第三章:深層へ
推理会が中断されてから三十分。
乱歩の部屋へと続く廊下は、死の静寂を保ったままだった。破壊されたドアの残骸が、侵入者の暴力的な痕跡として床に転がっている。半開きになったドアの隙間からは、主を失った部屋の、冷え切った空気だけが漏れ出していた。
神津は、ドアの前にしゃがみ込み、手袋をはめた指先で周囲を検分していた。その動作には一切の無駄がなく、隣に立つ御手洗の存在さえ意識していないかのようだった。
対照的に、御手洗は壁に背を預け、まどろむように目を閉じている。
「部屋の中には入れないけれど、廊下だけでも十分なノイズが拾えるわ」
神津が事務的な声で言った。
「ああ。この館はよく響くからね。閉ざされた空間ほど、音は外へ逃げ場を探そうとするものだよ」
御手洗は、どこか遠くを見つめるような声で返した。
神津は、塾長から一時的に預かった証拠品——凶器のペーパーナイフを取り出した。銀色の刃は、乱歩の血を吸って鈍く光っている。
「私の『解析』は、物質の履歴を読み取る。このナイフが、誰に、どのくらいの時間、触れられていたか。その記憶を呼び覚まさせてもらうわ」
神津がナイフを両手で包み込む。彼女の瞳の奥で、無数の幾何学的なデータが高速で演算され始めた。
解析の結果は、即座に彼女の脳内へと構築された。
「……奇妙ね」
神津が眉を動かす。
「乱歩自身が、このナイフを極めて長時間、自ら握り続けていた形跡があるわ。少なくとも昨夜の夕食後から、死の直前まで。数時間単位よ」
「それ、は……」
「そう。彼は最初から、このナイフを手放さなかった。そして、別の指紋も検出された。短時間だけ、数秒程度触れている形跡。その痕跡は、乱歩が残した履歴の上に、新しく上書きされている」
神津はナイフをケースに戻し、御手洗を見上げた。
「つまり、乱歩が握っていたナイフに、後から誰かが触れたということ。金田一の『残像』と合わせれば、仮説は一つに絞られる。乱歩は自ら死のうとした。そして、別の誰かがそれを止めようとしてナイフに触れた。……その過程で、乱歩は死に至った」
「止めようとして、殺してしまった、というのかい?」
「可能性の一つよ。まだ断定はできない。……次はあなたの番よ、御手洗」
御手洗は深く息を吐き、壁に後頭部を預けた。
彼の意識が、館の構造そのものと同期していく。異能『共鳴』。
「この館には、まだ残響が沈んでいる。昨夜、この部屋の空気の震えが、何を記録していたか……」
御手洗の耳に、時間を遡った音が流れ込んでくる。
それは言葉でも、物音でもなかった。
「心拍だ。犯行時刻、この部屋には二人分の心拍が鳴っていた」
御手洗の声が、微かに震える。
「一つは、ゆっくりと、穏やかに弱まっていく音。死の深淵へ向かって、自ら身を投じるような規則的な鼓動だ。……そしてもう一つは、狂ったように乱れている。恐怖か、焦燥か。破裂しそうなほどに速い拍動」
「叫び声や、争う音は?」
「ないよ。一切の言葉は交わされていない。ただ、二つの心臓が、闇の中で互いの存在を確かめるように鳴り続けていただけだ。やがて、弱まっていた心臓が止まる。すると、もう一つの心拍は、弾かれたように部屋を飛び出した。廊下を、この部屋から遠ざかる方向へ……逃げていったんだ」
御手洗が目を開けた。その瞳には、深い哀しみの色が混じっていた。
「その心拍の主が、犯人……乱歩を殺した人間ね」
神津の問いに、御手洗は首を振った。
「『殺した』という言葉は、正確じゃないかもしれない。あの心臓の音は、殺意で鳴っていたんじゃないんだ。あれは……」
御手洗は、言葉を慎重に選ぶように一度視線を落とした。
「あれは、悲鳴だった。喉を切り裂くような絶叫ではなく、誰にも届かない場所で、自分の内側を打ち壊すような、声にならない悲鳴。あれほど哀しい音を、僕は今まで一度も聴いたことがない」
二人は、無言で顔を見合わせた。
突き止めようとしていた「犯人」という言葉が、急に鉛のような重みを持って二人を押し潰そうとしていた。
廊下を吹き抜ける風が、乱歩の部屋から「哀しみ」の残響を運び去っていく。
だが、その心拍の主が誰なのか、その「悲鳴」が誰のものなのか、二人はまだ、答えに辿り着けずにいた。
*
図書室は、沈黙の墓所のようだった。
天井まで届く書架には、革装の古い書物が隙間なく並び、幾星霜もの埃が薄く積もっている。窓から差し込む光は霧に遮られ、白く濁った静止画のように室内を照らしていた。舞い上がる塵のひとつひとつが、時間の経過を視覚化している。
明智は、長机の上に広げた数枚の巨大な図面と格闘していた。一方の火村は、背表紙の列を指先でなぞりながら、時折、古い資料の束を抜き出しては目を通している。
二人の間に会話はない。ただ、紙が擦れる音と、微かな衣擦れの音だけが、広大な沈黙の隙間を埋めていた。
「隠し通路はない」
明智が、静かに断言した。彼は図面の一点を見つめたまま、動かない。
「これは八十年前のオリジナル設計図だ。そしてこっちは二十年前の改築記録。照合したが、現在の構造と矛盾する箇所は一箇所も存在しない。改築の際に行われたのは、屋根の補修と配管の更新のみだ。壁や床の裏側に、物理的な空間が隠されている可能性はゼロだと言っていい」
火村が、本棚から顔を上げた。
「つまり、お前の外部犯説は——」
「否定された。私の推理は、根底から間違っていた」
明智は迷いなく答えた。彼は重い図面をゆっくりと閉じ、その上に手を置いた。
「犯人は、この館の中にいる。我々塾生か、あるいは塾長本人か。いずれにせよ、密室は物理的なトリックによって構築されたものだ。外部の何者かが介入した余地はない」
「潔いな。だが、それは同時にお前の異能の限界を認めることにもなるぞ」
火村が歩み寄り、机の端に腰を下ろした。
「ああ。『嘘をついていない』ことは『真実を知っている』ことと同義ではない。私の『透視』は、自覚のある嘘を暴くことはできても、本人が真実だと思い込んでいる錯誤や、自覚のない罪までは見抜けない。私の異能という杖も、この密室の前では折れたということだ」
明智の声には、挫折よりもむしろ、次なる論理を構築しようとする決意が滲んでいた。
二人が図面を片付けようとした時、火村の指が、書架の奥に押し込まれていた薄い茶封筒に触れた。
「……これは?」
封筒の表には、塾長・江戸川の筆跡で『塾生評価書』と記されていた。
火村が中身を取り出し、数枚の書類を繰る。その中の一枚、乱歩の名前が記されたページで、彼の指が止まった。
「探偵名、乱歩。本名、黒塗りか。……異能の欄を見てみろ」
明智が覗き込む。
『異能:なし』
書類のその項目には、簡潔すぎる一言が記されていた。
「備考。異能を持たない唯一の塾生。しかし、論理構築能力は塾生中随一。異能に頼らない純粋な推理力において、彼を超える者はいない」
火村が低い声で読み上げた。
「……乱歩には、異能がなかった? この探偵塾において、彼だけが持たざる者だったのか」
明智が驚きを隠さずに呟いた。
「だから塾長は彼を『誰よりも優秀』だと言ったのか。俺たちのような便利な杖を持たず、生身の脳髄ひとつで、俺たちと同じ、あるいはそれ以上の高みに立っていた。それが彼という探偵の正体だったわけだ」
「いや、違う。異能がないからこそ、彼は——」
明智が、不意に言葉を呑んだ。
彼は図書室の窓の外、霧に沈む森を見つめた。
「彼は、何だ?」
火村の問いに、明智はすぐには答えなかった。長い沈黙の後、絞り出すように言った。
「……孤独だったんだ。異能という特殊なレンズを通して世界を視る我々と、彼は一人だけ、同じ世界を見ることができなかった。我々という特権階級の中に放り込まれた、唯一の『普通』。その絶望が、どれほどのものだったか」
二人は、それ以上語ることをやめた。
乱歩という、かつて生きていた青年の輪郭が、埃っぽい空気の中で少しずつ、だが鮮明に浮かび上がってくる。
異能を持たぬ天才が、なぜ死ななければならなかったのか。
隠し通路のない、完璧な密室。
その理由が、乱歩の抱えていた「孤独」と無関係であるはずがないと、二人の探偵は確信していた。
しかし、それがどのようにして殺意に、あるいは死に繋がったのか。
その答えは、まだ図面の下にも、書物の間にも隠されたままだった。
*
法月は、一人で洋館の深部を彷徨っていた。
明智や金田一たちが、それぞれの論理と異能を武器に「外側」の真相を暴こうとしている間、彼はただ、自分の足音だけが響く薄暗い廊下を歩き続けていた。目的があるわけではない。ただ、立ち止まれば自分の内側にある何かが決壊してしまいそうな、根源的な不安に突き動かされていた。
窓の外、霧は少しずつ薄れ始めている。だが、その光は館の重厚な壁に遮られ、法月の足元までは届かない。彼は何度か立ち止まり、窓枠に指を這わせた。木材の冷たさが、現実を辛うじて繋ぎ止めている。
誰とも話したくなかった。誰の視界にも入りたくなかった。神津や御手洗の姿が遠くに見えるたび、彼は音もなく角を曲がり、影の中に身を隠した。
気づけば、昨夜乱歩と遭遇したあの窓辺に辿り着いていた。
何も見えない闇を、乱歩はここで見つめていた。法月が目を閉じると、昨夜の光景が、網膜の裏側で鮮明に再生される。
「見ているんだ。何も見えないけど」
乱歩の声。低く、どこか浮世離れした響き。
「君も、そうだろう?」
あの時、乱歩が法月の肩を叩いた手の感触が、まだ残っているような気がした。悲しそうで、すべてを悟り、すべてを諦めたような、あの僅かな微笑み。
——あの時、乱歩は何を言おうとしていたんだ。
——「君も」とは、何が「同じ」だというんだ。
思考を巡らせるほど、胸の奥が締め付けられるように痛む。法月の指先が、激しく震え始めた。彼は崩れ落ちるように壁に手をつき、荒い呼吸を整えようとした。
その時、断片的な映像が脳裏をよぎった。
深夜。自室のベッド。自分は目を開けていた。廊下から聞こえる足音に怯えていたはずだ。
……本当に、それだけだったか?
自分は、本当に朝までドアを開けなかったのか。
脳内の霧が、一瞬だけ晴れようとして、さらに深く濃く立ち込める。足音を聞いた後、自分は確かに起き上がったはずだ。ドアノブに手をかけ、冷たい金属の感触を——。
——俺は、本当にベッドの上にいたのか?
——あの足音を聞いた後、俺は何をしていた?
記憶が泥のように濁り、形を成さない。思い出そうとするたびに、脳がそれを拒絶するように鋭い痛みを走らせる。
「……法月さん」
背後からかけられた声に、法月は心臓が止まるかと思うほどびくりとして振り返った。
そこには、二階堂が立っていた。
体調不良で休んでいたはずの彼女は、死人のように顔色が悪い。壁を伝うようにして歩く姿は、法月の抱える不安をそのまま形にした鏡のようだった。
「二階堂さん。体調は……」
「少し、休んでいました。……あなたは? 調査に参加していないのですか」
「俺は……その、調査を、しようと思って」
法月の言葉は、自分でも驚くほど空虚だった。
二階堂は何も言わず、ただ法月の顔を、そして視線を落として彼の手元を見つめた。
長い、重苦しい沈黙。
「……手、震えていますね」
二階堂の声は、憐れみのようでもあり、鋭い告発のようでもあった。
法月は慌てて自分の手を握りしめた。だが、その震えは握りこぶしの中でなおも激しさを増していた。
「冷えたんだと思う。この館は、霧のせいで湿っぽいから」
「……そうですか」
二階堂は、何かを言いかけて、唇を噛んだ。彼女の瞳には、法月には読み取れない複雑な色が去来していた。
「……お気をつけて、法月さん。この館では、視えないものにほど、気をつけなければなりません」
彼女はそれだけを言い残すと、幽霊のように廊下の奥へと去っていった。
法月は、彼女の背中を、感覚の失せかけた指先で見送った。
——彼女は、何かを知っているのか。
——それとも、俺の中にある「何か」を、既に見抜いているのか。
法月は再び、自分の震える手を凝視した。
震えは止まらない。
——俺は、何をしたんだ。
その問いに答える声は、どこからも聞こえてこない。ただ、館の奥から吹き抜ける隙間風が、乱歩の悲鳴のような音を立てて通り過ぎていった。
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