乱歩探偵塾の最終講義
不思議乃九
第一章 乱歩の死
霧が深い。
標高一千メートル。地図から消された森の奥底。木々の輪郭が曖昧に溶け、その向こうに洋館が見えた。蔦の絡まる外壁。曇天に沈む屋根。湿った石の匂い。風が止まっている。
誰かが「綺麗だ」と呟いた。誰も同意しなかった。
低い重低音が割り込む。マイクロバスのエンジン音だ。泥を跳ね上げ、ヘッドライトで霧を切り裂きながら、一台のバスが門の前に停まった。エンジンが切れる。ぷしゅり、と高い排気音が鳴り、ドアが開いた。
「うわ、めっちゃ洋館。殺人事件起きそ〜」
最初の一歩を刻んだ金田一が、ボサボサの頭を掻きむしりながら言った。よれよれの袴を引きずり、子供のように目を輝かせている。
「金田一。お前が言うと本当に起きる。やめろ」
コートの襟を立てた火村が、不機嫌そうに吐き捨てた。
「まあまあだな。うちの別荘の方が広い」
欠伸をしながら榎木津が続く。
「築八十年は超えてる。構造は悪くない。メンテナンスが行き届いている証拠ね」
神津が淡白な声で分析を添えた。外壁を指先でなぞるその仕草に感情はない。
「……この館、音がいい」
御手洗が立ち止まった。空を見上げることもなく、ただ目を閉じている。
「響きが深い。森全体が共鳴している。不協和音だ。ひどく耳障りな、終わりの旋律が聴こえるよ」
「霧が濃いな。視界が悪い」
明智が冷静な声で遮った。仕立ての良いスーツの裾を気にしながら、眼鏡の奥の瞳で洋館を射抜く。
「……玄関の花、枯れかけていますね。誰の手入れも届かない、見捨てられた場所のようです」
影のように通り過ぎた二階堂が、足元の植木鉢を見て呟いた。
「あの……僕、こういう場所、苦手で。胸が、ざわつくというか」
法月が最後尾で、不安げに肩を竦めた。視線は常に自分の靴先を追っている。
重厚なオーク材の扉が開いた。
逆光の中に、一人の男が立っていた。江戸川だ。六十代。白髪混じりの髪を短く刈り込み、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。
「よく来た。全員揃っているな」
声は低く、ホールの隅々にまでよく通った。
「さあ、入れ。歓迎しよう。今回の合宿には、特別な塾生が参加する。紹介しよう」
江戸川が背後を振り返る。
「——乱歩だ」
影から、一人の青年が現れた。年齢は塾生たちと同じ、二十代前半。抜けるような白い肌に、彫刻のように整った顔立ち。
「よろしく」
短く、低い声だった。乱歩は微笑んでいた。だが、目は笑っていなかった。その瞳はどこか虚ろで、光を反射するだけのガラス玉のように見えた。生者の体温を感じさせない、深い空洞。
明智が無言で観察を深める。
「え、乱歩って……マジ? 」
金田一が驚きを隠さずに声を上げた。
「ほう」
榎木津が興味深そうに目を細める。法月は何も言えなかった。乱歩と目が合った瞬間、喉の奥が震えた。視線を外すことすらできない。乱歩の視線は法月を通り過ぎ、誰もいない霧の向こうを見つめていた。
「彼は、君たちの誰よりも優秀だ」
江戸川が全員をホールに招き入れる。
「この館で、彼を超える推理を見せた者にのみ、特権を与えよう」
塾生たちは導かれるように、煤けたシャンデリアが照らす中央ホールへと足を踏み入れた。冷たい空気が、肌を刺す。江戸川が重い扉を閉めた。閂(かんぬき)が落ちる音が、静寂の中で鋭く響く。
「では、諸君。これより三日間——探偵として、生き延びたまえ」
江戸川の口元が、わずかに歪んだ。その言葉の意味を。これがただの講義ではなく、一人の怪物の「終焉」を見届けるためのカウントダウンであることを、まだ誰も知らなかった。
*
夜が、洋館を飲み込んでいた。
談話室の中央では、暖炉の火が爆ぜている。それがこの館における唯一の温かみだった。窓の外は完全な闇だ。霧が窓ガラスに張り付き、外界との繋がりを断絶させている。
重厚な調度品。埃っぽい絨毯の匂い。塾生たちは、思い思いの場所に散っていた。
明智は窓際に立ち、何も映らぬ闇を凝視している。金田一はソファに寝転がり、天井の煤を数えていた。テーブルでは神津が古い革装本をめくり、暖炉の前では御手洗が火の揺らめきを瞳に映している。
榎木津は別のソファでワイングラスを傾け、二階堂は隅の椅子で、祈るように刺繍の手を動かしていた。火村は壁際の本棚の前で、背表紙の列をなぞっている。
法月は、入口付近に立っていた。どこに座ればいいのか、あるいは座っていいのかさえ分からず、ただ落ち着かない手つきで自分の服の裾をいじっている。
談話室に、乱歩の姿はなかった。
「で、あの乱歩ってやつ、何者なわけ?」
金田一が、沈黙を破るように言った。
「塾長が『誰よりも優秀』と言った。それだけで十分だろう。……あるいは、それ以上を聞くのが怖いか?」
火村が本棚を振り返らずに、皮肉を投げた。
「優秀かどうかは、俺が決めることだ。他人の評価など、ワインのラベル以下の価値しかない」
榎木津が鼻で笑い、グラスを置いた。
「データがない。彼が何を持って『優秀』とされるのか、その定義が不明。判断を保留する」
神津がページをめくる音だけが、乾燥した部屋に響く。
「彼は、自分から何も語らなかった。それが答えだ。真に力を持つ者は、説明を必要としない」
明智が窓に背を向け、静かに言った。その視線は、乱歩のいたはずの空間をなぞっている。
「……でも、どこか悲しそうでしたね。あの目」
二階堂が、ぽつりと呟いた。針を刺す手が止まっている。
法月は、何も言えなかった。
二階堂の言葉が、鋭い針のように胸に刺さった。あの虚ろな瞳の奥に、何か巨大な欠落がある。それを自分だけが知っているような、嫌な予感だけが澱のように溜まっていく。
談話室の空気が、不自然に重い。御手洗は、会話には一度も参加しなかった。ただ暖炉の火を見つめ、何事かを聴き取ろうとするかのように、耳を澄ませていた。
法月は息苦しさに耐えかね、談話室を後にした。
廊下は、談話室以上に冷え込んでいた。壁に等間隔に置かれた燭台が、心細い灯りを投げている。影が不自然に長く伸び、足音だけが空虚に響く。
角を曲がった時、その人影が見えた。
乱歩だった。
彼は廊下の突き当たりの窓辺に立ち、外を見つめていた。談話室の窓と同じ、何も見えないはずの闇を、彼はじっと観測していた。
「あの……乱歩、さん」
法月の声は、自分でも驚くほど震えていた。
乱歩が、ゆっくりと振り返る。驚いた様子はなかった。
「ああ、君か」
その声には、妙な親愛の情が含まれているように聴こえた。少なくとも、今日初めて会った他人に向ける響きではなかった。
「どうして、ここに? 皆、下であなたの話をしていますよ」
「見ているんだ。何も見えないけど。……君も、そうだろう?」
乱歩が、法月の瞳を覗き込むように言った。
「え?」
意味が分からず、法月は言葉を詰まらせた。
乱歩はそれ以上、何も言わなかった。ただ、一瞬だけ、二階堂が言った通りの「悲しそうな」微笑を浮かべた。
「なんでもない。おやすみ」
乱歩は法月の肩を軽く叩き、暗闇の奥へと去っていった。法月は、彼の手の温もりがいつまでも残っているような錯覚を覚えながら、その場に立ち尽くした。
深夜二時。
法月は自室のベッドで、目を開けていた。
眠りは訪れない。部屋の隅にある古い時計が刻む音が、秒単位で神経を削っていく。
その時、廊下から音がした。
足音だ。
板張りの床を、誰かがゆっくりと歩いている。
一定のリズム。迷いのない足取り。
それは法月の部屋の前で一瞬止まったように感じられた。法月は布団の中で身を固くし、呼吸を止めた。心臓の音が耳元でうるさく打ち鳴らされる。
やがて、足音は再び動き出した。
廊下の奥へ、乱歩の部屋がある方向へ。
遠ざかり、やがて完全な沈黙が戻ってきた。
法月は起き上がろうとしたが、指先一つ動かす勇気が出なかった。ドアの向こうに広がる闇が、すべてを拒絶しているように思えたからだ。
その足音が、誰のものだったのか。
法月は、知らないままでいたかった。
*
翌朝、七時。
洋館は依然として深い霧の底にあった。食堂の窓にへばりつく灰色が、室内を不自然に暗く沈ませている。
朝食のテーブルには、重苦しい沈黙が並んでいた。昨夜の緊張をそのまま持ち越したような、刺すような静寂。
法月は、目の前のスープをただ眺めていた。昨夜、廊下から聞こえたあの足音。法月の部屋の前で止まった、あの一瞬の空白。それが鼓膜の奥で何度も再生される。食欲は皆無だった。
「……乱歩が来ないな」
塾長・江戸川が、時計を見ずに言った。その一言で、法月の箸が止まった。
「明智、金田一。呼んできてくれ」
二人は無言で席を立ち、食堂を出た。法月はその背中を見送ることしかできなかった。
二分後。
廊下の奥から、明智の硬い声が響いた。
「塾長。来てください」
江戸川が立ち上がる。塾生たちも、吸い寄せられるように乱歩の部屋へと向かった。
乱歩の部屋の前。明智と金田一が、固い表情で立っていた。
「鍵がかかっているのか」
江戸川が問う。明智が頷く。
「ノブが回りません。応答もありません」
江戸川がポケットから合鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。金属の擦れる音が二度、虚しく響く。
「……駄目だ。合鍵が回らない。内側から、閂が落とされている」
「そんな。じゃあ、密室ってこと?」
金田一の声が上擦った。
「金田一。破れ」
江戸川の短い命令。金田一が肩を入れ、一度、二度と体当たりを繰り返す。三度目。凄まじい破壊音とともに、ドアが内側へ弾け飛んだ。
部屋の中に、冷気が満ちていた。
中央のベッドの上。乱歩が、仰向けに横たわっていた。
胸の中央に、銀色のペーパーナイフが深く突き立っている。溢れた血はシーツを小さく赤く染めているが、それほど多くはない。心臓を一突きにされた。それが一目でわかる死に様だった。
だが、その表情に苦悶はない。
乱歩は、穏やかに目を閉じていた。まるで、永い眠りを待ち望んでいたかのように。
「窓を確認しろ」
明智の声が室内に響く。
窓。二箇所。いずれも内側のクレセント錠がかかっている。
煙突。上部に分厚い木の板が釘で打ち付けられている。
換気口。幅十センチ。ネズミ一匹通れるかどうか。
ドア。先ほど金田一が破壊した閂が、床に転がっていた。
完全なる、密室だった。
「ひ……っ」
金田一が短い悲鳴を上げ、後ずさる。
駆けつけた塾生たちが、入口に折り重なるように立ち止まった。
神津は無言で乱歩の傍らに寄り、その脈を、あるいは死体の温度を確認しようとして手を止める。
御手洗は、部屋に入ることなく目を閉じていた。眉間に深く皺を寄せ、この部屋に満ちる「何か」を必死に聴き取ろうとしている。
榎木津は「ほう」と吐息をつき、彫像のように動かない死体を眺めている。
二階堂の顔からは完全に血の気が引き、壁に手をついて辛うじて自分を支えていた。
火村は現場に踏み込むことはせず、腕を組んでドア枠に寄りかかったまま、鋭い眼光を部屋の隅々に走らせる。
法月は、廊下で立ち尽くしていた。
一歩。一歩だけでも部屋の中に入ろうとした。だが、足が石のように重い。
開かれたドアの隙間から見える、乱歩の白い横顔。穏やかな死に顔。
——君も、そうだろう?
昨夜の囁きが、頭の中で爆音となって鳴り響く。吐き気が込み上げ、法月は視線を逸らした。直視できなかった。自分の中に芽生えた正体不明の恐怖から、逃げることしかできなかった。
「全員、廊下へ出ろ」
江戸川の静かな、だが拒絶を許さない声が響いた。
全員が指示に従う。江戸川は破壊されたドアの前に立ち、厳かに封鎖を宣言した。
「乱歩は死んだ。殺されたのか、自ら命を絶ったのか、それはまだ分からない」
江戸川の視線が、塾生一人ひとりを射抜くように移動していく。
「だが、これだけは言える。この部屋は完全な密室だった」
塾長は一度言葉を切り、霧の向こうを見つめるように視線を上げた。
「警察を呼ぶ。だがこの霧だ。到着まで早くて明日になる。それまでの間——」
江戸川が、ゆっくりと腰の重みを乗せるように告げた。
「諸君には、探偵としての義務を果たしてもらう。公開推理会を開く」
探偵たちの視線が、静かに交錯した。
誰も口を開かない。だが、その瞳の裏側で、既に「推理」という名の刃が研ぎ澄まされ始めている。
誰かが、この中にいる。
あるいは——誰もが、何かを隠している。
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