第12話 石灰の値札

匂いで目が覚めた。


 下水でも、事故物件でもない。

 でも、同じ系統の――鼻の奥に貼り付く、黒い匂い。


 嫌な予感がして、俺は布団を蹴って起き上がった。


 向かう先は一つだ。

 クローゼット。


 扉を開ける。

 服の奥――鍵穴も取っ手もない“白い線”。


 ……その端から、黒い雫みたいなものが、一滴。


「……嘘だろ」


 視界に“板”が赤く割り込んだ。


『警告:汚染が接続領域へ滲出しています(微)』

『対象:現実領域(クローゼット)』

『推奨:即時清掃/隔離』

『備考:封印石(破損)の修復が未完了です』


 胸の奥が冷たくなった。


 拭けば白くなる。

 そんな当たり前が、今は通用しない匂いだ。


 ここは現実だ。

 薄い壁。狭い部屋。近い生活音。

 逃げ道が塞がったら、俺は終わる。


 ――段取り。


 触る前に覆う。

 広げない。

 残さない。


 布袋から、布と石鹸と、黒いゴミ袋を引っ張り出す。

 いつもなら勿体なくて取っておいたやつ。

 いまはそれが命綱だ。


 黒袋を雫の下に広げる。

 布を二枚重ねて石鹸を擦り込み、雫を“包むように”拭った。


「……清掃技術」


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『汚染を中和しました(小)』


 布がほんの少し温かくなる。

 黒が布へ移って、雫が消えた。


 でも、終わらない。


 白い線の端に、薄い黒ずみが残っている。

 まるで“戻ろう”としているみたいに。


 俺は息を止めて、同じ動きでもう一度拭った。


「清掃技術……!」


『汚染を中和しました(小)』

『境界汚染反応:低下(微)』


 黒ずみが、わずかに薄くなる。


 ――微でもいい。

 ゼロよりはずっといい。


 汚れた布は黒袋へ。

 口を縛る。二重に縛る。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


「……成長は今じゃない」


 俺は袋を抱えたまま、白い線に手を当てた。


 境界が割れる。

 木の匂いが流れ込む。

 空き家の玄関が、向こう側に見えた。


 ***


 空き家に足を踏み入れた瞬間、肺が軽くなる。

 同じ扉の向こうなのに、空気の重さが違う。


 俺は真っ直ぐ物置へ向かった。


 隔離棚。

 最下段に、黒袋がいくつも並んでいる。


 板が淡々と表示する。


『拠点機能:〖隔離棚〗 稼働中』

『封緘状態:維持』

『備考:隔離枠の使用量:中』


 中。

 増えれば満ちる。


 俺は持ってきた袋を、棚の角に置いた。


「整頓」


 袋がぴたり、と固定される。

 踏まない位置。倒れない位置。触れなくていい位置。


『条件達成:汚染素材の隔離(追加)』


 胸の奥のぬるい不安が、ほんの少しだけ引いた。

 でも、根っこは残ってる。


 俺は隔離棚の奥――重い袋を見た。


 封印石(破損)。


 こいつがいる限り、汚れは集まる。

 集まった先が、現実のクローゼットだ。


 俺は板を呼ぶ。


「解析」


『対象:封印石(破損)』

『状態:汚染(小)/封印機能:低下』

『修復:可能(仮)』

『必要:封緘材(石灰)/清浄布/固定処理』

『不足:封印核(欠損)』

『備考:核欠損のため完全復旧不可(現状)』


「……石灰」


 昨日、ブラムが言っていた。

 石灰が欲しいなら金が要る、と。


 金。

 値札。


 現実の俺には、いつも“ゴミ”って値札が貼られている。

 でもここでは、汚れを片付ければ、ちゃんと値札が変わる。


 ――買うしかない。


 俺は布袋の中身を確認した。

 石鹸。布。紐。黒袋。

 それと、研ぎ石と短剣。


 段取りは揃ってる。

 足りないのは、白い粉だけだ。


 ***


 森を抜ける途中、薬草籠を抱えたリナと鉢合わせた。


 俺の顔を見た瞬間、リナの眉が寄る。


「ユーマ、今日……匂い、する。大丈夫?」


 鼻が利く。

 治療院の白布の匂いを覚えてる子だ。


 俺は一瞬だけ迷って、でも嘘はつかなかった。


「水の汚れ。……止まってない。白い粉が要る」


 リナの表情が曇る。


「石灰?」


「……そう」


 リナは籠を抱え直し、頷いた。


「じゃあ、町。石灰屋、知ってる。案内するよ。……一人で行ったら危ない」


 “一人は危ない”。


 その言葉が、まだ少し怖い。

 でも今日だけは、ありがたい。


「……頼む」


 俺たちは町へ向かった。


 ***


 町の門で衛兵が俺の首元の札を見る。


【期限:七日】

【臨時】


「下水の掃除屋だな。……入れ」


 値札が貼り替わった感覚が、ほんの少しだけ胸を軽くする。


 リナに案内されて辿り着いた店は、粉の匂いがした。

 白い袋が積まれている。石灰。


 店主が俺の箒を見て鼻を鳴らす。


「掃除屋か。封緘用ならこっちだ。銀貨一枚」


 銀貨。

 高い。

 でも、安い方だ。


 俺は反射で解析した。


「解析」


『対象:封緘石灰(小袋)』

『価値:銅貨50相当(相場:45~55)』

『備考:水路汚染の一次封鎖/刻印補修に使用可』


 相場内。


 俺は銀貨を取り出す前に、周囲を確認した。

 金を見せた瞬間に、値札が“獲物”に変わる。

 現実で嫌というほど知っている。


 だから、出すのは最小。

 受け取ったらすぐ片付ける。


 俺は銀貨を渡し、袋を受け取り、その場で布袋の奥へ押し込んだ。


「整頓」


 外から見えない位置に収まる。


 リナが小声で言った。


「ユーマ……最近、動きが速いね」


「……慣れてるだけ」


 慣れたくなかったけど。


 俺はついでに清浄布と、太めの紐も買った。

 値札は確認済み。段取りも済み。


 支払いが終わった瞬間、喉の奥が少しだけほどけた。


 ――これで、修復できる。


 ***


 町を出て草原の道を歩く。


 水路沿いに差しかかったとき、リナが足を止めた。


「……ユーマ、あれ」


 道の脇。

 石の隙間に、薄い黒苔が見えた。


 昨日より濃い。

 新しい。


 板が勝手に割り込む。


『汚染濃度:4/10(局所)』

『痕跡追跡(近距離):人間(微)』


「……人間」


 その言葉を口にした瞬間、草むらの奥から笑い声が聞こえた。


「――銀貨になるって言ったろ?」

「核だけ抜けば、あとは勝手に増えるんだよ」


 男の声。


 俺の背中が冷えた。

 “核だけ抜く”――封印核(欠損)。


 リナが息を呑む。

 俺は咄嗟に、彼女の手首を掴んで草むらへ引いた。


「音、立てるな」


 俺は足元の枝と石を拾い、並べた。


「……整頓」


 枝が踏んでも鳴りにくい位置に収まり、石が草を押さえる。

 俺たちの足音を“片付ける”。


 草むらの隙間から、男が二人見えた。

 黒い袋をいじり、濁った珠を転がしている。


 ――汚染核。


 値札が見えるせいで、余計に腹が立つ。

 銀貨。銅貨。相場。

 誰かの腹痛が、誰かの金になる。


 男の一人が水路の石を蹴った。


「次、もっと上流だな。封印石、また割るか」

「いいね。役所が動く前に稼げるだけ稼ぐ」


 役所。


 そう言うくせに、村や町の生活はどうでもいい顔。


 俺は歯を食いしばって、拳を握った。

 殴り返すためじゃない。


 今ここで飛び出したら、汚れが広がる。

 リナが巻き込まれる。

 俺はまた“奪われる側”に戻る。


 段取りは順番だ。


 いまは、見逃す。

 でも、忘れない。


 男たちが去っていく音が遠ざかってから、俺は息を吐いた。


 リナが震えた声で言う。


「……あの人たち、汚れを……売ってるの?」


「たぶん。……だから、止める」


 リナは小さく頷いた。


「……一緒に、止めよう」


 その言葉が、胸に刺さって、少しだけ暖かい。


 ***


 空き家に戻ると、俺は物置へ直行した。


 隔離棚の前で段取り。


 清浄布を二枚。

 石鹸。

 封緘石灰。

 紐。

 黒袋。


 先に“受け皿”を作る。

 漏らす前に隔離。広げたら負け。


 封印石の袋を棚からそっと引き出し、布の上に置いた。


 袋を開ける。


 中の石は、白い線が刻まれている。

 でも、その線が欠けて、黒く滲んでいた。


 俺は息を吸う。


「……清掃技術」


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『汚染を中和しました(小)』


 布で滲みを拭う。

 黒が布へ移って、線が少し白くなる。


 次――石灰。


 袋を開けると、白い粉がふわりと舞った。

 鼻がつんとする。


 板が短く出る。


『推奨:水で練り、補修材として使用』


 俺は棚の奥にあった古い革袋を取り出し、森の沢で汲んでおいた水を少し垂らした。

 もちろん、先に解析して“清浄”を確認済みだ。


 石灰を練る。

 指先に粘土みたいな感触が生まれる。


 欠けた線に押し込む。

 溝を埋める。

 余分は拭って、残さない。


「……整頓」


 石灰が線の形に沿って“ちょうどいい厚み”に揃う。

 欠けた部分が、繋がる。


 俺は紐を巻いて縛った。


「整頓」


 縛り目がほどけにくい角度で固まる。


 板が光った。


『仮設固定(微)が適用されました』

『封印石(破損):一次修復を確認しました』

『封緘状態:安定(微→小)』

『備考:封印核(欠損)のため完全復旧不可』


 仮でもいい。

 小でもいい。


 今は、止める。


 俺は封印石を黒袋に入れて二重にし、隔離棚の角へ戻した。


「整頓」


 袋がぴたり、と収まる。


 板が続けて表示する。


『拠点安全性:向上(小)』

『境界汚染反応:低下(小)』

『備考:汚染源は拠点外に存在します』

『新規タスク:封印核の回収/破損原因の特定』


 破損原因。

 人為。


 さっきの男たちの声が、耳の奥で反響する。


――封印石、また割るか。


 俺は玄関の壁に手を当てた。

 境界の線。


 白い。

 昨日より、白い。


 木の匂いが流れ込んだ。


 ***


 現実へ戻る。


 クローゼットの空気を吸う。

 さっきの黒い匂いが――少し薄い。


 白い線の端にも、黒い雫はない。

 黒ずみも、広がっていない。


 俺は膝が笑いそうになって、踏ん張った。


「……間に合った」


 でも、終わってない。


 俺は布袋の口を縛り直した。

 縛るのは俺の首じゃない。


 汚れだ。

 奪われる未来だ。


「……汚れを売ってるやつの稼ぎ口も、塞ぐ」


 掃除屋の俺が拾った境界の扉は、まだ白い。

 白いまま、保つ。


 そのために――明日も掃除する。

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掃除屋の俺が拾った境界の扉は、異世界の空き家に繋がっていた――レベルアップは人生を片付ける てゅん @satooooooo

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