正体です」


 奈々未はガラス壁に手を触れた。

「ペッパーズ・ゴースト。十九世紀の劇場で使われた古典的な視覚トリックの応用です」

「ペッパーズ……何だって?」

「合成写真と同じ原理です」

 奈々未は万年筆を取り出し、空中に図を描くように説明した。


「いいですか。私たちは朝、サロンからここを見て、『赤い部屋の中で死んでいる伽藍』を見ました。あれは二つの異なる映像が重なり合った合成映像(コンポジット)だったんです」

 彼女はまず、向かいの居住棟を指差した。

「一つ目の映像は『背景』。居住棟にある『鏡の間(偽アトリエ)』の内装です。あの赤い部屋が、ハーフミラーの効果で対岸のガラスに反射し、虚像として浮かび上がっていた」

 次に、目の前の遺体を指差した。

「二つ目の映像は『被写体』。このサンルームに安置された伽藍さんの遺体です。この部屋は、下の廃墟部分とは隔離されていますが、ガラス越しに見れば位置が重なるように設計されています」

 奈々未は結論を告げた。

「つまり、赤い部屋(背景)は反射による虚像。伽藍さんの死体(人物)はこの部屋にある実像。

 この二つが、サロンから見たときだけピッタリと重なり合い、一枚の絵に見えるよう、距離と角度が完璧に計算されていたんです」


 飛鳥は呆然と口を開けた。

「じゃあ……なんで夜には消えたんだ?」

「照明(ライティング)です」

 奈々未は天井のスポットライトを指差した。

「この部屋の照明を消せば、ガラスの向こうにある死体は見えなくなる。逆に、居住棟の『鏡の間』の照明を点ければ、背景の赤い部屋だけが浮かび上がる。

 昨夜、私たちがカオルさんを目撃したとき、彼女は赤い部屋(居住棟)にいた。だから見えたんです。でも、その時このサンルーム(アトリエ側)は真っ暗だった。だから、ここにいる伽藍さんの死体は闇に溶けて見えなかった」


 死体は移動などしていなかった。

 最初からずっと、この硝子の塔の頂に安置されていたのだ。

 ただ、光の当て方一つで、見えたり消えたりしていただけ。

 物体移動(テレポーテーション)の魔法だと思われていた現象は、単なる照明のオン・オフという、極めて物理的なスイッチングに過ぎなかった。


「……なんてことだ」

 飛鳥はその場に崩れ落ちた。

「じゃあ、昨日の晩餐会の先生は? あれは幽霊か?」

「おそらく、替え玉か、録音テープを使った影武者でしょう。暗い照明と、鏡の反射を利用すれば、遠目にシルエットを見せるくらいは可能です。三笘さんが給仕をしながら、巧みに誤魔化していたはずです」


 奈々未は遺体の顔を覗き込んだ。

 御堂筋伽藍。稀代の芸術家。

 彼は自分の死さえも作品として利用した。

 いや、利用されたのか。

 この完璧な保存状態。死化粧のような美しい顔。

 これは、単なる死体遺棄ではない。

 強烈な「愛」による保存だ。

「……三笘しいな」

 奈々未はその名を呟いた。

「彼女は、伽藍さんを殺したんじゃない。死んでしまった彼を、永遠にこの館の『一部』として保存しようとした。そのために、彼が『昨夜まで生きていた』という既成事実が必要だった」


 そして、その計画のために、外部からの証人が必要だった。

 それが、飛鳥仁であり、式守奈々未だったのだ。

 観客がいなければ、手品は成立しないから。


「降りますよ、飛鳥さん」

 奈々未は踵を返した。

「タネは割れました。あとは、魔女を断罪するだけです」

「だ、断罪って……あいつは武器を持ってるんだぞ! どうやって戦うんだ!」

「武器なら、あります」

 奈々未は黒い鞄から、父のプロットが入った封筒を取り出した。

「この脚本には、犯人も知らない『続き』が書かれています。……光の屈折が生む、致命的な盲点についてね」


 二人が螺旋階段を降りようとした、その時だった。

 館の底から、ゴゴゴゴ……という低い地鳴りのような音が響いてきた。

 機械の駆動音だ。

 続いて、バキン! という金属の破断音が轟く。


「な、なんだ!?」

 建物全体が大きく傾いだ。

 ガラスが軋み、悲鳴を上げる。

 奈々未は手すりにしがみつき、咄嗟に理解した。

「メンテナンス用の地下通路……! 彼女、支柱を爆破したんだわ!」

 三笘しいなは、証拠隠滅のために、このアトリエ棟ごとすべてを谷底へ葬り去るつもりだ。

 伽藍の死体も、侵入者たちも、すべてまとめて。


「走って! 通路が崩れる前に!」


13. 硝子の守り人


 世界が傾いでいく。

 アトリエ棟を支える岩盤が悲鳴を上げ、巨大な硝子の塔が谷底へ向かってゆっくりとお辞儀を始めていた。


 バキバキバキッ!

 頭上でガラスが砕け散る音が響く。天井のサンルームが歪み、あの美しい死体ごと崩落するのは時間の問題だった。


「急いで! 振り向かないで!」

 奈々未は飛鳥の背中を叩き、螺旋階段を転げ落ちるように駆け下りた。

 コンクリートの廃墟もまた、地殻変動のような振動に晒されている。壁に亀裂が走り、天井から粉塵が降り注ぐ。

 床のハッチに飛び込み、泥と錆に塗れた地下通路へと滑り込む。

 背後で轟音がした。

 いましがた自分たちがいた「廃墟のアトリエ」の床が抜け、瓦礫と共に奈落へと飲み込まれていったのだ。

「う、うわああああ!」

 飛鳥が半泣きで這い進む。

 通路全体がきしんでいる。パイプが破裂し、水蒸気が噴き出す。

 この地下道は、館という生物の血管だ。三笘しいなは、その動脈を自ら断ち切ることで、館ごと心中するつもりなのだ。


 泥水をすすり、膝を擦りむきながら、どれくらいの時間を這っただろうか。

 永遠にも思える暗闇の先、頭上に微かな光が見えた。

 居住棟側のハッチだ。

 奈々未は残る力を振り絞り、鉄蓋を押し上げた。

 そこは、静寂に包まれていた。

 嵐の去った後の、不気味なほどの静けさ。

 這い出した場所は、「鏡の間」――いや、赤く装飾された「偽アトリエ」の床下収納庫だった。

 奈々未と飛鳥は、咳き込みながら赤い絨毯の上に転がり出た。

 そこには、死体が二つあった。

 一つは、胸を刺された乃羅カオル。

 そしてもう一つは、彼女の傍らで優雅に椅子に座り、ページを捲る手を止めた「生ける死体」。

 三笘しいな。

 彼女は、崩壊の音など聞こえていないかのように、膝の上の洋書を静かに閉じた。

 その顔には、慈愛とも狂気ともつかない、聖母のような微笑みが浮かんでいた。


「……お帰りなさい。あちらの世界は、いかがでしたか?」

 彼女の声は、鈴を転がすように澄んでいた。

 薄暗い部屋の中で、彼女だけが発光しているように見える。

 奈々未は立ち上がろうとしたが、膝が震えて力が入らない。恐怖ではない。目の前の女が纏う「濃密な気配」に圧されているのだ。

「三笘、さん……」

 奈々未は荒い息を整えながら、彼女を見据えた。

「貴女は、御堂筋伽藍の秘書ではありませんね」

「あら。では、何に見えますか?」

「……『額縁』です」

 しいなの眉がぴくりと動いた。

「貴女はずっと、伽藍さんを守っているつもりだった。世間の雑音から、生活の煩わしさから、そして『老い』という醜悪な現実から。……でも、それは奉仕じゃなかった。貴女は彼を管理し、切り取り、貴女好みの『御堂筋伽藍』という作品として展示し続けていた」

 奈々未の言葉に、しいなはゆっくりと立ち上がった。

 彼女の背後にある巨大なガラス壁(ハーフミラー)の向こうでは、対岸のアトリエ棟が完全に崩れ落ち、谷底へと消えていくのが見えた。

 だが、彼女は振り返りもしない。

 彼女にとっての「本物」は、もう谷底にはないからだ。

「ええ、そうね」

 しいなは独り言のように呟いた。

 その瞳の奥には、三十八年分の昏い情熱が澱(おり)のように沈んでいる。

「あの方は、天才でした。光そのものでした。けれど、光は一人では輝けない。闇が必要なの。影となって彼を支え、輪郭を与え、彼が彼であることを定義する存在が」

 彼女はゆっくりと歩き出し、カオルの死体を跨いだ。まるで路傍の石を避けるかのように無造作に。

「私は十九歳で彼のミューズになりました。私の肌、私の髪、私の瞳……彼の初期の傑作はすべて、私という素材から生まれた。私は彼の魂の一部だった」

 彼女の手が、空中の見えないキャンバスを撫でるように動く。

「でも、人間は劣化する。私の肌は弛み、髪は艶を失う。あの方は残酷なほど正直でした。ある日、私を見て言ったの。『しいな、お前はもう美しくない』と」

 飛鳥が息を呑む音が聞こえた。

 あまりにも残酷な宣告。

 だが、しいなは恍惚とした表情で続けた。

「普通なら、そこで絶望するでしょう? でも、私は違った。嬉しかったの。だって、それはあの方の『美意識』が、まだ錆びついていない証拠だから。……だから私は、モデルを辞めて『管理者』になった。彼が新しいミューズを探すのを手伝い、彼の才能が枯れないように、舞台を整え続けた」


 それは、献身という名の支配だ。

 彼女は、伽藍が求める「新しい女」をあてがいながら、その実、伽藍の生活のすべてを掌握していった。食事、衣服、スケジュール、そして住居。

 この「幻紅楼」もまた、彼女が伽藍のために用意した巨大なコレクションケースだったのだ。


「でもね」

 しいなの表情が、ふっと曇った。

「あの方自身もまた、人間だった。老いには勝てなかった。最近のあの方は、手が震え、筆を落とし、かつてのような煌めきを失いつつあった。……私は耐えられなかった。神が、ただの老人に成り下がっていくのを見るのが」 


「だから、殺したんですか」

 奈々未が問うと、しいなは悲しげに首を振った。

「いいえ。救済したの」

 彼女は懐から一枚の写真を取り出した。

 それは、サンルームで眠る伽藍の死顔を写したものだった。

 死後四日。腐敗もせず、老いもせず、最高級の防腐処置を施され、硝子の塔の頂で永遠の眠りについた男。

「見て。美しいでしょう? 死ぬことで、あの方は『時間』から解放された。これでもう、老いることも、才能が枯れることもない。彼は永遠に、孤高の芸術家・御堂筋伽藍として完成されたの」

 狂っている。

 だが、その論理は彼女の中では完璧に整合していた。

 彼女は伽藍を愛しすぎていた。だからこそ、生身の彼を殺し、理想の彼を「作品」として固定したのだ。

 この館のトリックも、すべてはそのための儀式。

 生と死の境界を曖昧にし、彼を「シュレーディンガーの猫」のように、生きているとも死んでいるともつかない神秘的な存在へと昇華させるための装置。


「じゃあ、カオルさんは!」

 飛鳥が叫ぶ。「彼女は関係ないじゃないか! なんで殺したんだ!」

「ノイズだったからよ」

 しいなは冷淡に言い放った。

「あの小娘は、あの方の遺産を狙って嗅ぎ回っていた。あの方が死んだと知れば、すぐに警察を呼び、土足でこの聖域を踏み荒らしたでしょう。……私の『完成した作品』に、ハエがたかるのは許せなかった」

 彼女は足元のカオルの死体を見下ろし、つま先で軽く小突いた。

「それに、ちょうどよかったの。この『鏡像のトリック』を完成させるには、どうしても『死体』というパーツが必要だったから。伽藍先生の代わりに、彼女には死体役を演じてもらったのよ」

 人の命を、絵具の一色程度にしか考えていない。

 この女こそが、御堂筋伽藍という怪物を生み出し、育て、そして最後に喰らい尽くした真の怪物だったのだ。


「さて」

 しいなは重厚な燭台を持ち上げ、奈々未たちに向き直った。

 その瞳は、深海のように暗く、光のない冷たさを湛えていた。

「観客はもう十分。……カーテンコールの時間よ。この館と一緒に、貴女たちも先生の『永遠』の一部にしてあげる」


 逃げ場はない。

 背後は壁。前には殺人鬼。

 しかし、奈々未は一歩も引かなかった。

 彼女の手には、父の遺したプロットが握りしめられている。

 彼女の目には、観察者としての最後の「武器」が見えていた。

「残念ですが、三笘さん。貴女の作品は完成していません」

 奈々未は静かに告げた。

「貴女は光と影を支配したつもりでいるけれど、決定的なミスを犯している。……父が予言した通りの、『愛』という名のミスを」


14. 堕ちる太陽、昇る影


「愛という名のミス……?」

 しいなは、嘲るように小首を傾げた。

 足元では館の崩壊が進み、床のガラスにピキピキと亀裂が走っている。だが、彼女はそんなことよりも、自身の作品に向けられた「ケチ」の方が許せないようだった。

「言ってみなさい。私の計算のどこに間違いがあったと言うの?」


「光と影です」

 奈々未は、父のプロットをポケットにしまい、指先で天を指した。

「貴女は完璧でした。居住棟にある『予備の部屋』を赤く改装し、左右反対の家具を配置し、伽藍さんの死体の代わりにカオルさんを配置した。……ハーフミラーの反射を利用して、その虚像を対岸のアトリエに投影する手腕は、まさに魔術的でした」

 奈々未は一歩踏み出す。

「ですが、貴女は一つだけ、どうしてもコントロールできない光源を見落としていた。……『太陽』です」

「太陽?」

「思い出してください。今朝、私たちがサロンから『対岸の死体』を発見した時のことを」

 奈々未は、脳内のフィルムを巻き戻し、そのワンシーンを再生した。

「霧が晴れ、朝日が差し込んだ瞬間でした。アトリエの窓枠の影が、赤い絨毯の上に長く伸びていた。そして、その影は時間の経過と共に、伽藍さんの死体の顔の上をゆっくりと横切っていった」

「それがどうしたの? 時間が動けば影も動く。当然でしょう」

「ええ。ですが、動く方向が逆でした」

 しいなの表情が凍りついた。

 奈々未は、飛鳥の持っていた懐中電灯を奪い取り、床に置いて二つの方向を示した。

「この館はV字型です。私たちがいる『居住棟』は東向き。対岸の『アトリエ棟』は南向きに開いています。……ここまではいいですね?」

 彼女は懐中電灯を「太陽」に見立てて動かした。


「朝、太陽は東から昇ります。

 南向きの『アトリエ棟』に差し込む光は、東から西へ動く。つまり、室内に落ちる影は、『右から左』へと移動するはずです」

 奈々未の言葉に熱が帯びる。

「しかし、私が見た影は、**『左から右』**へと動いていました。

 なぜか?

 それは、その映像の光源が、南向きのアトリエではなく、東向きのこの部屋(居住棟)だったからです」

 論理の刃が閃く。

「東向きの部屋に朝日が差し込めば、光は正面から入ります。しかし、太陽が南へ移動するにつれ、光の角度は変わり、影は『左から右』へ動く。

 貴女が作った『鏡像のアトリエ』は、鏡の中で完璧に左右反転されていたかもしれない。

 けれど、地球の自転が生み出す『影のベクトル』までは反転できなかった」


 沈黙。

 崩壊の轟音さえも遠のくような、完全な静寂がその場を支配した。

 しいなは、呆然と自分の手を見つめた。

 彼女は家具を逆に置き、服の合わせを逆にし、髪の分け目さえ逆にした。

 鏡の中で「正像」を結ぶために、涙ぐましいほどの労力で世界を裏返した。

 だが、窓の外にある太陽の動きだけは、彼女の手には負えなかったのだ。

「……あ」

 彼女の口から、乾いた音が漏れた。

「影……。そうか、影……」

 それは、致命的な「贋作」の証明だった。

 本物のアトリエであれば、絶対にあり得ない影の動き。

 彼女が愛し、守り、永遠に残そうとした「御堂筋伽藍の死の舞台」は、宇宙の法則によって、決定的にその美学を否定されたのだ。

「貴女の作品は失敗作です」

 奈々未は冷徹に告げた。

「自然界の光(リアル)は、貴女の虚構(アート)を許さなかった。……それが答えです」

 カラン……。

 しいなの手から、重厚な燭台が滑り落ちた。

 金属音が床に響き、転がっていく。

 彼女は戦意を喪失したのではない。

 魂が砕かれたのだ。

 自らの人生を捧げた「完璧な世界」に、修復不可能な亀裂が入ったことを悟った瞬間に。

「……ふ、ふふ」

 しいなは力なく笑った。その瞳から、みるみるうちに光が失われていく。

「そう。お日様には勝てないわね。あの方も、よく言っていたわ。『太陽が憎い』って」

 彼女はふらりと背を向けた。

 その向こう側――ガラス壁の向こうでは、アトリエ棟がいよいよ崩落の最期を迎えようとしていた。


「待て! どこへ行く!」

 飛鳥が叫ぶ。

 しいなは、鏡のように磨かれたガラス壁に手を突き、愛おしそうに頬を寄せた。

「あの方が呼んでいるの。……失敗作でもいい。私は、私の作ったこの『硝子の檻』の中で、あの方と眠りたい」

「ダメだ! ここも崩れる!」

 飛鳥が駆け寄ろうとするが、奈々未がそれを止めた。

「行かせてあげて」

「でも!」

「彼女はもう、こちらの世界の住人じゃない」


 バギィィィン!!

 巨大な亀裂が、しいなの足元を走った。

 床が抜け、赤い絨毯が滝のように斜めに滑り落ちていく。

 その赤い奔流に乗って、三笘しいなは、カオルの死体と共に、闇の底へと滑り落ちていった。

 最期まで、聖母のような穏やかな微笑みを浮かべたまま。

 彼女はついに、永遠の「作品」の一部になったのだ。


「……行きましょう、飛鳥さん」

 奈々未は、穴の空いた床を見下ろすことなく、出口の扉を開けた。

「夜が明けます」


 外に出ると、嘘のような青空が広がっていた。

 嵐は過ぎ去り、洗われたばかりの紅葉が、朝日に照らされて鮮烈な赤を放っている。

 背後で、地響きと共に土煙が上がった。

 「幻紅楼」という名の巨大な幻影装置が、物理的にこの世から消滅した音だった。

 奈々未は、泥だらけのコートのポケットから、父の万年筆を取り出した。

 インクの切れた、古いペン。

 彼女はそれを空にかざし、陽光に透かして見た。

「……書き直したよ、お父さん」

 彼女は小さく呟いた。

「誰も救えなかったけど、謎だけは解いた。……これで、文句ないよね」

 返事はない。

 ただ、風が紅葉の葉を揺らし、カサカサという乾いた拍手のような音を立てていた。


 隣で飛鳥仁が、地面に座り込んで泣いている。

 恐怖からの解放か、師と仲間を失った悲しみか。

 奈々未には分からない。

 彼女はただの「観察者」。人の心の機微を解く方程式までは、まだ持ち合わせていないのだから。

 ただ一つ分かるのは、この長い夜が終わり、自分はまた日常へ――孤独だが、自由な世界へと戻るのだということだけだ。


「帰りましょう」


 奈々未は歩き出した。

 その背中には、昨日までよりも少しだけ濃い「影」が、くっきりと伸びていた。


 (了)

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