紅蓮の鏡像 破
6. 闇の脈動
午後四時を回ると、分厚い雨雲に覆われた空は早くも夜の帳を下ろし始めた。
館内の空気は澱み、重く湿った沈黙が支配していた。誰も口を開かない。いや、言葉を発すること自体が、この張り詰めたガラスの均衡を崩してしまうのではないかという恐怖が、全員の喉を塞いでいるようだった。
食堂のテーブルには、冷え切った昼食の残骸が放置されたままだ。
三笘しいなは椅子に深く腰掛け、石像のように一点を見つめている。その視線の先にあるのは虚空だ。彼女の完璧な仮面の下で、どんな感情が渦巻いているのかは読み取れない。
乃羅カオルは、すでにワインのボトルを二本空けていた。酩酊だけが恐怖を麻痺させる唯一の手段であるかのように、赤い液体をグラスに注ぎ続けている。時折漏らすヒステリックな笑い声が、硝子の壁に反響して不気味に響いた。
飛鳥仁は、部屋の隅を行ったり来たりしていた。爪を噛む音が、雨音の合間にカリ、カリ、と神経質に刻まれる。彼は時折、怯えた小動物のように窓の外――あの到達不能なアトリエ棟の方角を盗み見ては、短く息を呑んで視線を逸らす。
奈々未は、その光景を少し離れた場所から眺めていた。
彼女の中にある「観察者」としての冷徹な理性が、感情に流されそうになる自分を必死に繋ぎ止めている。
犯人はこの中にいる。
その事実は動かない。
だが、誰の目にも殺意は見えない。あるのは被害者意識と、得体の知れない状況への怯えだけだ。もしこれが演技だとしたら、ここにいる誰かはアカデミー賞級の名優ということになる。
その時だった。
前触れもなく、視界が奪われた。
バチン、という乾いた音が響き、館内の照明が一斉に落ちた。
完全な闇。
窓の外も嵐と夜闇に閉ざされているため、月明かりひとつ差し込まない。
世界がインク壺に沈められたかのような、濃密で粘着質な暗黒が到来した。
「キャァァァァッ!」
カオルの劈くような悲鳴が鼓膜を打つ。
「何!? 何が起きたの!?」
「停電だ……!」
飛鳥の上擦った声。「くそっ、この嵐で送電線がやられたのか!?」
「落ち着いてください」
闇の底から、しいなの冷静な声が響いた。
「非常用の発電機がありますが、切り替わるのに時間がかかるかもしれません。動かないで。ガラスにぶつかって怪我をします」
奈々未はポケットからスマートフォンを取り出し、ライト機能を点灯させた。
細い光の束が、漆黒の空間を切り裂く。
その光が照らし出したのは、恐怖に顔を歪め、互いに身を寄せ合う大人たちの無様な姿だった。
光と影が激しく揺れ動き、ガラス張りの壁に乱反射する。
合わせ鏡になった窓に、無数の「怯える顔」が映り込み、増殖していく。
その光景は、まるで地獄の底を覗き込んでいるかのようだった。
「……配電盤はどこですか」
奈々未は努めて低い声を出した。
「私が見てきます。じっとしているよりマシですから」
「一階の管理室です。厨房の奥に……」
しいなが指差す方向へ、奈々未は足を踏み出した。
ホールを出て、廊下へと進む。
スマホの頼りない光だけが道標だ。
静かだ。
あんなに騒がしかった雨音が、今は遠い世界の出来事のように感じる。
代わりに聞こえてくるのは、自分の心臓の音と、床を踏みしめる靴音だけ。
黒い大理石の床は、光を吸い込んで底知れない深さを湛えている。一歩踏み外せば、そのまま闇の底へ落ちてしまいそうな錯覚。
奈々未はふと、足を止めた。
廊下の突き当たり。
例の「鏡の間」の前だ。
普段は施錠されているその重厚な扉の前を通り過ぎようとしたとき、彼女の足元で、何かが微かにきしむ音がした。
奈々未はライトを足元に向けた。
磨き上げられた黒い床。
そこに、不自然な「傷」があった。
何か重いものを引きずったような、白く浅い擦り傷が数本、扉の隙間から廊下の中央に向かって伸びている。
そして、その傷の周りに散らばる、微細な煌めき。
彼女は屈み込み、その光る粒子を指先で拭った。
金粉?
いや、これは絵画の額縁などに使われる塗料の剥落片だ。
(改装中だと言っていたけれど……)
しいなの言葉を思い出す。
だが、この引きずり痕は新しい。埃が乗っていない。つい最近――おそらくは昨日か一昨日、ここから何か巨大な家具を出し入れした痕跡だ。
さらに、鼻を突く匂いがあった。
停電で換気システムが止まったせいだろうか。扉の隙間から、独特の刺激臭が漏れ出してきている。
テレピン油。そして、乾ききっていない油絵具の匂い。
それは、芸術家の館ならばどこにでも漂っている匂いかもしれない。
だが、ここは「鏡の間」だ。作品の保管庫であって、制作場所ではないはずだ。
なぜ、制作中のアトリエのような匂いがするのか?
奈々未の脳裏に、稲妻のような閃きが走る。
アトリエ。
対岸に見える、あの赤い部屋。
もしも、あの部屋が「あそこ」になかったとしたら?
もしも、この扉の向こう側に、あの赤い部屋の「片割れ」が存在していたとしたら?
心臓が早鐘を打つ。
確かめたい。
この扉を開ければ、すべての謎が解けるかもしれない。
奈々未は無意識にドアノブに手を伸ばした。
ひんやりとした金属の感触。
力を込めて回そうとする。
だが、鍵がかかっている。びくともしない。
「……そこで何をしているのですか?」
背後から、氷のような声が降ってきた。
奈々未は心臓が止まりそうになりながら、弾かれたように振り返った。
ライトの光を向ける。
逆光の中に、黒い影が立っていた。
三笘しいなだ。
いつの間に近づいてきたのか、足音は全くしなかった。
彼女は手にした燭台のロウソクの炎に照らされ、幽霊のように青白い顔で奈々未を見下ろしていた。
「……いえ、迷ってしまって」
奈々未は咄嗟に嘘をついた。喉がカラカラに乾いて、声が裏返りそうになる。
「暗くて、方向が分からなくなって」
「管理室は逆方向です」
しいなは無表情のまま、ゆっくりと一歩近づいてきた。
ロウソクの炎が揺れ、彼女の影が壁の鏡の中で巨大な怪物のように踊る。
「それとも、何か探し物ですか? この『開かずの間』に、御用でも?」
彼女の視線が、奈々未の足元――あの引きずり痕に向けられたような気がした。
見られたか?
奈々未は背中に冷たい汗が伝うのを感じた。
この人は知っている。
この扉の向こうに何があるのかを。そして、奈々未がそれに気づきかけていることを。
「……いいえ。戻ります」
奈々未は逃げるようにその場を離れた。
背中に、しいなの視線が突き刺さるのを感じながら。
廊下を曲がり、角に身を隠した瞬間、奈々未は大きく息を吐き出した。
手の震えが止まらない。
確信した。
あの部屋だ。
あの「鏡の間」こそが、この巨大なトリックの心臓部だ。
だが、どうやって?
あそこには窓がない。壁はすべて鏡だと言っていた。
窓のない部屋を、どうやって「窓のあるアトリエ」に見せかけたのか?
そして、もし私の仮説が正しければ、伽藍の死体は今、どこにあるのか?
まさか、まだこの居住棟のどこかに――?
- [ ]
その時、頭上でパチリという音がして、照明が復旧した。
突然の光に目が眩む。
日常が戻ってきた。
だが、奈々未の世界は、もう数分前と同じ形をしてはいなかった。
明るみの下で見るこの館は、先ほどまでとは全く別の、歪でグロテスクな迷宮に見えた。
そして、その迷宮の主は、間違いなくこの近くにいる。
すぐ隣で、呼吸をしている。
7. 鏡像の亡霊
照明が復旧しても、館を支配する冷気は少しも和らぐことはなかった。
むしろ、闇が払われたことで、互いの顔に張り付いた恐怖と不信の色が露わになり、空気はより一層張り詰めていた。
サロンに戻ると、乃羅カオルがソファに崩れ落ちるように座り込んでいた。
テーブルの上には、空になったワインボトルが転がっている。彼女の手には新しいボトルが握られており、コルクを歯で食いちぎらんばかりの勢いで開けようとしていた。
「……クソッ、何なのよこれ! 全部、全部おかしいわよ!」
カオルの目は充血し、焦点が定まっていない。酩酊だけが、彼女をこの狂気的な状況から守る唯一の鎧になっているようだった。
「飲み過ぎです、カオルさん」
飛鳥仁が恐る恐る声をかけるが、カオルは彼を睨みつけた。
「うるさい! あんたに何が分かるのよ! ……見たんでしょう? さっきの停電、わざとよ。誰かがブレーカーを落として、あたしたちを殺そうとしたのよ!」
彼女はふらつく足取りで立ち上がり、部屋の隅に佇む三笘しいなに指を突きつけた。
「あんたでしょ! あの時、あんただけいなかった! 暗闇に乗じて、あたしの後ろに来たわよね? 首を絞めようとしたでしょ!」
「被害妄想も大概になさい」
しいなは冷徹に切り捨てた。その手には、新しいキャンドルとマッチが握られている。
「私は管理室へ行って、ブレーカーを戻してきただけです。貴女のような酔っ払いの相手をしている暇はありません」
「嘘よ! あんたはこの館の魔女よ! 伽藍を殺したのも、橋を落としたのも、全部あんたの仕業よ!」
カオルがワインボトルを振り上げる。濃い赤色の液体が瓶口から溢れ、黒いカーペットに血痕のような染みを作った。
「やめてください!」
奈々未が割って入ろうとしたが、それよりも早く、カオルはボトルを抱えたまま背を向けた。
「もう嫌……こんな場所、一秒だって耐えられない。部屋に戻るわ。誰も来ないで。来たら殺すから!」
彼女は喚き散らしながら、千鳥足で階段を駆け上がっていった。
バタン、と乱暴に扉が閉まる音が響き、その後には重苦しい沈黙だけが残された。
「……放っておきましょう」
しいなは無関心にそう言うと、ソファに座り直し、読みかけの洋書を開いた。まるで、目の前で起きた騒ぎなど最初から存在しなかったかのように。
その異常なほどの平静さが、奈々未には何よりも恐ろしく思えた。
彼女は知っているのだ。
この舞台の脚本を。誰が退場し、誰が残るのかを。
一時間ほどが経過しただろうか。
窓の外の雨脚は弱まるどころか、さらに激しさを増していた。
奈々未は窓辺に立ち、漆黒の闇を見つめていた。
ガラスに映るのは、疲れ切った自分の顔と、背後で本を読むしいな、そして爪を噛み続ける飛鳥の姿だけ。
カオルは部屋から出てこない。静かすぎる。
(……あの部屋)
奈々未の思考は、先ほど見た「鏡の間」の引きずり痕に囚われていた。
あの部屋が怪しい。それは間違いない。
だが、仮にあの部屋が何らかのトリックに使われたとして、今の状況とどう繋がる?
伽藍の死体は対岸のアトリエにある。それは目視で確認した事実だ。
ここにある「鏡の間」と、あっちにある「アトリエ」。
空間的に断絶された二つを繋ぐミッシングリンクは何だ?
ふと、視界の端で何かが動いた気がした。
奈々未は顔を上げ、ガラスの向こう――V字の対岸にあるアトリエ棟へ目を凝らした。
闇夜と雨のカーテンに遮られ、肉眼ではほとんど何も見えない。
だが、一瞬。
稲妻が夜空を引き裂いた瞬間、世界が青白く発光した。
その光の中で、奈々未は見た。
対岸のアトリエ。
そのガラス壁の向こうに、蠢く人影を。
「……え?」
声が漏れた。
見間違いではない。
赤い部屋の中。死体となって横たわる伽藍のそばに、誰かが立っていた。
長い髪。派手なファーのベスト。
乃羅カオルだ。
彼女は、血の海の真ん中で、まるでダンスを踊るようにふらふらと揺れていた。
そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。
距離があるため表情までは見えない。
だが、その顔は――笑っているように見えた。
次の瞬間、再び闇が戻った。
「嘘……」
奈々未は窓ガラスに張り付いた。
「ねえ、見て! あそこ! アトリエに誰かいる!」
その叫びに、飛鳥としいなが弾かれたように顔を上げる。
「何だって!?」
飛鳥が駆け寄り、窓にへばりつく。
「どこだ!? 何も見えないぞ!」
「さっき、雷が光ったとき……カオルさんが見えたんです! あのアトリエの中に!」
「馬鹿な!」
飛鳥が絶句する。
「カオルさんは二階の部屋にいるはずだ! それに、どうやってあそこへ行くんだ!? 橋は落ちてるんだぞ!」
「でも、確かに見たんです! 彼女の服、あのベスト……間違いありません!」
三笘しいなが静かに立ち上がり、窓辺に来た。
彼女は闇を見つめ、それからゆっくりと首を横に振った。
「……幻覚です、式守様。この館のガラスは、光の屈折で様々なものを映し出します。疲れているのですよ」
「違います! 幻覚なんかじゃない!」
奈々未は反論したが、その声には自信が持てなかった。
論理的に考えれば不可能だ。
カオルが空を飛ばない限り、あのアトリエに行くことはできない。
だが、もし空を飛んだのではないとしたら?
もし、奈々未が見ている「アトリエ」という場所自体が、ここから歩いて行ける場所にあるとしたら?
背筋に悪寒が走る。
――鏡の間。
さっきの仮説が、脳裏で警鐘を鳴らす。
もし、今見えた「カオルがいる赤い部屋」が、対岸のアトリエではなく、この居住棟にある「鏡の間」の内部だとしたら?
カオルは部屋に引き籠もったふりをして、あの「開かずの間」に入り込んだのか?
だが、鍵がかかっていたはずだ。どうやって?
「確認しましょう」
奈々未は踵を返した。
「カオルさんの部屋へ行きましょう。もし彼女が部屋にいなければ……私の見間違いではないことになります」
三人は二階へと急いだ。
カオルの部屋は、「鏡の間」の手前にある。
ドアノブを回すが、鍵がかかっている。
「カオルさん! いますか!」
飛鳥がドアを叩く。返事はない。
「カオルさん!」
静寂。
中から物音ひとつ聞こえない。
「……マスターキーを」
奈々未の要請に、しいなが渋々といった様子で鍵束を取り出した。
ガチャリ、と重い金属音がして、ロックが解除される。
飛鳥が勢いよくドアを開け放った。
「なっ……」
全員が息を呑んだ。
部屋の中は、もぬけの殻だった。
ベッドは乱れ、飲みかけのワインボトルが床に転がり、中身を撒き散らしている。
窓は閉まっている。
だが、カオルの姿だけが、煙のように消え失せていた。
「いない……」
飛鳥がへなへなと膝をついた。
「まさか、本当にあっちへ行ったのか? 空を飛んで?」
奈々未は無人の部屋を見渡しながら、窓ガラスに目を向けた。
この部屋の窓からも、対岸のアトリエが見える。
そして、この部屋の壁には大きな姿見がある。
鏡と窓。
この館のどこにいても、逃れられない呪縛。
カオルは消えた。
密室状態の自室から消え、到達不能な密室であるアトリエに現れた。
これは「人間消失」のトリックだ。
だが、奈々未の直感は告げていた。
これは消失ではない。「移動」だ。
私たちが「在る」と思っている場所と、実際に「在る」場所の認識がズレているだけなのだ。
カオルは、そのズレの隙間に落ち込んでしまった。
ふと、廊下の奥――「鏡の間」の方から、微かな物音が聞こえた気がした。
カタリ。
硬いものが落ちるような、乾いた音。
奈々未は弾かれたように廊下へ飛び出した。
あの扉だ。
さっきは施錠されていた「鏡の間」の扉が、わずかに、本当にわずかにだが、開いているように見えた。
隙間から漏れ出す闇が、奈々未を手招きしている。
8. 緋色の裏側
吸い込まれるように、三人はその扉の前へと集まった。
廊下の突き当たりにある「鏡の間」。
先ほどまでは頑として拒絶していた重厚な樫の扉が、今は数センチだけ開き、そこからねっとりとした闇を吐き出している。
隙間から漏れ出す匂いは、もはやテレピン油や絵具の香りだけではなかった。
もっと生々しく、鉄錆びたような、甘く不快な臭気。
血の匂いだ。
「……誰か、いるのか?」
飛鳥仁が震える声で問いかけたが、返ってくるのは雨音だけだ。
奈々未は唾を飲み込み、意を決してドアノブに手をかけた。冷たい金属の感触が掌に吸い付く。
ゆっくりと力を込めると、扉は音もなく内側へと滑った。
「明かりを」
奈々未の指示で、飛鳥が懐中電灯の光束を室内へと向けた。
白い光が闇を切り裂き、その部屋の全貌を暴き出した瞬間、全員が息を呑んだ。
「な……っ!?」
飛鳥が絶句し、後ずさる。
三笘しいなの瞳が、わずかに揺らいだ。
奈々未は、目の前の光景を脳が処理するのに数秒の遅延を感じた。
そこは、「鏡の間」などではなかった。
いや、構造としてはそう呼ぶべきなのかもしれないが、その内実は全く異なっていた。
赤い。
視界の全てが、燃えるような緋色で埋め尽くされている。
壁を覆う真紅のタペストリー。床に敷き詰められた深紅のペルシャ絨毯。猫足の赤いソファ。
その光景は、奈々未たちが窓越しに遠望していた「対岸のアトリエ」そのものだった。
「どういうことだ……?」
飛鳥が呻くように言った。
「ここは居住棟だぞ? なんでアトリエがここにあるんだ? 僕たちはワープでもしたのか?」
混乱するのも無理はない。彼らの認識では、この部屋は「対岸」にあるはずなのだ。橋が落ちて到達不能になったはずの空間が、なぜか廊下一枚隔てた場所に存在している。
だが、奈々未の視線は、その部屋の異常な色彩よりも、さらに強烈な一点に釘付けになっていた。
部屋の中央。
赤い絨毯の上に、黒い染みのように横たわる物体。
乃羅カオルだ。
彼女は仰向けに倒れていた。
豪奢なファーのベストは赤黒く濡れ、胸元には一本のナイフが深々と突き立っている。
その顔は恐怖に歪み、見開かれた瞳は虚空を――あるいは、天井のシャンデリアを見つめたまま白濁していた。
「カオルさん……!」
奈々未が駆け寄るが、触れるまでもなく分かった。
すでに呼吸はない。
流れ出た血は絨毯の赤と同化し、どこまでが模様でどこまでが血なのか判別がつかない。まるで、この部屋そのものが彼女を飲み込み、消化しようとしているかのようだ。
「ひっ、うわああああっ!」
遅れて死体を認識した飛鳥が、腰を抜かして廊下にへたり込んだ。
「死んでる……! 殺されてる! なんでだよ! さっきまで部屋にいたじゃないか! なんでこんな場所に!」
奈々未は死体の傍らに膝をつき、周囲を見渡した。
争った形跡はある。近くのサイドテーブルが倒れ、花瓶が割れている。
だが、不可解なのは部屋の構造だ。
入ってきた扉以外に、出入り口はない。
そして、壁の一面――谷底に面しているはずの壁――は、巨大なガラス張りになっていた。
今は夜の闇と雨に閉ざされ、黒い鏡となって室内を映し出しているが、ここが昼間であれば、外の景色が見えるはずだ。
(……窓がない、としいなさんは言った)
奈々未はゆっくりと立ち上がり、しいなを振り返った。
彼女は入り口に立ったまま、無表情にカオルの死体を見下ろしている。その立ち姿は、まるで失敗した作品を前にした批評家のようだ。
「三笘さん。説明してください」
奈々未の声は鋭く研ぎ澄まされていた。
「貴女は言いましたね。ここは窓のない倉庫だと。ですが、あれは何ですか?」
指差した先にある巨大なガラス壁。
「そして、なぜここがアトリエと同じ内装なのですか? まるで、対岸の部屋をコピー&ペーストしたみたいに」
しいなは動じなかった。
「……改装中だと言ったはずです。先生は、居住棟にもアトリエと同じ空間を作り、思索に耽ることを好まれましたから」
「嘘ですね」
奈々未は断言した。
「これは思索のためじゃない。人を騙すための舞台セットだ」
彼女は歩き出し、ガラス壁に近づいた。
ガラスに顔を近づけると、自分の顔が映る。だが、その向こう側に微かに透けて見えるのは、漆黒の闇だ。
「飛鳥さん、ライトを消してください」
「えっ?」
「いいから、早く!」
飛鳥が震える手でスイッチを切る。
部屋が闇に包まれる。
わずかに廊下から漏れる光だけが頼りだ。
奈々未はガラスに顔を押し当て、目を凝らした。
闇に目が慣れてくると、ガラスの向こうに、うっすらと対岸の景色が見えてくる。
雨に煙る谷。そして、その向こうにある「アトリエ棟」の輪郭。
――いや。
奈々未は息を呑んだ。
見えない。
本来なら、向こう側にあるはずのアトリエ棟の明かりが、全く見えないのだ。
さっきまで、窓からあれほどはっきりと見えていた「赤い部屋」と「伽藍の死体」が、ここからは見えない。
そこにあるのは、ただの暗黒の断崖だけ。
「……消えた」
奈々未は戦慄と共に呟いた。
「対岸のアトリエが見えない。あるのは闇だけ」
彼女は再びライトを点けるよう指示し、部屋の中央に戻った。
そして、一つの仮説という名の確信に到達した。
「私たちは騙されていたんです」
奈々未の声が、赤い部屋に響く。
「対岸にアトリエなんて、最初から存在しなかった」
「は? 何を言って……」
飛鳥が目を白黒させる。
「じゃあ、僕たちが見ていたあれは何なんだよ! 伽藍先生の死体は!?」
「鏡です」
奈々未はガラス壁を指差した。
「あれはただのガラスじゃない。ハーフミラーか、それに類する特殊な鏡です。夜、こちらの部屋の照明を点け、向こう側を闇にすれば、このガラスは巨大な鏡になる。そして映し出されるのは――」
彼女は部屋の中を見渡した。
「この部屋だ。この赤い部屋の内装がガラスに反射し、あたかも『窓の向こうにある別棟』のように見えていただけなんです」
奈々未はカオルの死体を見下ろした。
「カオルさんがさっき『対岸のアトリエ』にいるように見えたのも、彼女が幽霊になって飛んでいったからじゃない。彼女はただ、この部屋に入り込んだだけ。そして、その姿がガラスに反射して、私たちがいるサロンの窓から見えたんです」
謎の半分は解けた。
だが、それによって突きつけられた事実は、より残酷なものだった。
空間の断絶などなかった。
密室もなかった。
犯人は、すぐ隣の部屋にいたのだ。
「……名推理ですね」
パチ、パチ、パチ。
乾いた拍手の音が、部屋の入り口から響いた。
三笘しいなが、幽霊のような薄い笑みを浮かべていた。
「そこまで気づくとは思いませんでした。やはり、貴女の眼は危険だ。お父様に似て」
彼女の手には、いつの間にか重厚な真鍮製の燭台が握られていた。鈍器としても十分に機能しそうな、凶暴な重みを感じさせる塊だった。
9. 消失点のパラドックス
しいなが振り上げた真鍮の燭台は、懐中電灯の白い光を鈍く弾き返し、凶器としての質量を主張していた。
彼女の目に迷いはない。
この館の秘密を暴いた侵入者と、怯えるだけの道化を、まとめて舞台から退場させるつもりだ。
「逃げて……!」
奈々未が叫ぶのと、しいなが一歩踏み込むのは同時だった。
だが、事態は予想外の方向へ弾けた。
「う、うわあああああっ!!」
獣の咆哮のような絶叫が、赤い部屋を震わせた。
飛鳥仁だ。
腰を抜かしていたはずの彼は、極限の恐怖が沸点を超え、逆上の狂気へと反転したらしい。彼は床に転がっていた空のワインボトル――カオルが持ち込んだものだ――を掴むと、出鱈目に振り回した。
「来るな! 化け物! 僕を殺す気か!?」
ブン、と唸りを上げたボトルが、しいなの顔面スレスレを通過する。
しいなは表情ひとつ変えずに身を引いたが、その一瞬の隙が生まれた。
「飛鳥さん、走って!」
奈々未は飛鳥の腕を掴み、強引に立ち上がらせた。
二人は転がるように廊下へと飛び出す。
背後で、しいなが舌打ちをする音が聞こえた気がした。だが、彼女はすぐには追ってこない。この暗闇と、迷路のような構造が、彼女の庭であることを熟知している余裕からだろうか。あるいは、出口などないことを知っているからか。
二人は真っ暗な廊下を無我夢中で駆けた。
足音が石の床に反響し、どこから追いかけられているのか、どこへ向かっているのか、方向感覚が麻痺していく。
「こっちだ!」
飛鳥が奈々未の手を引き、二階の客室エリアへと逃げ込む。
一番手前にあった部屋――奈々未の部屋だ――に雪崩れ込み、慌ててドアを閉め、鍵をかけた。さらに、重いチェストを引きずってドアの前にバリケードを作る。
「はあ、はあ、はあ……」
飛鳥は床に倒れ込み、過呼吸気味に肩を上下させている。
奈々未もまた、壁に背を預けて荒い息を整えた。
心臓が早鐘を打っている。
冷たい汗が背中を伝う。
安全地帯など、この館にはもうない。あの扉一枚隔てた向こう側には、燭台を手にした殺人者が徘徊しているのだ。
「……殺される」
飛鳥が頭を抱えて震え出した。
「あいつ、本気だ。カオルさんを殺したのも、間違いなくあいつだ。次は僕たちの番だ……」
「落ち着いてください、飛鳥さん」
奈々未は自分自身に言い聞かせるように、努めて冷静な声を絞り出した。
「この部屋のドアは頑丈です。簡単には破れません。朝になれば、霧も晴れるかもしれない。そうすれば誰かが……」
「朝まで生きていればの話だろう!」
飛鳥が叫ぶ。「それに、あいつはマスターキーを持ってるんだぞ!」
確かにそうだ。物理的なロックは時間稼ぎにしかならない。
だが、奈々未の思考の焦点は、そこにはなかった。
彼女の脳裏を支配しているのは、恐怖よりも強烈な「違和感」だった。
「……飛鳥さん。さっきの部屋で、何か変だと思いませんでしたか?」
「変も何も、カオルさんが殺されてたじゃないか! アトリエと同じ赤い部屋があった! それだけで十分異常だよ!」
「ええ。でも、足りないんです」
奈々未は暗闇の中で、飛鳥の顔を真っ直ぐに見据えた。
「伽藍さんの死体です」
飛鳥が動きを止める。
「……え?」
「思い出してください。今朝、私たちがサロンから見た光景を。対岸のアトリエには、赤い内装と、その中央で死んでいる伽藍さんの姿がありました」
奈々未は指を折って確認していく。
「そして、さっき暴いたトリックによれば、あの光景は『対岸の実像』ではなく、『居住棟にある赤い部屋の鏡像』だった。つまり、私たちがアトリエだと思って見ていた映像の正体は、さっき入ったあの部屋だったわけです」
論理の鎖を繋いでいく。
もし、あの「鏡の映像」の中に伽藍の死体が映っていたのなら、その反射元である「赤い部屋」にも、伽藍の死体がなければならない。
鏡は嘘をつかない。そこにあるものしか映さない。
だが。
「さっきの部屋に、伽藍さんの死体はありませんでした」
奈々未は静かに告げた。
「あったのは、カオルさんの死体だけ。伽藍さんの姿はどこにもなかった」
「そ、それは……犯人が動かしたんじゃないか?」
「どこへ? 何のために?」
奈々未は首を横に振った。
「あんな重い死体を、誰にも見られずに運び出す? それに、まだ私たちは『対岸のアトリエ』に死体があると思い込んでいたんです。わざわざ死体を隠す必要なんてない。むしろ、あそこに置いておかなければ、トリックが成立しなくなる」
そうだ。
もし今、誰かがサロンの窓から対岸を見たらどう見えるだろう?
赤い部屋にはカオルが倒れている。だから、対岸のアトリエには「カオルの死体」が映っているはずだ。
しかし、朝の時点では「伽藍の死体」が映っていた。
つまり、朝の時点では、あの部屋に伽藍がいたのだ。
「……消えた」
飛鳥が呟く。
「死体が消えた……? それとも、生き返って歩いていったとでも言うのか?」
「あるいは」
奈々未は、背筋が凍るような可能性を口にした。
「最初から、死体なんてなかったのかもしれません」
「は?」
「私たちが『死体』だと思っていたもの。赤い部屋、赤い絨毯、そして血溜まり。……もし、それら全てが、遠目に見ることを前提に作られた『ダミー』だったとしたら?」
たとえば、マネキン人形。
あるいは、伽藍自身が死んだふりをしていた?
いや、胸にはナイフが刺さっていた。あれは演技では不可能だ。
だとすれば、人形か。
だが、そんな手の込んだことを誰が?
伽藍本人が? それとも三笘しいなが?
ドォン!
思考の迷宮に入り込みかけた瞬間、ドアが激しく叩かれた。
奈々未と飛鳥は弾かれたように身を寄せ合う。
「開けなさい」
扉の向こうから、しいなの冷淡な声が響く。
「無駄な抵抗はやめることです。貴女たちは、この館の構造を理解していない。逃げ場など、最初からないのですから」
ガチャリ、と鍵穴に金属が差し込まれる音がした。
マスターキーだ。
シリンダーが回る音。だが、バリケードのチェストが内側からドアを押さえつけているため、扉は数センチ開いたところで止まった。
「……往生際の悪い」
隙間から、しいなの無機質な瞳がこちらを覗き込んでいる。
彼女は無理に押し入ろうとはせず、ため息交じりに言った。
「いいでしょう。朝までそこで震えているといい。どうせ、貴女たちに明日はないのですから」
足音が遠ざかっていく。
だが、奈々未は知っていた。彼女が諦めたわけではないことを。
彼女はこの館の管理者だ。おそらく、別の侵入ルートや、あるいはもっと残酷な「処分方法」を知っているはずだ。
「……どうするんだ」
飛鳥が絶望的な声で問う。
「ここで座して死を待つのか?」
「いいえ」
奈々未は立ち上がった。その瞳には、恐怖をねじ伏せる強い光が宿っていた。
「謎が解けていない限り、私は死ねません。伽藍さんの死体の行方。そして、この巨大なトリックの本当の意味。……それが分かれば、逆転の糸口が見つかるはずです」
彼女は部屋の窓――巨大な鏡面となっているガラスに近づいた。
夜明けまで、あと数時間。
この硝子の棺の中で、真実という名の出口を見つけ出さなければならない。
奈々未はガラスに映る自分の顔を見つめ、決意を込めて呟いた。
「見せて。あなたの裏側を」
10. 幻影の脚本
飛鳥は、極限の緊張が糸切れたように、床にうずくまって泥のように眠っていた。
時折、何かに怯えるように体をビクリと震わせ、うわ言を漏らす。その姿は、悪夢から抜け出せない子供のようだ。
窓の外では、嵐が峠を越えたのか、雨音が少しずつ遠のき始めていた。
だが、静寂は安らぎではない。それは、次の惨劇までの猶予期間(モラトリアム)に過ぎないことを、奈々未は痛いほど理解していた。
奈々未はサイドテーブルのスタンドライトだけを点け、膝の上に置いた黒い鞄を開いた。
父の遺品。
ここに来るまで、それはただの重荷でしかなかった。顔も知らない、愛された記憶もない男が、死してなお自分を縛り付ける鎖。
だが今、直感が告げている。
この鎖こそが、この硝子の檻から脱出するための唯一の鍵(キー)であると。
取り出したのは、一本の万年筆と、茶封筒に入った分厚い紙束だ。
万年筆はモンブランのマイスターシュテュック。使い込まれて表面の樹脂が艶を帯び、ペン先にはインクの黒い染みがこびりついている。
奈々未はその冷たい軸を指先でなぞり、それから封筒の紐を解いた。
中から出てきたのは、ワープロ打ちの原稿用紙だった。
表紙には、手書きの走り書きでこう記されている。
――『幻紅楼の殺人』 プロット稿 式守××
奈々未の呼吸が止まった。
タイトルが、この館の名前そのものだ。
震える手でページを捲る。そこには、物語の設定やトリックの骨子が、緻密なメモと共に記されていた。
『舞台:日光、断崖に建つV字型の館。全面ガラス張り』
『ギミック:居住棟とアトリエ棟の対称構造を利用した、鏡像密室』
『トリック:ハーフミラーによる空間の複製。夜間、照明操作により居住棟内部を対岸のアトリエに投影し、アリバイと密室を両立させる』
すべて、書いてあった。
奈々未が命がけで辿り着いた推理の答えが、何年も前に書かれたこの紙束の中に、設計図として存在していたのだ。
御堂筋伽藍は、奈々未の父が書いたこのミステリのプロットを買い取り、あるいは奪い取り、それを現実の建築物として再現したのだ。
この館は、父の脳内にあった「虚構」の具現化に過ぎない。
(……お父さん)
文字を追う目が熱くなる。
父は、どんな思いでこれを書いたのだろう。
人を騙し、死を演出するための舞台装置。
だが、ページを読み進めるにつれ、奈々未は父の意図が単なるトリックの提示だけではないことに気づき始めた。
『テーマ:ナルシシズムの崩壊。鏡は真実を映さない。見る者の願望を映すだけだ』
『犯人の誤算:完全な対称性は、完全な死角を生む。鏡像を操作する者は、鏡の裏側にある“真実”を見落とす』
真実を見落とす?
奈々未は眉を寄せ、文字を貪るように追った。
プロットの後半には、犯人が陥る罠について記されていた。
『鏡の部屋(居住棟)とアトリエ(対岸)。二つは対になっているが、ある一点において決定的に異なる。それは“光の入射角”だ。朝日が差し込む瞬間、鏡像と実像のズレが生じ、隠されていた死体が露見する』
そこまで読んで、記述は途切れていた。
結末は書かれていない。
空白のラストシーン。
余白には、父の筆跡でこう殴り書きされていた。
『※このトリックには致命的な欠陥がある。物理的な光の反射は誤魔化せても、そこに宿る“情念の色”までは偽装できない。紅葉の赤は、血の赤とは違う。見る者が愛を知っていれば、このトリックは破綻する』
――愛を知っていれば。
奈々未は顔を上げ、自身の顔が映る窓ガラスを見つめた。
三笘しいなは、このトリックを使って伽藍の死を演出し、さらにカオルを殺害した。
彼女は完璧に演じているつもりだろう。父の脚本通りに。
だが、彼女は父の警告(メモ)までは読んでいないはずだ。
「……欠陥」
奈々未は呟いた。
さっきの赤い部屋。
違和感の正体。
伽藍の死体が消えていた理由。
父のプロットが示唆する「鏡の裏側にある真実」。
思考のパズルが、音を立てて組み合わさっていく。
なぜ、朝の時点では伽藍の死体が見え、夜には消えたのか。
もし、朝に見えた「伽藍の死体」もまた、鏡像だったとしたら?
そして、その鏡像を作り出していた「本体」が、今は別の場所に移動されているとしたら?
いや、違う。
逆だ。
父のメモにある『朝日が差し込む瞬間、鏡像と実像のズレが生じ』という一文。
朝、私たちは「対岸」を見た。
夜、私たちは「手前(鏡の間)」を見た。
もし、この二つが「同じもの」ではなかったとしたら?
奈々未は万年筆を握りしめた。
硬質な樹脂の感触が、掌に食い込む。
父さん、私は脚本家志望だけど、あなたの書いた物語の結末は気に入らない。
だって、誰も救われないじゃない。
だから、書き直す。
私が、この事件のラストシーンを書き換えてみせる。
彼女は手帳を開き、万年筆のキャップを外した。
さらさらと、論理の図式を書き殴る。
V字の館。光の反射角。死体の位置。
そして、まだ誰も見ていない「第三の場所」の可能性。
その時、微かな振動を感じた。
窓の外が白み始めている。
夜明けだ。
嵐が去り、雲の切れ間から、蒼白い光が差し込もうとしている。
それは、父のプロットが予言した「解決の刻(とき)」の訪れでもあった。
奈々未は眠る飛鳥の肩を揺すった。
「起きてください、飛鳥さん」
彼女の声には、もはや迷いはなかった。
「反撃の時間です。夜が明けたら、犯人は必ず動きます。証拠隠滅のために」
「う……うん? 朝……?」
飛鳥が寝ぼけ眼をこする。
「動くって、どこへ?」
「決まっています」
奈々未は窓の外、霧の中に浮かび上がりつつある「対岸」を指差した。
「あの『存在しないはずのアトリエ』へ。……私たちは、そこで彼女を待ち伏せするんです」
「はあ!? だからどうやって! 橋は落ちてるんだぞ!」
「いいえ。道はあります」
奈々未は父の原稿を鞄にしまい、ニヤリと不敵に笑った。その表情は、どこか亡き父の面影――老獪な作家のそれを宿していた。
「鏡の裏側を通る道がね」
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