第五章:真実

 大広間の空気は、もはや静止していた。

 法月の指先が、黒い手記の表紙に触れる。ざらりとした紙の質感が、死者の肌のように冷たく伝わってきた。全員の視線が、彼の手元一点に突き刺さっている。その重圧に耐えかねるように、法月はゆっくりと、最初のページを開いた。

 そこに記されていたのは、あまりにも整然とした、乱歩の細い筆跡だった。

「私は、自分の死を予見していた」

 法月の声が、震えながら広間に響く。それは、彼自身の意志というよりは、手記に宿った死者の執念に動かされているかのようだった。

「だから、この手記を残す。誰かがこれを読む時、私はすでにこの世界の『観測者』ではなくなっているだろう」

 法月は息を呑み、次の行を追った。

「私には、異能がない。この探偵塾において、私だけが『普通』という名の欠陥品だった。周囲の者たちは皆、特別なレンズを通して世界を視、音を聴き、真実を透視している。だが、私だけが、何の杖も持たず、ただの裸眼でこの世界の闇を見つめていた。その孤独は、いかなる言語をもってしても記述できない」

 読み上げる法月の声に、塾生たちの沈黙が重なる。

「私は、死ぬことに決めた。だが、ただ消えるのではない。私は、一つの『事件』として、この世からログアウトしたかった。探偵塾の塾生たちに、私という人間がかつて存在した証拠として、解くことのできない最後の謎を残すために。……しかし、一つだけ誤算があった。いや、誤算ではない。私が心のどこかで切望していたことだ」

 法月の手が、激しく震えた。ページの端が、彼の動揺を映すように小さく爆ぜる。

「私を止めに来る者がいることを、私は確信していた」

 次の行に、太い文字でその名が記されていた。

「法月。君のことだ」

 法月は、そこで一度、読むのを止めた。

 自分の名前。乱歩の筆跡で刻まれた自分の名が、鋭い刃となって胸を抉る。

 神津が痛ましそうに目を伏せ、金田一が「乱歩、最初から……」と嗚咽に近い声を漏らす。だが、塾長・江戸川は微動だにせず、ただ法月を見据えていた。

「……続けなさい、法月。最後まで」

 法月は、自分の震える声を叱咤し、再び手記に視線を落とした。

「君は、私と同じ目をしていた。異能を持ちながら、それを信じることができず、自分が何者であるかを見失い、ただ世界を彷徨っている目だ。私は君を見た時、この特権階級の温室の中で、初めて自分と同類の『欠落』を見つけた気がした。だから、私は君に話しかけた。あの廊下の窓辺で」

 記憶が、音を立てて蘇る。

 昨夜の冷気。窓の外の闇。

『君も、そうだろう?』

 乱歩のあの微笑みが、脳裏で鮮明に再生される。

「私が見ていたのは、何も見えない闇ではなかった。私が見ていたのは、君だ。君の中にある、私と同じ孤独の闇を、私は窓越しに観測していたのだ。法月。君なら、私の計画を完成させてくれると、私は確信していた」

 法月の内面で、何かが音を立てて崩壊し始める。

 乱歩は、俺を知っていた。

 俺が、自分の異能に怯え、真実から目を逸らして生きていることを、あの虚ろな瞳で見抜いていた。

 ——乱歩は、俺を選んだんだ。

 記憶の霧が、少しずつ形を成し始める。廊下を歩く足音。ドアノブの冷たさ。

 だが、肝心な一瞬。ナイフを握り合った瞬間の記憶だけが、黒い欠落となって口を開けている。

 塾生たちは、もはや法月を「犯人」として見てはいなかった。

 彼らは、乱歩という怪物が仕掛けた巨大な罠の中に、法月が囚われていく様を、ただ目撃していた。

 法月は、次のページをめくった。

 そこには、昨夜のすべてを知る者が、冷徹に綴った一文があった。

「私は、君が来ることを知っていた」

「そして、君が私を救おうとして、その善意によって私を絶命させることも」

「だから——」

 ページの終わりで、文字が途切れている。

 法月は、その先の言葉を読むのが恐ろしかった。

 そこには、自分を決定的に壊してしまう、真実の欠片が隠されているに違いないからだ。


   *


 法月の震える声が、手記の続きを紡ぎ出す。ページをめくる音が、静まり返った広間に冷たく響いた。

「だから、私は君を待っていた。君が私の部屋のドアを開けた時、私は心の底から嬉しかったのだ。ようやく、この世界で私を正しく『観測』してくれる者が、私の前に現れたのだと。私は自分で自分を終わらせることもできた。だが、それではただの消失に過ぎず、『事件』にはならない。私は、誰かに殺されたかった。それも憎しみによる殺意ではなく、救いたいという切実な善意によって。なぜなら、それこそが、異能なき私という人間の本質を証明する唯一の手段だからだ」

 法月の息が、不規則に乱れる。

「私は、誰にも本当の意味では愛されなかった。異能を持たない私を、誰も対等には見てくれなかった。だが、法月。君だけは違った。君は私を見つけ、私の孤独を認め、それを止めようと駆け寄ってくれた。君が私のナイフを奪おうとした時、私は全力で抵抗した。なぜなら、君の手で死にたかったからだ。君の善意を、私の死という消えない傷跡として、この世界に永遠に刻みつけたかったのだ」

 法月は読むのを止め、激しく噎せ返った。

 ——乱歩は、俺に殺されることを望んでいた。

 ——俺の善意を、彼は死の舞台装置として利用した。

 その理解と同時に、脳内の黒い欠落が凄まじい勢いで色を取り戻していく。霧が晴れ、昨夜の真実が、鋭利なガラスの破片となって法月の意識を突き刺した。

 足音を聞いた。それは乱歩の部屋へと向かう、死の予感を孕んだ重い足音。

 俺は、無我夢中でベッドを蹴り、廊下を走った。

 ドアを開けた。そこには、月光を背負ってベッドに座る乱歩がいた。

 手には、あの銀色のペーパーナイフ。

 刃先が、ゆっくりと彼の胸に近づいていくのが見えた。

「やめろ!」

 俺は叫び、彼の細い手首を掴んだ。必死にナイフを遠ざけようとした。

 だが、もみ合う中で、乱歩はふっと微笑んだのだ。

 あの、すべてを許すような、悲しげな微笑み。

『ありがとう、法月』

 囁きと同時に、乱歩は自分から、俺の腕の中へと倒れ込んできた。

 抵抗を止めた彼の身体の重みが、ナイフを彼の心臓へと押し込んだ。

 法月は現実に戻り、自分の両手を見つめた。

 ——俺が殺したんじゃない。乱歩が、俺の手を借りて死んだんだ。

 

 法月は溢れそうになる涙を堪え、最後の一ページを開いた。そこには、乱歩の最も深い場所にある「声」が記されていた。

「法月。君がこれを読んでいるなら、私の計画は成功したことになる。君は今、『殺人者』としての耐え難い重荷を背負っているだろう。だが、聞いてほしい。君は、殺人者ではない。君はただ、壊れそうだった私を救おうとした。その善意は、私が人生という長い航海で受け取った、唯一の愛だったのだ。私を許す必要はない。私は君を、私の死の共犯者に仕立て上げた。だが、君自身を許してほしい。君の手は、殺すための手ではなかった。私を地獄から救い出すための手だったのだ」

 

 法月の頬を、熱い雫が伝った。

「観測されなかった星も、たぶん、どこかで光っている。君が私を観測してくれたから、私は——ようやく、光ることができた。さようなら。私の、唯一の理解者よ」

 法月は、ゆっくりと手記を閉じた。

 声は出なかった。ただ、胸が裂けるような感覚に耐えながら、乱歩の血と想いが染み込んだその黒い冊子を、折れそうなほど強く抱きしめた。

 広間を照らしていた濁った夕陽はすでに沈み、室内には静かな夜が訪れようとしていた。塾生たちは誰一人として言葉を発さず、ただ一人の観測者として、法月の慟哭を見守っていた。

 乱歩の最後の言葉が、法月の中でいつまでも反響を続けている。

 ——観測されなかった星も、たぶん、どこかで光っている。

 

 法月は、夜の闇に沈みゆく窓の外を見上げた。

 そこにはまだ星は見えない。だが、彼は知っていた。

 かつて、誰にも見つけられずに震えていた小さな光が、今、自分という唯一の観測者の記憶の中で、何よりも強く輝き始めたことを。


   *


 法月が手記を閉じ、その重みを胸に抱きしめた後、大広間には深い余韻を孕んだ沈黙が降りていた。誰もが、目の前の青年が背負わされた運命のあまりの切なさに、かけるべき言葉を失っていた。

 上座にいた江戸川が、重厚な椅子を引いて立ち上がった。その動作ひとつひとつが、物語の終わりを告げる儀式のように、広間の空気を律していく。

「法月。君は、乱歩を殺した」

 塾長の声は、冷徹なまでの事実を突きつける一方で、深い慈悲に濡れていた。

「だが同時に、君は乱歩を救った。この二つは、決して矛盾しない。乱歩は、誰にも観測されることなく、闇の中で独り消えようとしていた。君がそれを止めたのだ。結果として彼は命を落とした。だが、彼の存在は——君という観測者の中に、永遠に刻まれた」

 江戸川はゆっくりと歩み寄り、法月の正面に立った。

「これは殺人ではない。論理的に解明されるべき事件でもない。これは、一人の孤独な人間が、もう一人の人間に、自分の存在のすべてを託した、悲しい儀式だったのだよ」

 塾長は、広間にいる塾生たちを見渡した。

「よって、私はこの件を『事件』として扱わない。警察には、江戸川乱歩は自ら命を絶ったと報告する。諸君も、この場で見聞きしたことは、墓場まで持っていくように」

 塾長の裁定が下った。それは、法月の犯した過失への赦しであり、同時に乱歩の意志を尊重する最後の選択でもあった。

 沈黙を破り、明智が法月に歩み寄った。彼は法月の震える肩に、そっと手を置いた。

「君の『透視』では、乱歩の真実を見抜けなかった。だが、君の目は——異能など介さずとも、乱歩その人を見ていた。それだけで、十分だ。探偵として、それ以上の資質はない」

「法月さん……」

 金田一が、ボサボサの頭を乱暴に掻き回しながら続けた。

「俺、何て言っていいか分かんねえけど。乱歩のやつ、最後に笑ってたんだろ? なら、それでいいんじゃねえかな。あいつが選んだのが、あんたで良かったんだよ」

 神津は無言で短く頷いた。その瞳には、もう憐れみの色はなく、一人の探偵に対する敬意だけがあった。

 御手洗が、どこか遠くの音を聴くように目を閉じ、囁く。

「あの心拍は、恐怖だけじゃなかった。愛だった。君の心臓は、乱歩を愛していた。音は、嘘をつかないよ」

 火村は腕を組んだまま、鋭い眼差しを法月に向けた。

「……法月。お前は、自分を許せ。許さないなら、お前は乱歩の遺志を踏み躙ることになる。あいつが命を賭けて遺したものを、台無しにするな」

 二階堂が法月の前に立ち、深い悔恨を込めて頭を下げた。

「……私も、何かを感じていました。でも、動けなかった。あなたは、動いた。それだけで、あなたは、私よりもずっと強い人です……」

 窓際に立ったままの榎木津は、振り返ることなく夕闇を見つめていた。

「つまらん事件だったな。……いや、事件ですらなかったか。帰るぞ。霧はもう、飽き飽きだ」

 翌朝。

 洋館を包んでいた深い霧は、嘘のように晴れ渡っていた。

 朝日が森の木々を鮮やかに照らし、昨日まであんなに重苦しかった建物の輪郭が、今はただの古びた洋館として朝日の中に佇んでいる。空はどこまでも青く、森の奥までを見通せるほどに澄んでいた。

 塾生たちがそれぞれの帰路につく中、法月は最後に一人、玄関の前に残っていた。

 彼は門へと歩き出す前に、一度だけ足を止め、振り返った。

 見上げた先。乱歩がいた部屋の窓が、朝日に反射して眩しく輝いている。

 ——乱歩。俺は、お前を忘れない。

 ——お前がこの場所で、確かに光っていたことを、俺だけが知っている。

 ——それを、一生、背負って生きる。

 法月の胸の重みは、消えることはない。だが、それはもはや彼を押し潰すための鉛ではなく、彼を現実へと繋ぎ止めるための、命の重みだった。

「法月。君は、これからどうする」

 背後に立っていた江戸川が、静かに問いかけた。

「……分かりません。でも、一つだけ決めたことがあります」

 法月は、朝日の差す方角を真っ直ぐに見据えた。

「俺は、観測し続けます。誰にも見えないものを。誰にも聞こえない声を。乱歩が俺にそうしてくれたように、世界に埋もれた小さな光を、見つけ出したい」

 塾長は、その言葉を聞き、微かに、誇らしげに口角を上げた。

「ならば、君は——探偵だ。法月探偵、また会おう」

 法月は、霧の晴れた朝の光の中へ、確かな一歩を踏み出した。

 背負った重さは消えない。だが、その重さこそが、彼を探偵たらしめる証だった。

 彼が世界を見つめる限り、観測されなかった星は、もう二度と、闇に消えることはない。

 その光は今、彼という唯一の観測者の瞳の中で、永遠に輝き続けているのだから。


   【了】

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乱歩探偵塾の最終講義 不思議乃九 @chill_mana

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