第二章:推理、開幕

 大広間の空気は、氷点下まで冷え切っていた。

 中央に鎮座する長テーブル。重厚なオーク材の天板が、煤けたシャンデリアの光を鈍く跳ね返している。塾生たちは、左右に分かれて向かい合っていた。

 左側には、上座から明智、神津、榎木津、火村。

 右側には、金田一、御手洗、二階堂、法月。

 上座の端には、塾長・江戸川が座している。

 窓の外は相変わらずの灰色だ。霧は晴れるどころか、さらに密度を増し、館を外界から完全に切り離していた。誰も雑談をしない。衣服が擦れる音や、誰かの微かな咳払いさえ、巨大な鐘の音のように響く静けさだった。

 江戸川が、ゆっくりと腰を上げた。その動作一つで、全員の視線が一点に集中する。

「では、始めよう」

 塾長の声は、低いがよく通った。

「各自、順番に推理を披露してもらう。他の者は、その推理に対して反論する権利を有する。最も論理的に正しい推理を出した者が『解決者』となり、探偵位の昇格を認めよう」

 江戸川は一度言葉を切り、テーブルの端から端までを、値踏みするように見渡した。

「なお、一つ重要なルールを加える。異能で得た情報は、あくまで『手がかり』に過ぎない。それは法的な証拠にも、論理的な証明にもならない。推理はすべて、物理的・論理的証拠のみで組み立てること」

 その一言で、塾生たちの表情に微かな変化が生じた。

 明智はわずかに目を細め、金田一は「えー」と小さな不満を漏らした。一方で、御手洗は無反応だった。最初から、自分の能力を誰かに説明する気などないようだった。

「私から行こう」

 明智が静かに挙手し、起立した。その所作には、一切の迷いがない。

「犯人は、外部犯だ。我々が見た密室は、単なる錯覚に過ぎない」

 明智の断言に、金田一が眉を動かした。だが明智は構わずに続ける。

「論拠は明白だ。この洋館は築八十年を超えている。我々が把握している図面が、すべてであるという保証はどこにもない。隠し通路、二重壁、あるいは床下や天井裏。調査されていない空間は無数にあるはずだ。犯人は我々の預かり知らぬ経路を使って侵入し、乱歩を殺害。再び同じ経路を通って脱出した。密室とは、我々の『知識の限界』が作り出した思い込みだ」

「それは、単なる可能性の話だろう」

 神津が冷淡に口を挟んだが、明智は眼鏡の奥の瞳を光らせ、首を振った。

「私は、この場にいる全員を視た。私の異能『透視』に、嘘は通用しない。今この時、私の眼前にいる塾生全員の意識に、後ろ暗い『嘘』は存在しなかった。つまり、この中に犯人はいない。外部犯による犯行以外に、論理的な帰結はあり得ないのだ」

「待て。明智。その論理には致命的な穴があるぞ」

 火村が、腕を組んだまま身を乗り出した。その目は、獲物を狙う鷹のように鋭い。

「お前の異能は『嘘を見抜く』だ。だが、嘘をついていないことと、真実を語っていることは同じじゃない。明智、例えば——犯人が『自分が殺した』と正しく認識していなければ、お前の透視には何ひとつ引っかからないはずだ」

 火村の言葉に、広間の空気が一変した。

 明智は一瞬だけ沈黙した。視線が虚空を泳ぎ、すぐに火村へと戻る。

「……その可能性は、否定できない」

 絞り出すような声だった。自身の論理に絶対の信頼を置いていた男が、初めて見せた綻び。

 法月は、ただ黙っていた。

 手元の木目を見つめ、自分の呼吸音すら殺そうとしていた。火村の言葉が、胸の奥にある「何か」を激しく揺さぶる。自分が殺したと、認識していない犯人。そんなことが、あり得るのだろうか。

「明智。君の推理には決定的な証明が足りない」

 江戸川が裁定を下した。

「隠し通路の存在を、物理的に示せていない。君の異能が証明するのは『主観的な潔白』であって『客観的な事実』ではない。よって、この推理は保留とする」

 明智は何も言わず、静かに着席した。

 最初の刃が折れた。

 だが、推理会はまだ始まったばかりだった。


   *


 明智が静かに着席し、広間に再び冷たい沈黙が戻った。

 誰もが次の出方を伺う中、椅子を鳴らして立ち上がる者がいた。

「じゃあ、次は俺が。こういうカチッとした空気、苦手なんだよね」

 金田一だった。ボサボサの頭を乱暴に掻きむしり、よれよれの袴の裾を整えもせずに、彼はテーブルに身を乗り出した。口調は軽いが、その瞳の奥には、明智とは異なる種類の鋭い光が宿っている。

「俺さ、乱歩の死に顔を見た時、こう思ったんだ。これ、自殺なんじゃないかって」

 金田一の言葉に、神津が眉をぴくりと動かした。金田一は構わずに続ける。

「みんなも見たろ? あの顔。苦しんだ跡なんて一つもなかった。穏やかで、まるで長い一日の終わりに眠りについたみたいだった。凶器は心臓を一突き。即死だ。争った形跡も、抵抗した形跡もない。それに、密室なんて自分で作れるだろ。内側から閂を落とせばいいだけの話だ。乱歩は、自分の死を一つの『事件』として残したかったんじゃないかな。俺たち探偵塾の塾生に、最後の謎を出題するためにね」

「命を賭けた出題か。いかにも『乱歩』らしい狂気だな」

 火村が鼻で笑った。だが、金田一は首を振った。

「そう。俺も、さっきまではそう思ってたんだ。……でも、実際に『視て』みたら、少し事情が違った」

 金田一が、ゆっくりと目を閉じた。

 広間の空気が、一気に凝縮される。

「俺の『残像』は、死者の最期の視覚を拾う。乱歩が息絶える直前、その瞳に何が映っていたか——」

 金田一の意識が、死者の網膜に刻まれた光を呼び覚ます。

 視界は狭く、暗い。乱歩の瞳が見ていたのは、洋館の天井ではなく、自分に向かって伸びてくる「何か」だった。

「……おかしいな。自殺なら、自分の手が見えるはずだ。自分の胸にペーパーナイフを突き立てる、自分の右手が。でも、あの視界に映っていたのは——」

 金田一が目を見開く。その額には、じっとりと汗が浮いていた。

「誰かの手だった。顔は見えない。ただ、乱歩の胸に向かって、迷いながら伸びてくる白い手だ。乱歩のものじゃない。誰かが、あの部屋にいたんだ。乱歩の最期に」

「ほう。面白くなってきたな。密室の中に、もう一人の客がいたというわけか」

 榎木津が、愉悦を含んだ声を上げた。

「では、他殺ということになる。だが、密室の説明がつかないわ」

 神津が冷静に、しかし確実に、金田一の論理を袋小路へと追い込む。

「そうなんだ。明智さんの言う通り、密室は完璧だった。でも、俺の『残像』に映ったのは、明らかに他人の手だったんだ。自殺説は……残念ながら、成立しない」

 議論は、深い霧のような膠着状態へと陥った。

 他殺なら、犯人はどうやって密室から消えたのか。自殺なら、あの「手」は何なのか。

「金田一。お前の異能が見たその『手』は、誰のものだ。判別はつかないのか」

 火村の問いに、金田一は苦しげに顔を歪めた。

「分からない。本当に一瞬だったし、顔は映っていなかった。ただ——」

 金田一が、言葉を止める。

 何かを必死に思い出そうとするように、彼は自分の右手を空中で彷徨わせた。

「その手、震えてたんだ。殺意で、憎しみで震えてたんじゃない。何か別の……もっと、切羽詰まったような、悲しい震えに見えた」

 金田一は、そのまま首を傾げながら着席した。

「金田一。君の推理も、現時点では不完全だ。『誰かの手』という主観的な映像だけでは、犯人の特定には至らない」

 塾長・江戸川が、冷徹な裁定を下した。

「しかし、自殺説は事実上否定された。乱歩は、誰かの介在によって命を落とした。それだけは、この場における共通の認識としよう。この推理も、保留とする」

 金田一は納得がいかない様子で椅子に沈んだ。

 法月は、「震えていた手」という言葉が耳にこびりついて離れなかった。

 彼は無意識に、テーブルの下で自分の手を見た。

 指先が、微かに震えていた。

 昨夜の冷気がまだ残っているかのように、その震えは止まることを知らなかった。


   *


 金田一が椅子に深く沈み込み、大広間に再び重い沈黙が降りた。

 明智の外部犯説は証拠がなく、金田一の自殺説は自らの異能によって否定された。誰もが口を閉ざし、互いの呼吸音を窺うような視線が交錯する。

 神津は無表情に卓上の木目を指でなぞり、御手洗は深い瞑想に入ったかのように動かない。榎木津は退屈そうに己の爪を見つめ、二階堂は糸が切れた人形のように俯いている。火村だけが、腕を組んだまま、冷徹な観察者の眼差しを崩さずにいた。

 窓の外、霧は変わらず濃い。外界との境界線は、今や完全に消失していた。

 江戸川が、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がった。その僅かな音が、静寂を鋭く引き裂く。

「諸君。推理会は一時中断とする」

 塾長の言葉に、数名が顔を上げた。

「情報が足りない。このまま議論を続けても、推測が推測を呼ぶだけだ。現場をもう一度調べる必要がある。各自、自由に調査を行え。ただし、乱歩の部屋には私の許可なく立ち入ることは禁ずる。夕刻、再び集まれ。その時、次の推理を聞こう」

 江戸川は一度言葉を切り、出口へ向かおうとした足を止めた。

「一つ、忠告しておく。犯人がこの中にいるなら——逃げ場はない。この霧だ。館から出ることは物理的に不可能だ。そして、もし犯人がこの中にいないのであれば——」

 塾長の声が、一段と低く沈んだ。

「我々は、まだ見ぬ敵と同じ屋根の下にいるということだ」

「どっちにしろ最悪じゃん……」

 金田一が弱々しく漏らした。

「面白い。狩りの時間というわけだ」

 榎木津だけが、薄く唇を歪めて愉悦を示した。対照的に、二階堂は顔を青ざめさせ、震える手で自身の肩を抱いた。

 塾長の宣言を受け、塾生たちは三々五々、大広間を後にした。

「御手洗。現場周辺の音を拾いに行くわよ」

 神津が短く告げると、目を閉じていた御手洗がゆっくりと立ち上がった。

「ああ。あの部屋の周辺、まだノイズが残っている。聴き届けなければならない音があるんだ」

 二人はそのまま、死の現場へと向かった。

 明智は火村の元へ歩み寄った。

「火村。君は図書室へ来い。この館の図面、あるいは改築の記録を探し出す。外部犯説を完全に捨てるには、隠し通路の可能性を潰しきる必要がある」

「いいだろう。お前の『保留』を『確定』に変えてやるよ」

 二人の探偵は、肩を並べて廊下へ消えた。

 金田一は、榎木津に袖を引かれた。

「おい、ボサボサ。塾長に許可を取って、乱歩の遺品をひっくり返すぞ。何か面白いものが出てくるはずだ」

「えー、俺、遺品整理とか苦手なんだけどな……」

 金田一がぼやきながらも、榎木津に連れられていく。

「……私は、少し休ませていただきます」

 二階堂が掠れた声で言い置き、ふらつく足取りで自室の方角へと去っていった。

 一人、法月だけが大広間に残された。

 誰ともペアを組まず、誰からも声をかけられず、彼は自分の椅子に縫い付けられたように動けなかった。

 テーブルの上に置かれた自分の手を見る。指先の震えは、一度自覚してしまうと余計に酷くなった。

 金田一の言葉が、呪文のように脳内で繰り返される。

 ——その手、震えてたんだ。悲しい震えに見えた。

 乱歩。あの廊下で微笑んでいた、虚ろな瞳の青年。

 ——君も、そうだろう?

 彼が法月の肩を叩いた時の、あの僅かな体温。あれは幻だったのか。それとも、何かの予兆だったのか。

 ——俺は、何を知っているんだ。

 法月は、自分の記憶の底にある、まだ形を成さない濁った塊に触れようとして、恐怖に指を込めた。

 顔を上げると、窓の外の霧が、日差しを受けてほんの少しだけ薄くなっているのが見えた。

 しかし、館の中に漂う見えない霧は——むしろ、より濃く、より深く、法月の足元を浸食し始めているようだった。

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