第9話 隔離の黒袋
『警告:汚染素材を収納しています』
『隔離を推奨します』
『備考:収納枠の汚染リスク:低→中』
――隔離。
その二文字が、胸の奥に刺さった。
収納は“片付け”のはずだった。
散らかったものを見えない場所に入れて、誰にも奪われない形にして、安心するための機能。
なのに、その“片付けた先”で汚れが増えるって、どういうことだ。
もしこれが、異世界だけの話なら……まだいい。
でも俺はいま、現実の部屋にいる。
薄い壁。冷たい床。狭い空間。
ここは俺の“生活”がある場所で、境界が繋がっている場所だ。
ここが汚れたら――逃げ道がなくなる。
俺は唾を飲み込んで、板をもう一度呼び出した。
「……収納枠、表示」
『収納枠』
・銀貨×1
・汚染核(小)×1
汚染核(小)。
あの下水で拾った濁った珠が、ここにある。
見えないのに、ある。
見えないのに、危ない。
……特殊清掃の現場で、何度も言われた。
**触る前に段取り。**
**漏らす前に隔離。**
**広げたら負け。**
現実の俺は、いつも“広げられる側”だった。
机を蹴られて、牛乳をこぼされて、汚れを投げつけられて。
でもこれは違う。
これは俺が、自分で片付けないといけない汚れだ。
俺は息を吸って、布袋を掴んだ。
中身を確認する。
石鹸。布。
それと――黒いゴミ袋。
仕事で余ったものを、捨てられずに取っておいた。
金がないと、ゴミ袋一枚も惜しいから。
笑えないけど、いまはそれが命綱だ。
「……隔離する場所は、こっちだ」
現実じゃない。
境界の向こう――空き家の方。
俺はクローゼットを開け、白い線に手を当てた。
境界が、すっと割れる。
木の匂い。乾いた空気。
拒絶されない感じが、喉の奥を少しだけほどく。
俺は空き家に足を踏み入れた。
***
玄関の床は、俺が拭いてからずいぶん綺麗になっている。
でも、今日は“綺麗”じゃ足りない。
必要なのは、**隔離**だ。
俺は玄関脇の小部屋――物置みたいな場所を見つけた。
扉は歪んでいて、床板は少し軋む。
でも、外気が入りにくい。人目もない。
ここにする。
まずは床を拭く。
布に石鹸を擦り込んで、段取り通りに。
汚れを広げない。
動線を作る。
逃げ道を潰す。
「……清掃技術」
『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』
『簡易除菌/消臭(小)』
石鹸の匂いが少し強くなる。
それだけで、“作業用”の頭に切り替わった。
次に、黒いゴミ袋を広げる。
床に直接置かないように、布を下に敷く。
そして――袋の口を縛るための紐を、あらかじめ切って揃えた。
「……整頓」
紐が揃う。布が折り目通りに畳まれる。
道具が、勝手に“使いやすい形”になる。
『整頓による配置が成功しました』
……便利すぎる。
でも、いまはその便利さに助けられる。
俺は、呼吸を一度だけ整えた。
「取り出し……汚染核(小)」
板が反応する。
『警告:汚染素材を取り出します』
『推奨:手袋/布による覆い/隔離容器』
分かってる。
俺は布を二枚重ねて手に巻き、即席の手袋みたいにした。
その上から黒い袋を、半開きにして待たせる。
――段取り、完了。
「……取り出し」
次の瞬間、掌に落ちたものは、冷たかった。
濁った珠。
光があるようでない。
黒い膜が、内側でゆっくり動いているみたいに見える。
そして――匂い。
下水の臭いが、ほんの一瞬だけ戻ってきた。
鼻の奥に貼り付く、あの黒い匂い。
俺は反射で歯を食いしばり、珠を布で包んだ。
「清掃技術……!」
『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』
『汚染を中和しました(小)』
布が、ほんの少し温かくなる。
触れているはずの嫌な冷たさが、薄くなる。
――いける。
俺は包んだまま、黒い袋の中へ落とした。
そして袋の口を一気に絞り、縛る。
縛って、もう一度、上から袋で包む。
二重。
特殊清掃の基本だ。
二重にした袋を、物置の隅へ寄せる。
壁際の一番動かない場所。
踏まない場所。倒れない場所。
「……整頓」
袋が、ぴたり、と角に収まった。
まるで最初からそこに置くために作られていたみたいに。
――その瞬間。
袋の内側から、ぬるり、と何かが動いた気がした。
俺の背中が冷えた。
袋の表面に、黒い染みみたいなものが浮いた。
一滴。
小さいのに、嫌に“存在感”がある。
板が割り込む。
『警告:汚染の滲出を検知しました』
『原因:隔離不完全(微)』
『対処:中和/再封緘』
……微。
微でも、広がったら終わりだ。
俺はすぐに布を新しいものに替え、石鹸を擦り込んだ。
黒い染みに、触れないように――包むように拭う。
「清掃技術」
『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』
『汚染を中和しました(小)』
染みが、薄くなる。
布の方に“移った”感覚がある。
俺はその布を、別の袋に入れて縛った。
これも二重。
そして、汚れた布袋と隔離袋を、物置のさらに奥へ。
「整頓」
配置が固定される。
動線から外れる。
触れなくていい場所へ、片付く。
板が静かに光った。
『条件達成:汚染素材の隔離』
『拠点機能:〖隔離棚〗を解放しました』
『備考:隔離棚内の汚染漏出リスクが低下します』
……隔離棚。
俺は息を吐いた。
胸の奥の重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
俺はもう一度、収納枠を開いた。
『収納枠』
・銀貨×1
汚染核は、もうここにない。
板の赤い光も、消えていた。
***
現実へ戻ると、部屋の空気は相変わらず冷たかった。
薄い壁。安い暖房。近い生活音。
でも――さっきまで感じていた、見えない不安のぬるさが、少しだけ引いた。
俺はクローゼットの前で、板を呼び出す。
「表示」
――――――――――
【八咫優馬】
Lv:4
HP:15 / 18
MP:4 / 5
STR:1
VIT:3
AGI:2
DEX:3
INT:4
LUK:2
スキル:
〖整頓〗Lv2
〖解析〗Lv2
〖清掃技術〗Lv6
〖言語理解(共通語)〗Lv2
称号:
〖境界に触れた者〗
〖空き家の管理者〗
――――――――――
数字は少しずつ増えている。
でも、増えたのは数字だけじゃない。
俺は、汚れを“見て”。
汚れを“隔離して”。
広がる前に“止めた”。
誰も褒めない。
誰も見ていない。
それでも――俺は、やった。
……ただ隠しただけじゃ、終わらない。
汚れは繋がっている。
村の水場。
町の下水。
上流。
放っておけば、また出る。
また滲む。
また誰かの腹が痛くなって、誰かの生活が壊れる。
そしてその“誰か”は、たぶんいつも、弱い方だ。
俺はクローゼットの白い線を見た。
「……次は、根っこだ」
板が、淡々と表示する。
『新規依頼を確認できます』
『推奨:水路清掃/上流点検(町)』
『備考:汚染の発生源を特定すると、拠点の安全性が向上します』
安全性。
その言葉が、妙に欲しかった。
この部屋の。空き家の。
そして――俺の人生の。
俺は布袋の口を縛った。
いつもみたいに、しっかり。
ゴミ袋を縛るみたいに。
でも今日は、違う。
縛るのは、俺の首じゃない。
汚れだ。
危険だ。
奪われる未来だ。
「……明日も掃除する」
上流の汚れも。
境界の汚れも。
俺の人生の汚れも。
片付け直すために。
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