第10話
いくつ昼と夜が過ぎたのだろうか。産まれてからずっとこの床に横たわったまま、生きてきたような錯覚に陥る。果たして本当に錯覚だろうか。長い夢を見ていただけかもしれない。
私は思い出す。初めてペンの絵を描いた日のことを。それから、それから何があったんだっけ。大学に合格した時、母が涙を流して喜んでいた。そして、みちちゃんと出会った。そうだ、れでぃ・冥土。私はれでぃ・冥土。あの頃の私はイカれていたと、人類がまだ農耕を始める前の時代に、思いを馳せるように、私はもう二十歳だった。選択も決断も私には残されていて、そのどちらもせずに、今、床に横たえた体を起こすことすらできない。
インターホンが鳴って、どんどんと扉をたたく乾いた音がする。誰かが呼んでいる。
「ハナちゃんいる? いるなら開けて。大丈夫。あなたの顔見たらすぐ帰るから」ああ、みちちゃんか。何しに来たのだろうか。私はみちちゃんが思い描くようなれでぃ・冥土ではなくて、ただのメンヘラ女なのに。私に何の用があるのだろうか。しばらくするとまた静寂が戻ってきた。気のせいだったのかもしれない。
気のせい? 気のせいだったとして、私は何を望んでいたの? 知りたくない、なにを? 知りたくない何も知りたくないよ。どうして、どうすればよかったの?
その時、玄関の扉が開いたような気がした。そういえば鍵を閉めたっけ。思い出せない。誰かが近づいてくる。逃げないと。そう思うと体が自然に動いた。自然に命を絶つ方向へと突き動かされる。
「ハナちゃん、何してるの?」
「あ、」私は包丁を持った手を止めた。いや、止められた。喉に切っ先を向けた包丁は止まっていた。包丁を握ったみちちゃんの手から血が滴っていた。そして、みちちゃんはもう一方の手で私をぶん殴った。顔面が吹っ飛んだかと思った。実際は身体ごと床に崩れ落ち、大の字で倒れていた。手に持っていたはずの包丁は部屋の隅に落ちていた。
「みちちゃん、何しに来たの?」私は天井を見ながら言った。天井はやたらと遠く見えた。
「あんた自分が何してたかわかってないの?」みちちゃんが私を睨んでいた。わからないと答えようとした。でも、わかりたいと思った。
「でもね、私みちちゃんが望むようなれでぃ・冥土じゃなかったよ。ずっと死にたいもん。死なずにいるなんて無理。れでぃ・冥土は死んだんだよ。私も……」
「黙れ」床で伸びている私に跨って、みちちゃんは拳を振り下ろした。口なのか鼻なのかわからないけれど、血の匂いと味がした。早田先輩に殴られた時は血の味なんてしなかった。
「殺して。一気に殺して」と私は叫んだ。このまま死ねたらどんなに幸せだろう。
けれど、みちちゃんの拳は振り上げたまま止まっていた。みちちゃんは泣いていた。拳の代わりに涙が降ってきた。
「殺さない。あんたなんか殺してあげない。こんなところで、れでぃ・冥土を死なせたりしない。あんたはどうあがいても生きるの」
「私、どうすればよかったの?」こんなこと訊いたって仕方ないのに、そんなことわかっているはずなのに。
「ハナちゃんのばか」みちちゃんは震える声で言った。私の目からも涙が流れている気がした。
「ハナちゃんがどんな人生を歩んできたかなんてこれっぽっちも知らないわよ。ハナちゃんにとってのれでぃ・冥土なんてもっと知らない。知りたくもない。だけどね、ハナちゃん。あなたはちゃんと知るべきなの。れでぃ・冥土はあなたが思っている以上に多くの人に求められていたってことを」
「そんなこと……」
「そんなこと私のエゴだってことくらいわかってるよ。ハナちゃんの傷や痛みを私は引き受けることなんてできない。でも、誰だってそうでしょ? 誰だって一人なんだよ。一人だから、誰かと繋がっていたい、一人だから、誰かに何かを届けたい。私は受け取ったんだよ。あなたにとっては大したものではなかったのかもしれないけど、れでぃ・冥土はちゃんと私に届いていたんだよ。だから、生きてよ!」みちちゃんの涙の雨に打たれて、私は透き通っていった。中学校の美術室のあの静寂の中にいる気がしていた。
「私、」その後に続くはずの言葉が出てこなかった。子供みたいに大声で泣いてしまったからだ。生きたい、でも、どうしたらいいかわからない。どうすれば……。
みちちゃんが私の頬にそっとキスをした。違った。私の涙を舐めていた。舌先が頬を撫でる感触がこそばゆくて、顔を動かした。あ、あった。目が合ったのだ。壁に飾ってあるれでぃ・冥土の最後の作品と。私はずっと忘れていた。この作品を部屋に飾った意味から目を逸らし続けていた。でも、この絵はずっとここにいたんだ。私とともに。
晴れ渡る草原に浮かんだ扉の絵。私は、れでぃ・冥土は、まだ死んでいなかった。この扉の奥にはきっと、私は、今やっと生きていると思った。
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