第10話 上流の黒苔
目を覚ました瞬間、鼻の奥に“下水の匂い”が残っている気がした。
昨日、隔離した。
黒袋で二重にして、角に収めて、汚れを“片付けた”。
――なのに、匂いだけは、勝手に戻ってくる。
俺は起き上がって、まずクローゼットを開けた。
白い線。
鍵穴も取っ手もない境界。
そこにあるだけで、胸の奥が少しだけ軽くなるのが、もう怖い。
視界に“板”。
『HPが回復しました』
『MPが回復しました』
続けて、昨日は出なかった表示が、短く出た。
『拠点機能:〖隔離棚〗 稼働中』
『備考:拠点外の汚染発生は継続しています』
「……継続、か」
結局、拭いたところで、根っこが残ってる。
昨日の俺が言った通りだ。
放っておけば、また滲む。
また臭う。
また、弱い方から腹を壊す。
俺は布袋を引き寄せ、口を縛り直した。
手が勝手に段取りを作る。縛り目を二重。ほどけない角度。指先の感覚が、少しだけ前より確かだった。
『経験値を獲得しました』
『清掃行為が“成長”として認識されました』
「……縛っただけで出るの、ほんと容赦ないな」
でも、嫌じゃない。
俺がやったことが、俺に返ってくる。
それだけで、今日は行ける気がした。
俺は石鹸と布、それから予備の黒いゴミ袋を一枚、布袋の奥に押し込んだ。
余った紐も数本。現場で切って揃えておく。
最後に、息を吸う。
「……行くぞ」
白い線に手を当てる。
境界が割れて、木の匂いが流れ込んだ。
***
空き家の玄関は、乾いている。
昨日、隔離した場所――物置の方を、俺は無意識に見た。
見えないのに、ある。
見えないのに、危ない。
だから、確認する。
物置の扉を開けると、そこに“棚”があった。
昨日まで、確かに無かった。
壁際に、木の板が組まれた簡素な棚。何段かに分かれていて、角には薄い金具みたいなものが埋め込まれている。
その一番下の段に、二重にした黒袋が、ぴたり、と収まっていた。
勝手に収まった、って方が近い。
俺は喉を鳴らして呟く。
「解析」
『対象:隔離棚』
『用途:汚染素材の封緘保管』
『効果:封緘状態の維持補助/漏出リスク低下(小)』
『注意:破損時は即時中和・再封緘推奨』
……補助が付いてる。
昨日みたいに滲んでも、ここなら抑えられる。
胸の奥のぬるい不安が、少しだけ引いた。
でも、根っこは残ってる。
拭いて、袋に入れて、棚に置いても――上流で滲んでる限り、また出る。
俺は玄関の箒を掴み、短剣の柄を確認した。
中古の短剣。
耐久は減ってない。研ぎ石もある。
まだ使える。
扉を開けて、森へ出る。
出た瞬間、境界が閉じる感覚が背中に来た。
帰り道が消える怖さは、もう慣れない。
だから、段取り。
拠点方向表示の矢印を確認し、目印の枝と石を辿って森を抜ける。
村へ向かう道の途中、沢の水にしゃがみ込み、手を伸ばす――前に止まった。
昨日の俺なら、解析して終わりだった。
今日は違う。
俺は水面を見つめて呟く。
「解析」
『対象:沢の水』
『状態:清浄(飲用可)』
『備考:汚染:なし』
……ここはまだ、白い。
安心しかけて、逆に怖くなる。
白い場所の下に、黒い筋が潜んでいたら、気づけない。
俺は立ち上がり、村へ向かった。
***
村の入口で、門番が槍の柄で俺を止めた。
「札は」
俺は木札を出す。
門番の目が裏面を滑る。
「期限……今日までか」
喉が鳴った。
――今日まで。
リナの保証も、今日で終わる。
俺が汚したら、最後に泥がつくのも、今日だ。
「……分かってる」
門番は短く鼻を鳴らし、槍を退けた。
「なら、余計な真似はするなよ」
余計な真似。
現実でも散々言われた言葉だ。
でも今日は、余計じゃない。
根っこを片付けに行く。
村の中へ入ると、広場の水場に人が集まっていた。
子どもが鼻をしかめている。
嫌な予感がして、俺は足を止めた。
水場の桶に近づく。
昨日、俺が拭いて匂いを薄くしたはずの場所。
……酸っぱい匂いが、少し戻っていた。
女の人が小声で言う。
「また臭い……」
「外の子が触ったからじゃないの?」
刺さる。
でも、言い返さない。
俺は桶の縁に手を当てて呟く。
「解析」
『対象:水場の水』
『状態:汚染(微)』
『備考:発生源:上流側の可能性』
微。
昨日より、薄い。
でも、ゼロじゃない。
――根っこだ。
「ユーマ!」
声がして振り返ると、リナが籠を抱えて走ってきた。
顔が少し曇っている。
「水、戻ってきたよね……?」
「戻ってる。微だけど」
俺がそう言うと、リナが唇を噛む。
「村長も、また調べに行くって……でも人手が足りないって」
人手が足りない。
それは、どこの世界でも同じだ。
俺は短く息を吐いた。
「町の依頼、受ける。上流点検」
リナが頷いた。
「一緒に行く。森も道も、一人は危ない」
“一人は危ない”。
それが、嫌じゃないのが怖い。
でも――今日だけは、甘える。
「……頼む」
俺たちは村を出て、草原の道を町へ向かった。
***
町の城門で、衛兵が俺の木札を見て眉を上げた。
「七日札か。……下水の掃除屋だな?」
覚えられてる。
悪い意味じゃない。
値札が貼り替わった感覚が、少しだけする。
「……そう」
俺は通され、真っ直ぐ商人組合――じゃなく、衛生係の詰所へ向かった。
下水番のブラムがいる場所だ。
小屋の前で、ブラムが腕を組んで待っていた。
「来たな、掃除屋」
「……依頼を受けたい。上流点検」
ブラムが鼻で笑う。
「好きだな、汚れ」
「好きじゃない。放っとくと広がる」
ブラムの目が一瞬だけ細くなる。
冗談じゃなく、仕事の目だ。
「札はこれだ」
木札を渡される。
【水路清掃/上流点検 報酬:銀貨一枚】
【危険:中(汚染/害獣)】
【備考:黒苔の発生あり】
黒苔。
……黒い苔。
匂いの正体が、名前になっただけで、背中が冷える。
俺は札に視線を落として呟く。
「解析」
『対象:依頼札(水路清掃/上流点検)』
『報酬:銀貨1』
『危険:中』
『備考:汚染源の一次特定で追加報酬の可能性』
追加報酬。
喉が鳴る。
金は、現実の俺の命綱だ。
でも――いま欲しいのは、金だけじゃない。
拠点の安全。
境界の向こうの、俺の逃げ道。
俺は札を握りしめた。
「受ける」
ブラムが、桶を顎で指した。
「灰、持ってけ。あと、厚手の布。……汚れを広げるなよ」
「段取りは、分かってる」
俺がそう言うと、ブラムは一瞬だけ口の端を上げた。
笑った、ってほどじゃない。
でも、馬鹿にする顔じゃない。
俺は灰の入った桶を見て、すぐに目を逸らした。
持ち上がる気がしない。
STRは、まだ1だ。
だから――。
「整頓」
桶が、すっと滑って俺の足元に来る。
持てる角度。落とさない位置。
ブラムが小さく唸った。
「……ほんと、反則みてぇな掃除屋だな」
リナが隣で、少しだけ誇らしそうに笑った。
俺たちは町の外へ出た。
***
町の外の水路は、石で固められていた。
木の樋。
石の溝。
流れる水は透明――に見える。
でも、匂いが、薄く黒い。
俺は水面に手をかざして呟く。
「解析」
『対象:水路の水』
『状態:汚染(微)』
『備考:上流ほど濃度上昇の可能性』
可能性。
曖昧だ。
根っこを片付けるには、場所を特定しないといけない。
でも、今の解析じゃ“どこ”が出ない。
歯を食いしばった瞬間、板が割り込んだ。
『スキルポイント:1』
『スキルレベルを上げますか?』
……ここかよ。
でも、ここしかない。
「解析。上げる」
『スキル〖解析〗:Lv2 → Lv3』
『追加効果:汚染濃度表示(簡易)/痕跡追跡(近距離)』
視界の端に、薄い“線”が見えた。
水路沿いに、黒く霞んだ筋が伸びている。
汚れの流れ。
俺は息を吸った。
「……こっちだ」
ブラムが眉を寄せる。
「分かんのか?」
「見える。……黒い筋が」
説明しても通じない。
でも、段取りは進める。
俺たちは黒い筋を追って歩いた。
***
上流に近づくほど、石の隙間に“黒い苔”が増えていった。
濡れた石に張り付く、薄い膜。
触りたくない冷たさ。
下水の黒い膜と、同じ匂い。
ブラムが舌打ちした。
「……ここだな」
水路の横に、小さな木の小屋があった。
扉は歪み、鍵は錆びている。
人の手が入っていない場所――空き家みたいな場所。
俺の仕事場だ。
「昔の取水小屋だ。今は使ってねぇ。……が、黒苔が増えたのは最近だ」
リナが鼻を押さえた。
「臭い……」
俺は短く言った。
「中、見る」
ブラムが腕を掴みかけて止めた。
「一人で入るな。……死ぬなよ。死なれると掃除が増える」
「……分かった」
俺は箒を握り直し、小屋の扉に手を掛けた。
歪んで重い。
STR1。
開けられる気がしない。
だから――。
「整頓」
扉が、ぎい、と音を立てて“正しい位置”へずれた。
通れる隙間ができる。
中から、黒い匂いが流れ出した。
俺は布を鼻に当て、石鹸を擦り込んだ。
「……清掃技術」
『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』
『簡易除菌/消臭(小)』
『悪臭耐性(微)が適用されました』
匂いが薄くなる。
完全じゃない。
でも、息ができる。
小屋の中は、湿っていた。
床に、黒い苔。
壁の隙間に、黒い膜。
そして、水路の分岐。
ここから、村へ行く水も流れている。
――繋がってる。
俺は床の黒苔に箒を当てた。
掃くんじゃない。
剥がす。
『経験値を獲得しました』
『清掃行為が“成長”として認識されました』
黒苔が、ぬるり、と動いた。
動いた、じゃない。
“戻ろうとした”。
俺の背中が冷えた。
板が勝手に表示する。
『対象:ブラック・スライム(幼体)』
『Lv:2』
『HP:5 / 5』
『特徴:粘着/汚染(微)』
『弱点:乾燥/アルカリ/火』
幼体。
数が――。
床の苔が、いくつも盛り上がった。
五つ。
六つ。
リナが息を呑む。
「……動いた……!」
ブラムが後退する。
「クソ……! ここまで増えてたのか!」
俺は息を止めた。
群れ。
でも、幼体。
段取りで勝つ。
「灰、撒く」
俺は桶を足元に滑らせ、箒の柄で叩く。
灰が舞う。
黒い膜に張り付いて、幼体の動きが鈍る。
『ブラック・スライム(幼体)に状態異常:乾燥(微)』
『移動速度が低下しました』
俺は箒で灰を寄せ、苔を“まとめる”。
散らさない。
広げない。
壁際へ。
角へ。
逃げ道を潰す。
「整頓」
床に転がっていた石片が、幼体の周りに並んだ。
回り込みができない配置。
踏めば滑る配置。
幼体が、じたばたと動いて――止まる。
俺は短剣を抜いた。
狙いは核。
幼体は薄い。外側を削るより、中心を突く。
一本目。
『ダメージ:3』
『HP:5 → 2』
二本目。
『ダメージ:2』
『HP:2 → 0』
三本目。
四本目。
灰と石鹸と、段取り。
掃除屋の戦い方で、幼体を“片付けて”いく。
『モンスターを討伐しました』
『経験値を獲得しました』
最後の一体が、ぺたり、と崩れたとき。
床の黒苔が、急に薄くなった。
その下に、石が見えた。
……ただの石じゃない。
白い線。
鍵穴も取っ手もない境界みたいな“筋”が、石に刻まれている。
でも、その線は黒く滲んでいた。
俺は喉を鳴らして呟く。
「解析」
『対象:封印石(破損)』
『状態:汚染(小)/封印機能:低下』
『備考:近隣水路へ汚染が漏出中』
『注意:無理な除去は汚染拡散の可能性』
封印石。
境界じゃない。
でも、似てる。
白い線が、黒くなる。
それは俺の逃げ道が汚れるってことだ。
俺は歯を食いしばった。
「……これが根っこ、か」
ブラムが覗き込み、顔をしかめた。
「何だそれ……石に、線が……」
リナが小さく震える。
「……封印、って……」
俺は短く言った。
「触らない。……まず、拭く」
拭いて、汚れを移して、封じる。
特殊清掃と同じだ。
俺は布を二枚重ね、石鹸を擦り込んだ。
「清掃技術」
『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』
『汚染を中和しました(小)』
布が、ほんの少し温かくなる。
黒い滲みが、布に“移った”感覚があった。
石の線の黒さが、わずかに薄くなる。
……完全じゃない。
でも、止められる。
俺は予備の黒いゴミ袋を広げた。
布で石を包み、袋に入れる。
口を縛る。
さらにもう一枚の袋で包み、二重にする。
ブラムが唖然として言った。
「それ……持って帰る気か? 危ねぇだろ」
「ここに置いたら、また流れる」
俺はそれだけ言って、袋を抱えた。
重い。
でも、銅貨みたいに落ち着く重さじゃない。
嫌な重さだ。
――だから、早く片付ける。
板が赤く光った。
『警告:汚染素材を保持しています』
『推奨:隔離棚への封緘保管』
『備考:拠点の隔離棚にて漏出リスクを低下できます』
拠点。
空き家。
俺は袋を抱え直して、言った。
「……戻る」
***
町へ戻る道中、俺は袋を見えない位置で抱えたまま歩いた。
見せたら終わる。
価値が高いものほど奪われる。
危険なものほど、押しつけられる。
ブラムは何も言わなかった。
リナも、余計なことを聞かなかった。
町の衛生係の小屋に着くと、ブラムが報告を簡単にまとめた。
「上流の取水小屋に黒苔。幼体スライム多数。掃除屋が片付けた。……あと、封印石が破損してた」
衛生係の男が顔を硬くする。
「封印石……? それは専門だ。治療院と、役所に回す。……お前ら、よく生きて帰ったな」
俺は袋の存在を、言わなかった。
言えなかった。
でも、嘘はつかない。
「黒苔は剥がした。幼体は倒した。……しばらくは流れ、良くなる」
男が頷き、銀貨を一枚、机に置いた。
「報酬だ。銀貨一枚。……追加は調査の結果次第だ」
銀貨の白い光が、目に刺さる。
俺は無意識に呟いた。
「解析」
『対象:銀貨』
『価値:銅貨50相当』
……通用する重さ。
俺は銀貨を握り、即座に言った。
「収納」
銀貨が消える。
奪われない形に片付く。
衛生係の男が眉を上げたが、もう驚かない顔だった。
「便利だな。……だが、便利な奴ほど目を付けられる。気をつけろ」
刺さる。
現実でも、同じだった。
「……分かってる」
俺は袋を抱え直し、町を出た。
***
空き家に戻ったとき、玄関の敷居を跨いだだけで、息が吐けた。
ここだけは、俺を拒絶しない。
物置の隔離棚へ向かい、段取りを組む。
袋は二重。
でも油断しない。
汚れは、微でも広がる。
俺は布を巻き、袋を棚の一番下へ置いた。
「整頓」
袋が、ぴたり、と角に収まる。
倒れない位置。
踏まない位置。
触れなくていい位置。
板が静かに光った。
『隔離棚への封緘保管を確認しました』
『拠点安全性:向上(微)』
『備考:水路汚染の発生源に“封印石(破損)”を確認』
微でもいい。
ゼロよりはずっといい。
根っこは、まだ奥にある。
封印石が破損した理由は、まだ分からない。
でも、“場所”は掴んだ。
俺は玄関の壁――境界の場所に手を当てた。
『管理者権限を確認』
『境界通路:再展開しますか?』
『消費MP:1』
「……再展開」
『MP:5 → 4』
『境界通路が安定しました』
白い線が走り、割れる。
向こう側に、俺の部屋のクローゼットが見えた。
***
現実の空気は冷たい。
薄い壁。近い生活音。
ここは俺の現実だ。
でも――俺の中身は、また少しだけ変わっている。
板を呼ぶ。
「表示」
――――――――――
【八咫優馬】
Lv:4
HP:18 / 18
MP:4 / 5
STR:1
VIT:3
AGI:2
DEX:3
INT:4
LUK:2
スキル:
〖整頓〗Lv2
〖解析〗Lv3
〖清掃技術〗Lv6
〖言語理解(共通語)〗Lv2
称号:
〖境界に触れた者〗
〖空き家の管理者〗
――――――――――
解析が上がった。
汚れの筋が、見えるようになった。
……現実でも、同じだ。
汚れはどこかから流れてくる。
誰かが流して、誰かが被る。
俺は布袋の口を縛り直した。
縛るのは、俺の首じゃない。
汚れだ。
根っこだ。
逃げ道を汚す未来だ。
「……次は、もっと上だ」
板が淡々と表示する。
『新規依頼を確認できます』
『推奨:水路清掃/上流点検(続)』
『備考:封印石の破損原因を特定すると、拠点の安全性が向上します』
安全性。
その言葉が、今は欲しい。
俺はクローゼットの白い線を見た。
「……明日も掃除する」
上流の汚れも。
境界の汚れも。
俺の人生の汚れも。
片付け直すために。
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