第11話 境界の黒ずみ

目を覚ました瞬間、鼻の奥に“黒い匂い”が残っていた。


 下水の匂いとは違う。

 でも、同じ系統の――貼り付くような不快さ。


 俺は布団を蹴って起き上がり、真っ先にクローゼットを開けた。


 白い線。

 鍵穴も取っ手もない境界。


 ……その端に、薄い黒ずみが走っていた。


「……来たのかよ」


 視界に“板”が割り込む。


『警告:境界通路に汚染反応(微)』

『推奨:境界の清掃/隔離棚の封緘確認』

『備考:拠点外の汚染発生は継続しています』


 胸の奥が、冷たくなる。


 現実の教室では、俺の机に汚れを投げられても、誰も動かなかった。

 でもこれは違う。


 汚れが増えたら、逃げ道が塞がる。

 塞がったら――俺は終わる。


 俺は布袋から布と石鹸を取り出した。

 段取りは勝手に組まれる。


 触る前に覆う。

 広げない。

 残さない。


 白い線の黒ずみを、布で“包むように”拭う。


「……清掃技術」


 布が、ほんの少し温かくなる。


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『汚染を中和しました(小)』


 黒ずみが、布へ移った感覚があった。

 白い線が、わずかに白さを取り戻す。


 ――戻る。


 それだけで、息ができた。


 拭いた布は二重の黒袋へ。

 口を縛る。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


「……成長は、今じゃない」


 俺は、白い線を見た。


 拭けば白くなる。

 でも、根っこが残ってるなら、また黒くなる。


 上流の黒苔。

 破損した封印石。

 汚染個体。


 あれが止まらない限り、境界は汚れる。


 俺は“板”を呼び出す。


「表示」


――――――――――

【八咫優馬】

Lv:4

HP:18 / 18

MP:5 / 5


STR:1

VIT:3

AGI:2

DEX:3

INT:4

LUK:2


スキル:

〖整頓〗Lv2

〖解析〗Lv3

〖清掃技術〗Lv6

〖言語理解(共通語)〗Lv2


称号:

〖境界に触れた者〗

〖空き家の管理者〗

――――――――――


 MPは満タン。


 でも、MPが満タンでも意味がない。

 境界が黒くなったら、再展開すら“開かない”かもしれない。


 俺は歯を食いしばって、白い線に手を当てた。


 境界が割れる。

 木の匂いが流れ込む。


 ***


 空き家の玄関は、乾いている。


 物置の扉を開ける。

 隔離棚。


 最下段に、二重の黒袋がぴたりと収まっていた。


 板が淡々と表示する。


『拠点機能:〖隔離棚〗 稼働中』

『封緘状態:維持』

『備考:封印石(破損)の汚染反応:継続(小)』


 継続。


 抑えてるだけで、止まっていない。


 俺は袋に触れないまま、視線だけで段取りを組んだ。


 封印石は、ここに置く。

 今ここで出したら、黒ずみが増えるかもしれない。

 なら、“現場”を塞ぐ。


 取水小屋の穴。

 あそこが漏れ口なら、まずそこを仮でいいから止める。


 俺は布袋の中身を確認した。


 石鹸。

 布。

 黒いゴミ袋。

 紐。

 研ぎ石。

 短剣。


 ……灰が足りない。


 俺は玄関の箒を掴んで、外へ出た。

 背中で、帰り道が閉じる気配がする。


 怖い。

 でも、もう分かってる。


 戻るために、行く。

 逃げるためじゃない。

 塞ぐためだ。


 ***


 草原へ出る道で、薬草籠を抱えたリナと鉢合わせた。


 俺の顔を見るなり、リナは眉をひそめた。


「ユーマ……今日、顔が硬い。何かあった?」


「境界が……ちょっと黒くなった」


 言いかけて、すぐ飲み込む。

 境界のことは言えない。


 だから言い換えた。


「……水の汚れ。まだ止まってない」


 リナの表情が曇る。


「村の水、また臭いって。子どもが嫌がってる」


 ――やっぱり。


 俺は短く頷いた。


「取水小屋。穴を塞ぐ。灰が欲しい。ブラムのところに行く」


「一緒に行く。道、危ないから」


 “一緒に”。


 その言葉が、まだ少し怖い。

 でも今日だけは、ありがたい。


 俺たちは町へ向かった。


 ***


 町の門で、衛兵が俺の木札を確認した。


【期限:七日】

【臨時】


「下水の掃除屋だな。……入れ」


 値札が貼り替わった感覚が、ほんの少しだけ胸を軽くする。


 衛生係の小屋へ行くと、ブラムが腕を組んでいた。


「また来たな、掃除屋」


「上流。取水小屋。穴を塞ぎたい。灰と、厚手の布が欲しい」


 ブラムが眉を寄せる。


「塞ぐ、って……封印石が壊れてたって話か?」


 俺は頷いた。


「仮でもいい。漏れ口を止める。……境界にまで臭いが来る前に」


 境界とは言わない。

 でも、俺の声が切れていたのか、ブラムは鼻を鳴らして立ち上がった。


「分かった。灰は持ってけ。布も貸す。代わりに、広げるなよ」


「段取りは、分かってる」


 ブラムは桶の灰と、厚手の布束を渡してきた。


「灰は撒くだけじゃねぇ。詰めろ。濡れてても固まる。……あと、石灰が欲しいなら金が要る。今日は無しだ」


「灰でいい」


 贅沢は言えない。

 俺は受け取って、すぐ布袋に収めた。


「整頓」


 灰が漏れない角度。

 布が先に出る配置。

 紐が上に来る順番。


『整頓による配置が成功しました』


 ……こういう便利さがないと、俺は生きられない。


 俺たちは取水小屋へ向かった。


 ***


 上流に近づくほど、匂いが薄く黒くなる。


 取水小屋の中――問題の場所へしゃがみ込むと、俺は息を止めた。


 封印石があったはずの“白い線”の跡。

 そこが、穴になっている。


 穴の縁が黒く滲んで、薄い膜が戻ろうとしていた。


 板が勝手に表示する。


『警告:汚染漏出点を検知しました』

『推奨:一次封鎖(仮)』


 仮でいい。

 止める。


 俺は穴の縁に手をかざした。


「解析」


『対象:漏出点(取水小屋)』

『状態:汚染(微)』

『濃度:3/10』

『破損原因:外力(人為)』

『痕跡追跡(近距離):人間(微)』

『備考:汚染は境界系刻印へ集積しやすい』


「……人為」


 誰かが壊した。


 そして、“境界系刻印”。


 あの封印石の線も、俺の境界の線も、同じ系統だってことだ。


 だから黒は集まる。

 だから境界が黒ずむ。


 俺は、歯を食いしばった。


「……拭く」


 布を二枚重ねる。

 石鹸を擦り込む。


「清掃技術」


『汚染を中和しました(小)』


 黒い滲みが薄くなる。


 次。


 塞ぐ。


 俺は灰を掴み、穴の縁に押し込んだ。

 濡れた溝に、粉が吸い付く。

 黒い膜が縮む。


『濃度:3/10 → 1/10(局所)』


 厚手の布を細く裂き、灰を包む。

 紐で縛る。


 簡易の詰め物。


「整頓」


 布の太さが揃い、縛り目がほどけにくい角度で固まる。


 俺は詰め物を穴に押し込んだ。

 最後に、上から石片を当てる。


 ……持ち上げるには重い。


 だから――。


「整頓」


 石片が、ぴたり、と穴の上に噛み合った。

 水の流れが押しても動かない位置。


 板が光る。


『一次封鎖:成功(仮)』

『備考:封印機能は未復旧/漏出は抑制』


 抑制。


 止まったわけじゃない。

 でも、境界が黒ずむよりはマシだ。


 その瞬間――床の黒苔が、盛り上がった。


 昨日の幼体とは違う。

 膜が厚い。

 匂いが強い。


 板が赤く割り込む。


『対象:ブラック・スライム(汚染個体)』

『Lv:5』

『HP:24 / 24』

『特徴:汚染拡散/腐食(小)』

『備考:封鎖への反応:高』


「……片付けるの、嫌がるか」


 ブラムが後ろで唸る。


「クソ……出やがった! ユーマ、無理すんな!」


 無理かどうかは、俺が決める。


 逃げたら封鎖が剥がれる。

 剥がれたらまた流れる。

 流れたら境界が黒ずむ。


 ――俺の部屋が汚れる。

 俺の逃げ道が汚れる。


 それだけは、嫌だ。


 俺は箒を構えた。


 掃くんじゃない。

 払う。

 散らすんじゃない。

 寄せる。


 俺は灰を蹴り上げた。

 粉がスライムの膜に張り付く。


『状態異常:乾燥(微)』

『移動速度が低下しました』


 短剣を抜く。

 狙うのは核。


 スライムが伸び、黒い滴が飛ぶ。

 頬に熱い痛み。


『HP:18 → 17』

『状態:軽度腐食(微)』


 痛みが走る前に、布で拭う。


「清掃技術」


『腐食を中和しました(微)』

『炎症を抑えました(微)』


 動ける。


 俺は足元の石片を拾って、並べた。


「整頓」


 石が、スライムの進路に“ちょうどいい”間隔で並ぶ。

 踏めば滑る配置。

 回り込みを潰す配置。


 スライムが一拍遅れた。


 その隙に、短剣を突き込む。


『ダメージ:8』

『HP:24 → 16』


 効いた。

 でも、終わらない。


 スライムが暴れ、黒い膜が封鎖した穴へ跳ねた。


 ――乗せるな。


 俺は箒の柄で膜を押し返す。

 封鎖の上に汚れを乗せない。


「整頓!」


 石片が、さらに深く噛み合った。


『一次封鎖:安定(微)』


 よし。


 俺は石鹸を擦り込んだ布を、スライムの膜に押し当てた。

 拭う。

 削るんじゃない。

 移す。


「清掃技術!」


『汚染を中和しました(小)』


 膜が薄くなり、核が露出する。


 俺は短剣を捻った。


『ダメージ:10』

『HP:16 → 6』


 最後。


 灰をもう一度、ぶちまける。

 乾燥。

 動きが止まる。


 短剣を、深く。


『ダメージ:7』

『HP:6 → 0』


 黒い膜が落ち、濁った珠が転がった。


『モンスターを討伐しました』

『経験値を獲得しました』

『レベルアップしました』

『Lv:4 → 5』


 膝が笑いそうになった。

 でも倒れない。


 倒れたら、ここで終わる。


 俺は濁った珠を拾い上げた。


「解析」


『対象:汚染核(中)』

『用途:研究素材/換金(特殊)』

『価値:銀貨4(相場:銀貨3~6)』

『注意:破損で汚染漏出』

『備考:収納は隔離を推奨』


 価値が高い。

 危険も高い。


 俺は即座に収納した。


「収納」


 板が赤く光って、すぐ落ち着いた。


『警告:汚染素材を収納しています』

『推奨:隔離棚への封緘保管』


 分かってる。

 帰ったら、すぐ隔離する。


 俺は封鎖した穴にもう一度手を当てた。


「解析」


『濃度:1/10 → 0/10(局所)』

『備考:汚染源は別途存在(上流側)』


 局所は止めた。

 でも根っこは別。


 俺は息を吐いた。


「……次は、根っこだ」


 リナが小さく頷く。


「うん。放っておけない」


 ブラムが舌打ちして笑った。


「掃除屋のくせに、厄介事に首突っ込みすぎだ」


「広がる汚れは、嫌いだ」


 自分の口から出た言葉が、少しだけ誇らしくて、怖かった。


 ***


 町へ戻って報告すると、ブラムは灰と布の返却を確認してから、小さな革袋を机に置いた。


「臨時だ。銅貨五枚。……お前みたいなのが動かねぇと、手が回らねぇ」


 銅貨五枚の重みは軽い。

 でも、“働いた分”として渡される重さは、別だ。


「……ありがとう」


「礼はいらねぇ。次も呼ぶ」


 値札が、また一枚増えた。


 俺は銅貨を収納し、空き家へ戻った。


 物置の隔離棚で、段取り。


 汚染核(中)を取り出す前に、黒袋を二重にして待たせる。

 布を巻いて、石鹸を擦り込む。


「取り出し」


 濁った珠を布で包み、袋へ落とす。

 縛る。

 二重にする。


「整頓」


 袋が棚の角へ収まる。


『隔離棚への封緘保管を確認しました』

『封緘状態:維持』

『備考:隔離枠の使用量が増加しました』


 ……増えた。


 汚れは増える。

 だから段取りで止める。


 俺は玄関の壁に手を当てた。


『管理者権限を確認』

『境界通路:再展開しますか?』

『消費MP:1』


「再展開」


『MP:5 → 4』

『境界通路が安定しました』


 白い線が走り、割れる。

 向こう側に、現実のクローゼット。


 俺は境界をくぐった。


 ***


 現実の空気は冷たくて薄い。

 でも、クローゼットの白い線は――さっきより白かった。


 俺は念のため、もう一度拭いた。


「清掃技術」


『境界汚染反応:低下(微)』

『備考:一次封鎖の成功により、汚染集積が減少しました』


「……よし」


 仮でもいい。

 微でもいい。


 ゼロよりはずっといい。


 俺は板を呼び出した。


「表示」


――――――――――

【八咫優馬】

Lv:5

HP:17 / 20

MP:4 / 5


STR:1

VIT:3

AGI:2

DEX:3

INT:4

LUK:2

――――――――――


『ステータスポイント:3』

『スキルポイント:1』


 俺は迷わず振った。


 持てるように。

 倒れないように。

 外さないように。


『STR:1 → 2』

『VIT:3 → 4』

『DEX:3 → 4』


 体の芯が、少しだけ安定する感覚がした。


 そして、スキルポイント。


 今日の俺に必要なのは、封鎖を“仮”で終わらせない力。


 俺は呟いた。


「整頓。上げる」


『スキル〖整頓〗:Lv2 → Lv3』

『追加効果:仮設固定(微)』


 仮設固定。


 ――仮を、少しだけ強くできる。


 板が最後に、淡々と表示した。


『新規タスク:封印石(破損)の修復/再封緘』

『備考:破損原因の特定で追加報酬/拠点安全性が向上します』


 修復。


 再封緘。


 俺はクローゼットの白い線を見た。


 白いまま、保つ。

 俺の逃げ道を、白いまま。


「……明日も掃除する」


 上流の汚れも。

 境界の汚れも。

 そして、壊したやつの痕跡も。


 片付け直すために。

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