第四章:超可視化

 夕刻、十七時。

 大広間には、朝よりも濃密で、逃げ場のない沈黙が満ちていた。

 窓の外、厚く垂れ込めていた霧が、落日の残光を受けて僅かに透け始めている。血のように赤く、濁った夕陽が、広間の床に長く歪な影を投げかけていた。

 塾生たちは、朝と同じ座席についていた。だが、その表情は一変している。誰もが何らかの手がかりを掴み、同時に、その手がかりが指し示す「答え」の重さに、声を失っていた。

 法月は、膝の上で両手を固く握りしめていた。爪が掌に食い込み、微かな痛みだけが、自分という存在を繋ぎ止めていた。視線は、ただテーブルの一点に縫い付けられている。

「各自、調査の結果を報告せよ」

 上座に座る江戸川の声が、冷たく響いた。

 まず、明智が立ち上がった。その所作には、自身の推理が砕かれた後の、静かな覚悟が宿っていた。

「隠し通路の可能性は完全に否定された。設計図と改築記録をすべて照合したが、この館に未知の空間は存在しない。外部犯説は成立しない。犯人は、この館の中にいる。……我々の、誰かだ」

「それと、補足だ」

 火村が明智の言葉を引き継ぐ。

「乱歩の評価書を発見した。奴には異能がなかった。この探偵塾において、唯一、杖を持たずに歩いていた男だ。……誰よりも孤独に、な」

 広間に微かな動揺が走る。「え、マジで?」「道理でな」金田一と榎木津が、それぞれの感慨を漏らす。二階堂は、幽霊のように俯いたままピクリとも動かない。

 続いて、神津が淡々と、だが決定的な情報を提示した。

「凶器のペーパーナイフを解析した結果、乱歩自身が数時間にわたってそれを握り続けていた履歴が出たわ。そして、その上に別の人間の痕跡が、短時間だけ重なっている。……乱歩が自ら死のうとしていたところへ、誰かが介入した。それが物理的な事実よ」

「僕の耳には、二人分の心拍が聴こえたよ」

 御手洗が、目を閉じたまま囁くように続けた。

「一つは、自ら死に向かう穏やかな鼓動。もう一つは、恐怖で引き裂かれそうな、乱れた鼓動。乱歩の心臓が止まった後、もう一つの心拍は、逃げるように部屋を出ていった」

「つまり……犯人は乱歩を殺そうとしたのではなく、止めようとした?」

 明智の問いに、神津は冷酷に頷いた。

「その過程で、結果的に殺してしまった。それが現時点での、最も論理的な仮説だわ」

 最後に、金田一がボサボサの頭を掻きながら、声を落として言った。

「俺と榎木津さんは遺品を調べた。……乱歩の机の引き出しに、一冊の手記があったんだ。でも、塾長が封印した。『まだ読む時ではない』ってさ」

 全員の視線が江戸川に集まる。

「その通りだ。あの手記は、最後に読むべきものだ」

 江戸川は静かに立ち上がり、一同を射抜くように見渡した。

「整理しよう」

 塾長の声が、思考を強制的に統合していく。

「外部犯説は否定された。犯人はこの中にいる。乱歩は自ら死を望み、誰かがそれを阻止しようとした。そして、その『善意』が、最悪の結果を招いた。……つまり、これは殺人ではない。事故だ。あるいは、救おうとした者が招いた悲劇だ」

「事故……? でも塾長、密室はどう説明するんですか」

 金田一が食い下がるが、明智がそれを遮った。

「犯人は、自分が殺したと思い込んだ……。だから、その罪を隠すためにではなく、自分自身を世界から切り離すために、密室を完成させたのか?」

「罪を隠そうとしたのではなく、自分を閉じ込めようとした……」

 火村の言葉が、広間の空気に鋭い楔を打ち込む。

 法月は、その言葉を聴いた瞬間、背筋に凍りつくような悪寒を感じた。

 自分が誰かを閉じ込めたのではない。自分という存在を、この恐怖の中に閉じ込めるための、密室。

「諸君の推理は、真相の輪郭を捉えている。だが、まだ核心には届いていない」

 江戸川が、ゆっくりと目を閉じた。

 塾長の周囲に、目に見えないほどの高密度の知性が集束していく。

「私の異能『全視』は、一度視た現場を、その原子の配列に至るまで完全に記憶する。そして、諸君が提示したすべての断片を統合し、真実を再構築する」

 江戸川が再び目を開いた時、その瞳は、もはや人間のそれではなく、全知のレンズへと変貌していた。

「諸君。これから見せるのは、昨夜この館で起きたことの——完全な再現だ。誰も知らない、乱歩の最期の真実を、可視化しよう」

 塾長が右手を掲げると、広間の景色が揺らぎ始めた。

 夕陽が消え、壁が溶け、床が闇へと沈んでいく。

 法月は、逃げることのできない最前列で、その「真実」という名の怪物と対峙しようとしていた。


   *


 空間が、軋みを上げて歪み始めた。

 大広間の壁が溶け、夕陽が闇に塗り潰され、床が沈む。塾生たちが立っている場所は、もはや広間ではなかった。彼らはいつの間にか、昨夜の「乱歩の部屋」の中に立っていた。半透明な、だが剥き出しの真実を伴った、記憶の再現体。

 塾長・江戸川の声が、天井のない闇のどこからか、厳かなナレーションのように響き渡る。

「深夜二時。乱歩は自室で、一人、目を覚ましていた」

 目の前のベッドに、乱歩が座っていた。

 その手には、銀色のペーパーナイフが握られている。彼は窓の外、何も見えない深い闇を、穏やかな眼差しで見つめていた。それは死を恐れる者の顔ではなく、ようやく長い旅路を終えようとする者の、静謐な覚悟に満ちた顔だった。

「乱歩は、この夜、自ら命を絶つつもりだった。異能を持たぬ孤独。誰とも同じ世界を見ることができない絶望。彼は、その隔絶に終止符を打とうとしていたのだ」

 突如、部屋のドアが開いた。

 一人の影が、滑り込むように入ってくる。逆光と塾長の異能による意図的な秘匿により、その人物の顔は深い闇に沈んで見えない。だが、その肩が、指先が、激しく震えていることだけは、そのシルエットから痛いほど伝わってきた。

 影は、ベッドの上の乱歩がナイフを握っているのを見て、絶句したように凍りついた。

「深夜、一人の塾生が、何かに導かれるように乱歩の部屋を訪れた。理由は、まだ問わない。だが、その塾生は——乱歩が、今まさに自身の胸を貫こうとする瞬間を、目撃してしまったのだ」

 再現の中の影が、叫び声を上げた。音は聞こえない。だが、空気が激しく震えた。

 影は乱歩に駆け寄り、その細い手首を掴んだ。

「やめろ」と、喉を掻き切るような無音の絶叫。

 乱歩は驚いたように顔を上げた。影は狂ったように、乱歩の手からナイフを奪おうとする。もみ合い。シーツが乱れ、二人の影が壁に巨大な怪物のように映し出される。

「その塾生は、乱歩を止めようとした。それは純粋な、善意だった。救いたいという衝動に突き動かされた、ひたむきな祈りだったと言ってもいい」

 だが、もみ合う二人の中心で、銀の刃が冷酷に閃いた。

 鈍い感触。乱歩の身体が、ゆっくりとベッドの上へ崩れ落ちる。

「しかし、その善意が——最悪の結果を招いた。止めようとした手が、逆にナイフの切っ先を、乱歩の心臓へと導いてしまったのだ」

 乱歩は、自分の死を望んでいた。だが、死の瞬間、そのナイフを押し込んでいたのは——乱歩自身の手ではなかった。

 乱歩の心臓が止まる。

 影は、乱歩の穏やかな死に顔を見下ろしたまま、石像のように立ち尽くしていた。

 やがて影は、震える手で部屋を見回した。

 窓のクレセント錠を閉め、煙突の隙間を確認する。そして、部屋を出る間際。

 影はドアを閉める直前、ドアの隙間から細い工具を差し込み、内側の閂を、静かに、確実に落とした。

「その塾生は、自分が殺したと思い込んだ。そして、その罪を——いや、自分自身を世界から切り離すために、この完璧な密室を作り上げたのだ。これは罪を隠すための密室ではない。自分という加害者を、永遠に閉じ込めておくための、牢獄だったのだ」

 視界が、急激に色彩を取り戻した。

 空間が元に戻り、大広間に濁った夕陽が帰還する。塾生たちは、今しがた見た「真実」の残像を網膜に焼き付けたまま、金縛りにあったように動けなかった。

「これが、昨夜起きたことのすべてだ」

 江戸川の声が、現実の重みを伴って広間に落ちる。

「乱歩を殺したのは、殺意ではない。善意だ。そして、その塾生は——今も、この場にいる」

 塾長は、静かに、だが逃げ場を許さない眼差しで全員を見渡した。

「だが、私はまだ、その塾生の名を呼ばない。なぜなら——」

 江戸川が、一冊の手記を取り出した。乱歩が残した、あの黒い表紙の手記。

「乱歩自身が、この結末を予見し、すべてを記していたからだ。この手記を読めば、真実の最後のピースが埋まる。……君が、なぜあの部屋へ行ったのか、その理由までもがな」

 法月は、自分の心臓が、耳元で鐘のように激しく鳴り響くのを感じた。

 胸を締め付ける悪寒。

 江戸川の手にあるあの手記。あの中に、何が書かれているのか。

 あの時、乱歩は、何を望んで俺を呼んだのか。

 ——俺のことが、書かれているのか。

 法月は、自分の震える手を、テーブルの下で血が滲むほど強く握りしめた。


   *


 塾長の異能が見せた、無音の惨劇。

 その残像が大広間の空気に溶けて消えた後、残されたのは、石化したような塾生たちの動揺だった。

「善意で……殺した? そんなのって……」

 金田一が、壊れた玩具のように弱々しく呟いた。その声は、広間の高すぎる天井に虚しく吸い込まれていく。

 明智はただ沈黙し、厳しい表情で自身の組んだ指を見つめていた。神津の瞳には、冷徹な解析者の面影はなく、隠しきれない痛ましさが滲んでいる。御手洗は再び目を閉じ、「あの心臓の音が……」と、聞き取れないほどの細い声で、その残響を追っていた。

 榎木津は「ふん」と鼻を鳴らし、興味を失ったかのように窓の外へ視線を投げた。一方で二階堂は、顔を真っ白に染め、今にも倒れそうなほどに身を震わせている。

「塾長。あなたは『その塾生』が誰か、既に分かっているはずだ」

 腕を組んだまま、火村が静かに切り出した。

「なぜ、名前を呼ばない。これ以上の沈黙は、全員にとって毒だ」

「名前を呼ぶ必要がないからだ、火村」

 江戸川の声は、慈悲と断罪が入り混じったような響きを帯びていた。

「なぜなら——その塾生自身が、今、この場で真実と向き合おうとしている。他者の言葉による告発など、もはや不要なのだよ」

 塾長の言葉が、冷たい風となって広間を駆け抜けた。

 その瞬間、場の空気が物理的な重みを伴って変質した。

 視線。

 言葉よりも鋭く、論理よりも重い視線が、一点に集まり始める。

 明智が、静かに顔を上げた。その眼差しは法月を捉えたが、そこには軽蔑も憎しみもなかった。金田一は信じられないものを見るように「え……」と唇を震わせ、神津は深い憐憫を湛えた瞳で彼を見つめた。御手洗は、何かに気づいたような顔で法月を凝視し、火村の鋭い視線には、怒りとは別の、複雑な感情の色彩が混じっていた。

 法月は、それらすべての視線を全身で浴びていた。

 身体の芯が、凍りついたように動かない。肺が押し潰され、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。

 ——俺だ。

 脳内で、誰かの声が響く。

 ——俺が、乱歩を殺した。止めようとして、この手で、彼を。

 認識が、現実を侵食していく。だが、その中枢にあるはずの記憶は、依然として霧の中に隠れたままだ。

 ——でも、覚えていない。あの夜、俺は本当に部屋を出たのか? なぜ、肝心なところが思い出せないんだ。

「この手記には、乱歩がすべてを記している」

 江戸川が、黒い表紙の手記を高く掲げた。

「彼は、自らの死を完璧に予見していた。そして、誰が自分を止めに来るかも——彼は知っていたのだ」

「知ってた……?」

 金田一の絶句を無視し、塾長は続けた。

「乱歩は、自分を止めに来る者を待っていたのかもしれない。あるいは——その者に、自分を殺させることを、最初から望んでいたのかもしれない」

 衝撃が、広間を揺らした。

 救おうとした善意さえも、乱歩の書いた筋書きの一部だったというのか。

「この手記を読めば、すべてが明らかになる。だが、それは——『その塾生』自身の手で、読まれるべきだ」

 江戸川が、ゆっくりと歩み寄る。

 法月の目の前で、塾長は立ち止まった。

「法月。君が、読みなさい」

 差し出された、黒い手記。

 法月は、自分の手が死人のように冷たくなっているのを感じた。

 震える指先を伸ばし、その重みを受け取る。それは乱歩の命の重さであり、彼に託された、あまりにも残酷な遺言だった。

 開けば、すべてが終わる。

 あるいは——すべてが、始まる。

 法月は、血の気の引いた指で、最初のページを開いた。

 そこに記された文字が、彼の網膜に突き刺さる。

 ついに、この物語は最後にして唯一の、救いのない深淵へと踏み込んでいった。

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