第7話
その自信をボキボキにへし折ったのもまた、早田先輩だった。
私は地元の公立高校に進学した。高校でも美術部に入った。そこで早田先輩と遭遇した。先輩はてっきり美術系の学校に行ったと思い込んでいた。先輩は絵を描くことをやめていた。帰宅部なのに、美術部の部室に居座っていた。
こんなにうれしくない再会は珍しいと思った。また無価値と言われると身構えたけれど、早田先輩は優しく声をかけてきた。
「彩乃から聞いたよ。中学で賞取りまくってたらしいな。よく頑張ったな」
「あ、ありがとうございます」と答えてから、彩乃って誰だと思った。数秒考えた。峯沢先輩だ。峯沢先輩は進学校に行ったので、彼女の名前が出てくると思っていなかった。後になってわかったことだが、二人は中学時代から付き合っていたのだ。
「ま、お前の絵は無価値だけどな」やっぱり優しくなかった。その頃には先輩は絶対という考えはなく、一、二年早く生まれただけで偉そうなやつと思うようになっていた。それに私は中学三年間を通して生意気に磨きをかけていたので、簡単に言い返せた。
「じゃあ、何も描いてすらいないのに口だけの先輩はカスです」美術室の空気が凍ったのがわかった。それだけは言っちゃダメだろと周りの目が言っていた。先輩は例の片方だけ上がった口角をさらに歪めて「わかった。お前に何の価値もないと教えてやる、俺のうちでな」と言った。俺のうちでな、という予想外の言葉にたじろぎながら、負けたくなかった私はいいですよと答えてしまった。
早田先輩の家は新築と思われるきれいな二階建ての一軒家で、入ると玄関は暗かった。暗い廊下の奥はおそらくリビングだ。扉が閉まっていたが灯がついていて、テレビや生活音が聞こえた。私がリビングに向かって「お邪魔します」と言うと、先輩が「いないようなもんだから言っても意味ないよ」と言った。
先輩が廊下の脇の階段を上がったので、私もついて行った。彼の部屋につくなり私は突き倒された。受け身もできずに尻もちをついた私は、あっけにとられて動けなくなった。部屋は先輩が描いたと思われる絵で壁が埋め尽くされていた。どの絵も気味の悪い生き物が人間を襲い、寄生して食い破っていた。私は絵の不快さよりも、絵に込められているであろう憎悪に震えた。
早田先輩は私を見下ろして言った。
「お前みたいな中途半端な覚悟で、それっぽいものを作って満足する奴が一番嫌いだ」
私はごくりと唾を飲んだ。先輩の口元にはいつもの歪んだ笑みがなかった。こちらを見ているはずの細い目もどこか見当違いな場所を見ているように感じた。
「死ぬ気でやれよ」と先輩は静かな声で言った。先輩の足が私の腹を強かに蹴った。私は声も出せずに呻いた。痛がる前に二発目が入った。殺されると思った。気味の悪い絵が一斉にこちらを見ている気がした。逃げようと這って部屋の扉を目指したが、髪を鷲掴みされて振り回された。私は悲鳴をあげた。死にたくないと思った。意味もなく嫌だと叫んだ。
「お前は死ぬ気で描かなきゃダメなんだよ。死ねよ。死んでみせろよ。才能がある癖に死ぬ気で描いてない絵が一番嫌いなんだよ」そう言いながら、先輩は私の髪を掴んで顔面に平手打ちを何発も入れた。狂っている。この人は狂っている。私は泣きじゃくって暴れた。生きてここから出ることだけを考えていた。
散々暴れても誰も助けに来なかった。先輩の暴力も止まることがなかった。死ね、死ねと言われ、蹴られているうちに、私は次第に死ななくてはいけないと思うようになっていった。もう死ぬしかない。死ねばきっと許される。早く殺して。そう思った。私は抵抗をやめた。
すると、先輩も蹴るのをやめた。「お前にも目指してるものがあるんだろ。死ぬ気でやれよ」と言った。早田先輩は泣いていた。「何で泣いてるの?」と私は思わず呟いた。先輩はその場に立ち尽くして静かに泣き続けた。
痣だらけで帰宅した私に驚き、両親は私を問い詰めた。私は何も答えず、部屋に籠った。翌日から登校を拒否。部屋で一人絵を描き続けた。月日が流れても、先輩の暴力と、死んでみせろという言葉が耳元にあって、私に絵を描かせていた。私は死にたくない、死にたくない、死ね。死にたくない、死にたくない、死ね。死にたくないが、いつの間にか知りたくないに変わっていた。知りたくない、なにを? だれが? どこで? なぜ? 知りたくない何も知りたくない。私は何を求めて絵を描いていたんだっけ。ものの本質を描く。ものの本質にはきっと美があって、私は知りたくない。死にたくない。
そして、死んだ。早田先輩は卒業式の日の夜に死んだ。知りたくなかったのに、久しぶりに連絡をしてきた峯沢先輩から彼が自殺したと告げられた。こうして、れでぃ・冥土は誕生した。私が死ぬまでの記録を残す目的で。
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