第2話

    遅刻が確定するとかえって落ち着いてくる。大学までは自転車に乗って五分で着く。しかし、私は呑気に歩いて行くことにした。ちゃっかりマンションの一階にあるコンビニでペットボトルのカフェオレを買った。レジで店員がぎょっとしたので、その時になってリスカ痕を隠すためのアームカバーをしていないことに気づいた。何なら帽子も被ってない。一瞬、家に取りに帰るか迷ったがそのまま行くことにした。人の視線に怯えない。越えるべきハードルその一だ。ハゲは髪が長いから誤魔化せるはず。

 今日から三日間、大学生活の説明と学生の交流を兼ねたオリエンテーションの期間だった。出席義務はないが、履修登録の方法や、大学の規則はちゃんと確認しておきたい。大学は山を切り開いた斜面に沿って建っているので、階段が多い。正面入口が最上階の四階で、そこから階段を下って各階に行けるようになっている。オリエンテーションをやっているⅭ棟に行くまでに新歓のビラを配る人たちが通路に列をなしていた。私は海を割るモーセの気分で歩いて行く。掛け声とともにビラを配る腕が両サイドから伸びてきて、ゾンビ映画みたいだと思った。

 新歓ゾンビたちの群れをくぐり抜けた時には両手がビラでいっぱいだった。教室の前に着いてから、背負っていたリュックにビラを無造作に入れた。教室の扉を開けるには勇気がいると思った。入った瞬間に知らない目がいっせいにこちらを見る想像をして怯んだ。深呼吸、深呼吸と言いながらニ、三回深呼吸すると、逆に息が荒くなって、動悸がして、意識が遠のいた。やばい。このままじゃ立っていられなくなる。私は急いで頓服薬を買ってきたカフェオレで流し込む。そして、その場にへたり込んでしまう。過呼吸まではいかないが、肩で息をしていた。不安時特有の心臓の辺りがキリキリする感覚があって、苦しい。

「え、大丈夫?」と女性の声がした。声のした方を見る余裕がない。私はちゃんとしなきゃと思って、大丈夫と言おうとしたが、うまく声が出なかった。

「わかった。大丈夫じゃないのね」女性が私の隣にしゃがみ込んで背中をさすってくれた。私はもう一度大丈夫と言おうとして言えなかった。声の主はきりっとした一重まぶたが印象的な瞳の大きなボブヘアの女の子で、ばっちり化粧をしていたが、表情にどこか幼さがあって、多分一年生だと思った。かがんでいても私よりだいぶ背が高いことがわかった。170はありそうだ。私より20センチくらい高い。

「って、あなたその腕どうしたの? ボロボロじゃん」リスカ痕についていきなり訊いてくる子は初めてだった。私は恐らくさっきのコンビニ店員みたいにぎょっとしていたに違いない。私はもうリスカはしてないと言おうとしてやめた。そんな言い訳をこの子にしても仕方ない。

「大丈夫。さっき頓服飲んだから、そのうち効いてくるはず」となんとか私は言葉を絞り出した。

「ならいいんだけど、とりあえず薬効いてくるまでいてあげる」

 私はもう大丈夫と言おうとして「ありがとう」と言った。

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