第8話
みちちゃんは文芸部に入った。これもれでぃ・冥土のおかげらしい。彼女はひたすら、れでぃ・冥土に心酔していた。部活探しを終えた私たちはキャンパス内の人気のない喫煙所で、ベンチに座って話していた。私がタバコを吸うと、みちちゃんがハナちゃんタバコ吸うのねと、驚いていた。部活探しだからと、謎に気合を入れてお気に入りの白の花柄のワンピースを着てきたけれど、あんまり意味がなかった。部活に入らなかったから。
「れでぃ・冥土の小説に『先輩の手』という作品があって、私はそれが一番好きだった。女子高を舞台にしたレズビアン小説で、先輩の手に惚れた主人公が、その手で体中を触れてもらおうとするって話。とても悲しい終わり方をする物語なんだけど、そこで描かれてる手の美しさに、ピアノの先生を思い出して切ない気持ちになった。私がピアノをやっていたのも先生の手が美しかったから。ずっと見ていたかった。『先輩の手』には世界のままならなさが詰まってたわ。でも、そのままならない世界を愛そうとする努力をれでぃ・冥土は怠らなかった。ピアノはやめてしまったけど、私は文学で人の心を響かせたい」
私はみちちゃんの素直な感性を羨ましく思った。れでぃ・冥土となった私は世界を呪い続けていた。何を描いても早田先輩の言葉が脳裏にあった。お前の作品は誰かの引用でしかない。私は死ぬために描き続けた、そして、先輩の暴力を思い出したくて、腕や足を切り続けた。血が流れると、先輩が涙を流していると思った。この感情はいったい何なのだろう、私にとって早田先輩とは何だったのだろう。いくら考えても答えが出なくて、傷ばかり増えていった。
『先輩の手』という作品を覚えている。絵だけでは表現しきれない世界があると思って書いた、初めての小説だった。この物語に出てくる先輩のモデルは早田先輩だった。彼に平手打ちされた頬の痛みを思って書いた話だった。
私が描いた世界をみちちゃんはことごとく希望に捉えていた。当時の何も希望を抱いていなかった私が聞いたら、きっとみちちゃんの正気を疑っただろう。
「みちちゃんは偉いね。私、やりたいことが一つもないってわかっちゃった」私は吸いかけのタバコを灰皿に捨てた。
「絵を描いたらいいのに」
「何かを作ったりするのはつかれちゃったんだもん」
「じゃあ、なんで大学に入ったの? 勉強?」
確かにそうだ。れでぃ・冥土が死んで、創作をやめた私は何に期待して大学に進んだのだろう。大卒という経歴のためだろうか。大学デビューだろうか。大学で文学を学ぶためか。どれも納得のいく答えに思えなかった。
「わかんない」と私はなるべく冗談めかして言った。
「そう」とだけみちちゃんは答えた。
その時、ふと思った。切りたい。そう過った時点で、もう止められなかった。私は立ち上がり「ごめん、用事思い出した」と言って、みちちゃんの返事も聞かずにその場から歩き出す。背後で、「ちょっと」とみちちゃんの声がしたから、速足で歩いた。追われている気がして振り向かずに歩いた。駐輪場まで来ると、両耳にワイヤレスイヤホンを入れて、大音量で音楽をかけた。世界の音を聞きたくなかった。そのまま自転車に乗り、猛スピードで走った。家に着くまでに二回車とぶつかりかけた。その度に運転席を睨みつけた。
家につくとリュックを放り投げ、着の身着のまま、冷蔵庫から缶チューハイを取り出し、一気に喉に流し込む。そのまま缶チューハイ片手に鏡台から顔そり用の剃刀を持ち出して、両腕に線を引いていく。なぜか均等に線を入れないといけない気がして、でも、どうしても均等にならなくて赤い線が増えていった。
両耳から聞こえる音楽が鬱陶しくてイヤホンを投げ捨てる。その瞬間、部屋の静けさが一気に耳に響いた。傷口から無言で血が流れだす。どうしてこんなに私は。私は怖かった。みちちゃんと親しくなっていくことが、みちちゃんの話すれでぃ・冥土の話が、どうしても怖かった。本当のことを言いたかった。三つ目の越えなくてならないハードル。それは誰かに助けを求めることだった。
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