紅蓮の鏡像

不思議乃九

紅蓮の鏡像 序

1. 幻紅楼の迷い子

 

 秋の陽は釣瓶落としというが、奥日光のそれは殊更に早いようだった。

 いろは坂を登り切り、霧降高原のさらに奥深くへと進むにつれ、車窓を流れる景色は鮮血のような朱に染まっていく。燃えるような紅葉だ。東京の街路樹で見かける、煤けたような枯れ葉色とは根本的に何かが違う。それは生命の最後の輝きというよりは、山全体が熱病に浮かされ、内側から噴き出した血の色のように見えた。


 式守奈々未は、揺れるタクシーの後部座席で、膝の上に置いた黒い鞄を無意識に強く握りしめていた。

 中に入っているのは、一通の手紙と、父の遺品である古い万年筆。

 今年で十八歳になる彼女にとって、顔も知らない父の痕跡を辿る旅は、どこか現実感を欠いた儀式のようなものだった。演劇の舞台装置めいたこの山奥の風景も、その非現実感を助長しているように思える。


「お客さん、ここから先は車じゃ入れませんよ」


 運転手の言葉に、奈々未は窓の外へと視線を戻した。

 車は舗装路の突き当たり、鬱蒼とした木々のトンネルの手前で停車していた。

 料金を払い、冷たい風の中に降り立つ。湿り気を帯びた山の空気が、肺の奥まで沁み込んでいく。吐く息はすでに白い。


 奈々未はコートの襟を合わせ、落ち葉に覆われた獣道のような小径を歩き出した。手紙に記された地図によれば、この先に目指す館――「幻紅楼げんこうろう」があるはずだった。


 十分ほど歩いただろうか。視界が不意に開け、彼女は思わず足を止めた。

 断崖の縁に、巨大な硝子の塊が突き刺さっていた。

 それが建物であると認識するのに、数秒を要した。コンクリートの基部から、V字型に張り出した二つの棟。その壁面は全面がガラス張りで、周囲の紅葉と、傾きかけた夕陽を無慈悲なまでに反射している。

 建物自体が周囲の景色を食らい、増幅し、撒き散らしているかのようだ。

 美しい、というよりは、暴力的なまでの輝き。


 奈々未は目を細め、その眩しさに立ち尽くした。彼女の父親は、こんな場所に何を預けたというのだろう。


 重厚なガラスの扉の前に立つと、インターホンを押すまでもなく、扉が内側から開かれた。


「お待ちしておりました。式守様ですね」

 現れたのは、凍りつくような美貌の女性だった。

 三笘みとましいな。事前に調べた情報では、この館の主である芸術家・御堂筋伽藍みどうすじがらんの秘書を務めている人物だ。

 彼女は喪服のように飾り気のない黒いワンピースを纏い、髪をきっちりと後ろで束ねている。その表情には愛想笑いの欠片もなく、能面のような静けさを湛えていた。


「遠路はるばる、よくおいでくださいました。伽藍先生も、貴女の到着を心待ちにしておられます」

 声は低く、よく響く。


「……突然の訪問ですみません。父のことで、どうしても確認したいことがあって」

 奈々未は努めて冷静に応じた。まだあどけなさの残る少女の顔立ちだが、その瞳だけは年齢不相応に暗く、静かだ。

「ええ、存じております。さあ、中へ」


 通されたエントランスホールは、外観の印象を裏切らない、奇妙な空間だった。

 床も壁も、天井さえもが、磨き上げられた黒い石材か、あるいは鏡のような素材で覆われている。そこに、計算され尽くしたライティングが施され、奈々未の姿が床にも壁にも無数に映り込んでいた。


 一歩踏み出すたびに、無数の彼女が同時に歩き出す。

 めまいを覚えるような感覚。


 ふと、奈々未は視線の端に違和感を覚えた。

 ホールの突き当たり、中庭に面した巨大なガラス戸の向こうに、もう一つの棟――「アトリエ棟」が見える。

 V字型の対岸にあるその建物は、こちら側とは対照的に、薄暗い森の影に沈んでいた。

 だが、そのガラス壁の一点だけが、夕陽を受けて鋭く光っている。

 まるで、誰かがこちらを覗き込んでいる瞳のように。


「……変わった造りですね」

 奈々未は視線の揺らぎを悟られないよう、淡々と感想を述べた。


「ええ。先生は『対称性』に重きを置いておられますから」

 三笘しいなは、奈々未が見ているアトリエ棟を一瞥もしないまま答えた。

「この居住棟と、向かいのアトリエ棟。二つはV字の谷を挟んで向かい合い、互いを映し合う鏡となるように設計されています。右目は左目を見ることができない。けれど、鏡を使えば見ることができる……先生はよく、そう仰います」

「鏡……」

「すべての部屋、すべての調度品が、中央の軸を境に対になっています。貴女が今立っているその場所も、向こう側には同じ位置に、同じ空間が存在するのです」

 彼女の言葉には、どこか狂信的な響きがあった。

 奈々未の背筋に、冷たいものが走る。


 この館は、ただの別荘ではない。

 巨大な実験装置。あるいは、人を閉じ込めるための檻。

 父はかつて、脚本家として人の心理を操る物語を書いていた。もし父がこの館に関わっているのだとしたら、ここには必ず、言葉の裏に隠された「仕掛け」があるはずだ。


 奈々未は網膜に映る光景を、感情を排して情報の断片として処理し始めた。

 黒い床の反射率。ガラスの厚み。V字の角度。アトリエ棟までの距離は、目測で約十五メートル。底の見えない谷底には、紅葉した木々の梢がざわめいている。二つの棟を繋ぐのは、頼りなげな一本のガラスの渡り廊下のみ。

 完全な孤立空間。

 もし、あの橋が落ちれば――。


「ご紹介しましょう」

 三笘の声に導かれ、奈々未はホールの奥へと進んだ。

 広大なサロンの中央。

 背の高い革張りの椅子に、その男は座っていた。


 御堂筋伽藍。

 初老の芸術家は、手にしたワイングラスを光にかざし、揺らめく液体がつくる影をじっと見つめていた。


「……来たか。影を継ぐ者よ」


 男は奈々未の方を見ずに、グラス越しの光を見つめたまま呟いた。

 その横顔には、死相のような濃い影が落ちていた。


2. 硝子の晩餐


 御堂筋伽藍との謁見は、奇妙なほどあっさりと終わった。

 彼は奈々未を「影を継ぐ者」と呼んだきり、再びグラスの中の光と影の遊戯に没頭し始めたからだ。まるで奈々未という存在が、最初からそこにある家具の一部であるかのように。


 三笘しいなに案内された客室は、二階の最も奥にあった。

 部屋に入った瞬間、奈々未は軽い眩暈を覚えた。壁の一面が完全な鏡張りになっており、反対側の壁は天井から床まで続く巨大なガラス窓になっている。窓の外には、暮れなずむ紅葉の谷が広がっていた。

 鏡と窓。

 虚像と実像が部屋の中で混ざり合い、自分の居場所が曖昧になる感覚。


「夕食は十九時からです。それまではご自由に」

 三笘はそれだけ告げると、足音もなく去っていった。


 荷物を置き、奈々未は逃げるように部屋を出た。この館の構造を、少しでも把握しておきたかったからだ。


 廊下を歩いていると、吹き抜けになったロビーの階下から、言い争うような声が響いてきた。

「……だから言ったじゃない。あの爺さん、今夜は機嫌が悪いのよ」

 投げやりだが、どこか甘ったるい響きを含んだ女の声だ。

「僕のせいじゃない。照明の角度が気に入らないなんて、ただの言いがかりだ」

 言い返しているのは、神経質そうな青年の声。


 奈々未が手すりから下を覗き込むと、そこに二人の男女がいた。

 一人は、野生動物を思わせるしなやかな肢体を持った若い女だ。毛皮のような素材のベストを羽織り、派手なメイクをしているが、その奥にある瞳はギラギラと飢えたように光っている。

 もう一人は、黒縁の眼鏡をかけ、高価そうなカメラを首から下げた痩せ型の青年。指先が小刻みに震えており、常に何かを恐れているような挙動不審さがある。

 二人は奈々未の視線に気づき、同時に顔を上げた。


「あら、お客さん?」

 女が口角を吊り上げて笑う。

「はじめまして。私がこの館の『飾り』、乃羅カオルよ」

 自らを飾りと呼ぶその口調には、自嘲と、それ以上の傲慢さが滲んでいた。

「……飛鳥仁です。伽藍先生のアシスタントをしています」

 青年はおどおどと会釈をした。

「へえ、あんたが例の遺品を取りに来た子? 残念ね、伽藍があの『箱』を手放すとは思えないけど」

 カオルは興味なさそうにあくびを噛み殺し、螺旋階段を登ってきた。すれ違いざま、彼女からは強い香水と、獣のような体臭が混ざり合った独特の匂いがした。

「せいぜい、この館に食われないように気をつけることね。ここは人間が住む場所じゃないわ。鏡の幽霊屋敷よ」

 耳元でそう囁くと、彼女は猫のように音もなく廊下の奥へと消えていった。


 残された飛鳥と、気まずい沈黙が流れる。

 窓の外では風が唸り声を上げ始め、ガラス壁が微かに振動していた。

「……天気、崩れそうですね」

 奈々未が声をかけると、飛鳥はビクリと肩を震わせ、すがりつくように窓を見た。

「予報では今夜から大嵐だそうです。この辺りの嵐は酷いですよ。道なんてすぐに土砂で埋まってしまう」

 彼の眼鏡の奥の瞳が、不安げに揺れている。

「そうなれば、僕たちは完全に閉じ込められる。……あの怪物と一緒に」


 一時間後。

 食堂に通された奈々未を待っていたのは、最後の晩餐めいた光景だった。

 黒曜石のように磨き上げられた長いテーブル。その上には、銀の燭台と、血のように赤いワインが注がれたグラスが並んでいる。

 上座に御堂筋伽藍。その右手に三笘しいな。左手に乃羅カオル。末席に飛鳥仁。そして、伽藍の真正面に奈々未の席が用意されていた。


 窓の外はすでに漆黒の闇に包まれている。

 だが、室内の照明がガラスに反射し、窓ガラスは巨大な鏡となって食堂の光景を映し出していた。

 まるで、闇の向こう側にもう一つの食堂があり、そこでも同じ面々が食事をしているかのような錯覚。


「美しいだろう」

 前菜のスープ――不気味なほど赤いビーツのスープ――に口をつけず、伽藍が低い声で言った。

「夜になると、この館は世界を反転させる。外の景色を遮断し、内側の我々だけを無限に増殖させるのだ」

 彼はワイングラスを掲げ、窓ガラスに映った自分自身の姿に乾杯した。

「人は皆、現実が確固たるものだと信じている。だが、網膜に映る像など、脳が作り出した電気信号の幻影に過ぎない。ならば、この鏡に映る私と、ここに座る私。どちらがより『本物』に近いか……君に分かるかね?」

 試すような視線が、奈々未を射抜く。


 奈々未はスプーンを置き、慎重に言葉を選んだ。

「……鏡の中の像は、左右が反転しています。それは現実とは決定的に違うものではないでしょうか」

 その言葉に、伽藍は愉しげに口の端を歪めた。

「ほう。左右反転か。だが、君の心臓が右にあるか左にあるか、割いてみなければ誰にも分からない。反転しているのは像ではなく、それを見ている君の認識の方かもしれないぞ」


 テーブルの空気が凍りつく。

 三笘しいなは無表情に肉を切り分け、カオルは退屈そうにワインをあおり、飛鳥は青ざめた顔で水ばかり飲んでいる。

 それぞれの視線が交錯し、決して噛み合わない。


 その時だった。


 ――ドォォォォン!!


 地響きのような音が、館全体を揺さぶった。


 食器がカタカタと音を立て、カオルが悲鳴を上げて立ち上がる。


「な、何!?」


「……始まったようだな」

 伽藍だけが、動じることなく薄笑いを浮かべていた。

「山が鳴いている。今夜の嵐は、特別なものになりそうだ」


 直後、叩きつけるような雨音が、ガラスの壁を打ち始めた。

 バシッ、バシッ、という激しい音が、四方八方から響き渡る。

 まるで無数の手が、このガラスの棺をこじ開けようとしているかのように。


 三笘しいなが静かに立ち上がり、どこかへ電話をかけたが、すぐに受話器を置いた。

「……電話線が切れています。おそらく、携帯の電波も」


 飛鳥が慌ててスマートフォンを取り出すが、その画面には『圏外』の文字が無慈悲に表示されていた。


「陸の孤島、というわけか」

 伽藍は満足げに頷き、残りのワインを一気に飲み干した。

「素晴らしい。これで邪魔者は誰も入ってこられない。今夜、この幻紅楼は、世界から切り離された完全な密室となる」

 その言葉は、まるで何かの儀式の開始を告げる宣言のように響いた。


 奈々未は窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。

 鏡の中の自分は、不安げに眉を寄せている。

 だが、その背後に映る闇の深さを、彼女はまだ知らなかった。

 その闇の中で、すでに誰かの殺意が、あの赤い紅葉のように音もなく燃え広がっていることを。


3. 紅の断層


 その夜、奈々未は激しい耳鳴りに似た音で目を覚ました。

 時計の針は午前二時を回っている。

 耳鳴りかと思った音は、窓ガラスが風圧で軋む悲鳴だった。嵐は勢いを増し、このガラスの棺を谷底へと突き落とさんばかりに吹き荒れている。

 叩きつける雨飛沫が、稲光に照らされて一瞬だけ白く浮かび上がり、すぐに闇へと吸い込まれていく。

 眠れそうにない。


 奈々未はベッドを抜け出し、サイドテーブルの水を飲んだ。

 部屋の鏡には、乱れた髪の自分が蒼白な顔で映っている。

 ふと、窓の外――漆黒の闇に沈むV字の対岸へ視線を向けたときだ。


 ――チカッ。

 一瞬、向かいの「アトリエ棟」のガラス面が赤く明滅したように見えた。

 稲妻の反射だろうか。それとも、誰かが懐中電灯でも向けたのか。


 奈々未はガラスに額を押し当てて凝視した。だが、そこには深海のような闇が広がっているだけだ。 


 その時。


 ズズズ……ガゴォォォォン!!


 腹の底に響くような重低音が館全体を揺さぶった。

 地震ではない。もっと物理的な、巨大な質量が崩れ落ちるような破壊音。

 続いて、バリバリバリというガラスの砕ける音が断続的に響き、やがて風の音にかき消されていった。


「……何?」

 心臓が早鐘を打つ。

 ただならぬことが起きた。それだけは確かだったが、この嵐の中で部屋を出て確かめる勇気は、十八歳の彼女にはなかった。

 奈々未は毛布を頭から被り、朝が来るのをじっと待つしかなかった。


 翌朝。

 嘘のような静寂が訪れていた。

 嵐は去り、窓の外には乳白色の濃霧が立ち込めている。


 奈々未が身支度を整えて部屋を出ると、廊下にはすでに重苦しい空気が漂っていた。

 一階のホールに、三人の人影がある。


「……嘘でしょう」

 呆然と立ち尽くすカオルの声。その横で、飛鳥が青ざめた顔で震えている。しいなだけが、石像のように無言で外を凝視していた。


「おはようございます。何かあったんですか」

 奈々未が階段を降りていくと、しいながゆっくりと振り返った。

「おはようございます、式守様。……ご覧の通りです」

 彼女が示したのは、中庭に面した巨大なガラス戸の向こう側だった。


 奈々未は息を呑んだ。

 ない。


 昨日までそこにあった、居住棟とアトリエ棟を繋ぐ「ガラスの渡り廊下」が、跡形もなく消え失せていたのだ。


 昨夜の轟音はこれだったのか。

 基部からへし折れた鉄骨が、無惨な断面を晒している。その下は、霧に覆われた断崖絶壁だ。


「土砂崩れです」

 飛鳥が掠れた声で言った。

「昨夜の雨で地盤が緩んで……橋を支えていた岩盤ごと崩落したみたいだ。僕たちは、完全に孤立した」

 道路も寸断されている可能性が高い。電話も繋がらない。

 そして何より、この館の中で唯一の「離れ」であるアトリエ棟へ行く手段が、物理的に絶たれたことを意味していた。


「先生は?」

 奈々未の問いに、しいなが首を横に振る。

「昨夜からアトリエに籠もったきりです。内線も通じません」

「そんな……じゃあ、あの人はあっちに取り残されてるってこと?」

 カオルがヒステリックに叫んだ。「ねえ、どうすんのよ! 水も食料もないのよあっちには!」


 その時、一陣の風が吹き抜け、谷間を埋め尽くしていた霧がサーッと晴れていった。

 朝陽が差し込み、向かいのアトリエ棟が露わになる。


 全員の視線が、V字の対岸へと吸い寄せられた。

 距離にして約十五メートル。

 ガラス張りのアトリエの内部が、陽光を受けて鮮明に浮かび上がる。


「――ひっ」

 飛鳥が短く悲鳴を上げ、後ずさった。

 奈々未もまた、その光景に言葉を失った。


 アトリエの中は、赤かった。

 壁に掛けられた巨大なタペストリーも、床に敷かれた絨毯も、置かれたソファも、すべてが燃えるような真紅で統一されている。

 その赤い部屋の中央。

 黒い人影が、床に大の字になって倒れていた。


 御堂筋伽藍だ。


 胸元には、銀色の何かが深々と突き刺さっている。

 そこから溢れ出した赤黒い液体が、真紅の絨毯に吸い込まれ、どす黒い染みとなって広がっていた。


「嘘……伽藍?」

 カオルがガラス戸にへばりつく。

「伽藍! ねえ、ふざけないでよ! 起きなさいよ!」

 叫び声は、分厚い合わせガラスに阻まれ、向こう側には届かない。


 伽藍は微動だにしない。

 完全に、事切れている。


「刺されている……」

 奈々未は冷静さを保とうと必死になりながら、眼球だけで状況をスキャンした。

 ここから見えるアトリエの室内。争った形跡はない。

 そして、アトリエに通じる唯一の扉――渡り廊下側の扉は、固く閉ざされている。その手前の廊下は崩落しているのだから、誰もそこから出入りすることはできない。


「密室……」

 誰かが呟いた言葉が、冷たいホールに反響した。

 犯人があの中にいるなら、逃げ場はない。

 だが、あの中に人影は伽藍しかいない。

 もし犯人がすでに逃げ出したのだとしたら、どうやって? 橋が落ちた後では不可能だ。橋が落ちる前なら、犯人も一緒に落ちているか、こちら側にいるか。

 だが、昨夜の轟音は深夜二時。

 伽藍の死体は、死後数時間は経過しているように見える。

「……警察」

 しいなが震える手で唇を押さえた。「警察を呼ばなくては。でも、電話が……」

「携帯もダメだ! 完全に圏外だ!」

 飛鳥が叫ぶ。


 断崖の上のガラスの檻。

 目の前には、到達不能な死体。

 そしてこちら側には、怯える三人の男女と、一人の異邦人。

 奈々未は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。

 これは、ただの殺人ではない。

 この館の構造そのものを利用した、巨大な悪意の展示だ。

 ガラス越しに見えるあの死体は、本当に「そこ」にあるのだろうか?

 昨夜の晩餐で、伽藍が言った言葉が脳裏に蘇る。


 ――『網膜に映る像など、脳が作り出した電気信号の幻影に過ぎない』


 彼女はもう一度、アトリエを見つめた。

 紅葉の赤。絨毯の赤。血の赤。

 全てが混ざり合い、境界線が溶け出している。

 美しいほどの絶望が、そこにあった。


4. 硝子の棺


 飛鳥仁が震える手で差し出した一眼レフカメラの望遠レンズを、奈々未は覗き込んだ。

 ファインダー越しに見る死は、肉眼よりも遥かに鮮明で、それゆえに作り物めいて見えた。

 硝子の向こう、燃えるような赤で統一された部屋。

 御堂筋伽藍は、その中央で十字架に磔にされたかのように大の字で絶命している。胸に突き刺さっているのは、おそらくペーパーナイフか何かだろう。銀色の柄が、赤黒い血糊の中に鈍く光っていた。

 奈々未は息を殺して、部屋のディテールを観察した。

 真紅の絨毯。壁を覆う赤いタペストリー。年代物の革張りソファ。

 その全てが、今、奈々未たちがいるこの「居住棟」の無機質な黒とは対照的だ。


「……間違いない。先生だ」

 レンズから目を離し、奈々未は静かに言った。

「でも、妙です。争った形跡が全くない」

「知り合いの犯行、ということ?」

 カオルが爪を噛みながら、苛立ったように言う。「でも、誰が? どうやって? 昨日の夜、橋が落ちる音がしたとき、あたしたちは全員こっちにいたのよ!」 


 その通りだ。

 昨夜の轟音は午前二時。

 もし犯人がそれより前にアトリエに渡って犯行に及んだのなら、犯人は今もアトリエ側にいなければならない。だが、ガラス越しに見える室内に人影はない。隠れられそうな場所も、ソファの陰くらいだ。

 逆に、犯行後にこちらへ戻ってきたとしたら、その直後に橋が落ちたことになる。あまりにもタイミングが良すぎる、あるいは悪すぎる。


「確認させてください」

 奈々未は三笘しいなに向き直った。

「あのアトリエの内装は、元々あんな風に真っ赤なんですか?」

 しいなは無表情に頷いた。

「ええ。先月から、先生の指示で改装しました。今年の紅葉に合わせて、室内も『紅(あか)』で染め上げたいと。……あそこは先生の聖域です。私たちは掃除の時以外、立ち入ることを許されていませんでした」

「こっちの棟には? 同じような部屋は?」

「ありません」

 彼女は即答した。

「この居住棟は『影』をテーマにしています。黒とグレー、そして鏡。色彩は排除されています。……確かめてみますか?」


 奈々未たちは、館内の探索を開始した。

 目的は二つ。他の出口や通信手段の確保と、館の構造の把握だ。

 一階のホール、食堂、キッチン。二階の客室、書庫、そしてバスルーム。

 どこを見て回っても、しいなの言葉通りだった。

 この居住棟の内装は、徹底してモノトーンで統一されている。家具も、壁紙も、カーテンさえも。

 あの対岸に見える、毒々しいまでの「赤」が存在する余地など、どこにもないように思えた。

「……ここは何ですか?」

 二階の廊下の突き当たり、アトリエ棟に最も近い位置にある両開きの扉の前で、奈々未は足を止めた。


「『鏡の間』です」

 しいなが鍵を取り出し、重い扉を開ける。

 そこは、ガランとした広いホールだった。

 窓はない。四方の壁すべてが、巨大な鏡で覆われている。

 家具はほとんどなく、部屋の中央に、白い布を被せられた彫刻や絵画が無造作に置かれているだけだ。

「作品の保管庫兼、瞑想室のような場所です。今は改装中で、使われていません」

 奈々未は部屋の中に入り、周囲を見渡した。

 合わせ鏡になった空間に、無数の奈々未と、白い布を被った亡霊のような家具たちが映り込み、無限に連鎖していく。

 色彩はない。

 ここもまた、白と黒と銀の世界だ。

(……違う)

 奈々未は直感的に思った。

 あの対岸に見える、生々しい「死の舞台」とは似ても似つかない。

 やはり、死体は間違いなく「向こう側」にあるのだ。


「出口は、玄関の扉だけです」

 探索を終え、再び一階のホールに戻ってきたとき、飛鳥が絶望的な声で報告した。

「裏口も窓も、すべて強化ガラスと鉄格子で塞がれている。唯一の出口である玄関は、外から土砂が崩れて埋まっている可能性があります。たとえ開いたとしても、この嵐の後の山道を徒歩で下りるのは自殺行為だ」

「じゃあ、あたしたちは閉じ込められたってわけ? 殺人犯と一緒に?」

 カオルが叫び、近くにあった花瓶を蹴り倒した。

 ガシャーン、と乾いた音がホールに響き渡る。

「落ち着いてください」

 奈々未の声が、その場を制した。

 彼女はまだ十八歳の学生に過ぎない。だが、その瞳には奇妙なほど冷徹な光が宿っていた。

「状況を整理しましょう。現状、外部との連絡は遮断されています。警察は来ない。助けも呼べない」

 彼女は三人の顔を順番に見渡した。

「そして、被害者は対岸の密室にいる。犯人がどこにいるかは不明ですが……論理的に考えれば、この中にいる誰かが、何らかの方法で犯行に及んだと考えるのが自然です」

「なっ……疑うのか!?」

 飛鳥が激昂して詰め寄る。

「物理的に無理だろう! 橋が落ちてるんだぞ! それとも何か、僕らが翼でも生やして空を飛んだとでも言うのか!」

「あるいは、橋が落ちる前に殺して戻ってきたか」

 奈々未は淡々と返した。

「皆さんの昨夜のアリバイを教えてください。深夜二時、あの轟音がしたとき、どこで何をしていましたか?」 


 沈黙が落ちた。

 窓の外では、再び雨が降り始めていた。

 硝子の棺に閉じ込められた四人の呼吸音だけが、不気味に響いている。

 誰もが、誰かを疑っている。

 そして、誰もが気づいていない。

 自分たちが立っているこの場所こそが、すでに巨大なトリックの「内部」であるということに。


5. 散りゆく色


「アリバイ、ですか」

 三笘しいなは、冷めた紅茶に口をつけるように、抑揚のない声で繰り返した。

「残念ながら、証明できるようなものはありません。私は二階の自室で本を読んでいました。深夜一時過ぎには就寝したはずです」


「あたしもよ」

 カオルが不機嫌そうに髪をかき上げる。

「あんな嵐の中で、部屋を出歩く物好きなんていないわ。第一、あたしたちの部屋には鍵がかかるのよ。内側からね」

「僕は……起きていました」

 飛鳥だけが、落ち着きなく視線を彷徨わせている。

「現像データの整理をしていて……。でも、部屋からは一歩も出ていません。ただ」

「ただ?」

 奈々未が促すと、飛鳥は躊躇いがちに唇を舐めた。

「……音が、聞こえた気がしたんです。一時半頃だったかな。廊下を、誰かが歩くような音が」

 その発言に、カオルが過剰に反応した。

「ちょっと、何よそれ。誰かが歩いてたって言うの? あたしじゃないわよ!」

「誰も君だなんて言っていないだろう」

 飛鳥がうんざりしたように首を振る。

「でも、三笘さん。貴女の部屋は階段に一番近い。誰かが通れば気づいたんじゃないですか?」

「風の音でしょう」

 しいなは眉一つ動かさずに切り捨てた。

「この館はガラス張りです。嵐の夜には、建物全体が軋んで、人の足音や悲鳴のような音を立てるのです。慣れていなければ聞き間違うのも無理はありません」


 決定的な証拠は何一つない。

 全員が個室にいて、全員が孤独だった。

 奈々未は手帳にペンを走らせながら、彼らの間に流れる空気の変質を感じ取っていた。

 恐怖は、疑心暗鬼を経て、やがて憎悪へと変色し始めている。


「……犯人が誰であれ、動機はあるはずです」

 奈々未はあえて、傷口に塩を塗るような問いを投げかけた。

「伽藍さんを殺したいほど憎んでいた人は?」


「全員よ」

 吐き捨てるように言ったのはカオルだった。彼女は歪んだ笑みを浮かべ、しいなを指差した。

「特に、そこにいるすました秘書さんはね。伽藍に捨てられるのが怖くて仕方なかったんでしょう?」


 しいなの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。

「……言葉を慎みなさい」

「図星? 知ってるのよ。伽藍、言ってたわ。『しいなは古びた家具だ』って。『機能はするが、美観を損ねる』ってね。あんた、今月いっぱいで解雇される予定だったんでしょう?」


 しいなは無言でティーカップを置いた。カチャリ、と硬質な音が響く。

「先生は、美に対して厳格な方でした。賞味期限の切れた食材を皿に載せることを嫌う。それは芸術家として当然のことです」

 彼女はカオルを見据え、静かに反撃した。

「貴女こそ、焦っていたのではありませんか? 『次の作品』が完成すれば、貴女もまた用済みになる。先生は飽きっぽい方ですから」

「なっ……!」

 カオルの顔が赤く染まる。

「僕だって」

 飛鳥が自嘲気味に割って入った。

「僕だって、先生がいなくなればいいと思ったことは何度もありますよ。僕の作品を『模倣』だと嘲笑い、僕のアイデアを勝手に自分のものにする。先生にとって、僕たちは人間じゃない。ただのチューブの絵の具なんです。使い切れば捨てられる、消耗品だ」


 絵の具。消耗品。

 その言葉が、奈々未の胸に棘のように刺さった。

 御堂筋伽藍という男は、周囲の人間から色彩を奪い、自らの作品というキャンバスに塗りたくることで生きてきた怪物だったのか。

 だとしたら、この事件は、搾取された「色」たちの復讐劇なのだろうか。

 罵り合いを続ける三人の声が、不意に遠のいた気がした。


 奈々未は彼らに背を向け、ふらりと窓辺に歩み寄った。

 雨に濡れたガラスに、自分の顔がぼんやりと映っている。

 その向こうに、雨に打たれる紅葉の森が見えた。

 美しい。けれど、どこか哀しい色だ。

 雨に濡れた紅葉は、黒ずんだ血のように暗く沈んでいる。

 秋の終わり。死にゆく季節の色。


(……あれ?)

 奈々未の視線が、ある一点で凍りついた。


 違和感。

 論理的な矛盾ではない。もっと感覚的で、生理的な「色のズレ」。


 彼女は、ガラス越しに見える森の紅葉と、記憶の中にある「アトリエの赤」を比較した。

 さっき、霧が晴れた一瞬に見えたアトリエの室内。

 あの部屋は、壁も床も鮮やかな真紅で埋め尽くされていた。

 しいなは言った。「今年の紅葉に合わせて、室内も紅で染め上げた」と。

 だが、窓の外にある自然の紅葉は、雨と風に晒され、茶色く濁り始めている。

 対して、アトリエの中にあった赤は、あまりにも鮮烈すぎなかったか?

 まるで、血を流したばかりの傷口のような、あるいは――ライトで照らされた舞台セットのような、人工的な「赤」。


 窓ガラスに指を這わせる。

 冷たい感触。

 ここにあるガラスは、外の景色を映す。

 では、もしも。

 もしも、あの「アトリエの赤」が、外の紅葉を模したものではなく、もっと別の何かを映していたとしたら?


「……式守さん?」

 背後から飛鳥に声をかけられ、奈々未はハッと振り返った。

 思考の深淵を覗き込みかけた彼女の顔は、ひどく蒼白だったかもしれない。

「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」

「……いえ、なんでもありません」

 奈々未は曖昧に笑って誤魔化した。

 まだ、言葉にはできない。

 けれど、自分の中で小さな「仮説」の種が芽吹き始めているのを感じていた。

 この館には、目に見えている以上の「嘘」が隠されている。

 あの鮮やかすぎる赤は、情熱や芸術などではない。

 誰かの目を欺くための、残酷なカモフラージュなのかもしれない。

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