第8話 治療院の白布
下水の匂いは、しつこい。
鼻の奥に貼り付いて、地上に出ても勝手に戻ってくる。
……いや。
正確には、匂いのない空気に、俺の方が戸惑っていた。
衛生係の小屋を出た瞬間、町の風は冷たくて乾いていて――さっきまで足首まで浸かっていた汚水が嘘みたいだった。
「……生き返る」
声がかすれて、自分でも笑いそうになる。
手のひらに残るのは、銀貨一枚の重み。
そして、収納枠の奥に片付けた“濁った珠”――汚染核(小)。
奪われないように片付けたはずなのに、胸の奥にだけ、ぬるい不安が残っていた。
***
門の近くに、リナがいた。
籠を抱えて落ち着かない顔で、何度も通りを見ている。
俺を見つけた瞬間、リナの肩がふっと落ちた。
「ユーマ! ……無事だった?」
無事、って聞かれて返事に困る。
服は泥と臭いで終わってるし、頬はまだ少しヒリつく。
でも――俺は生きてる。
「……死んでない。仕事、終わった」
「仕事って……あの札、受けたの?」
リナが目を丸くする。
俺は短く頷いた。
それだけで、リナは俺の袖を見て眉をひそめる。
「それ、洗わないと。皮膚、荒れるよ」
荒れるどころじゃないのを、俺は知ってる。
“腐食”って文字を、板が出してきたから。
布袋から石鹸と布を出して、俺は言った。
「……ここで少し落とす。手伝わなくていい」
「でも、水……」
リナが視線を泳がせる。
町の水場は人目が多い。今の俺が行けば、余計に面倒が増える。
だから、最低限。
段取りを組む。
「……清掃技術」
口にした瞬間、石鹸の匂いが少し強くなる。
自分の手が“道具”になる感覚。
俺は布を濡らし、袖口から腕へ、汚れを広げないように拭いた。
臭いが、少し薄くなる。
『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』
『簡易除菌/消臭(小)』
……小。
微じゃない。
下水の中で上がった熟練度のせいだ。
俺は頬も、そっと拭った。
ヒリつきが引いていく。
『腐食を中和しました(微)』
『炎症を抑えました(微)』
リナが唖然とした顔で俺を見る。
「……それ、やっぱり魔法だよね?」
「……拭いただけ」
「拭いただけで、そうなる?」
なるんだよ。
掃除屋の俺が、一番困ってる。
***
拭き終えたところで、俺は思い出した。
村長の紹介状。
治療院と、商人組合。
やらなきゃいけない段取りが、まだ残っている。
「リナ。治療院、どこだ」
「行くの? ……うん、案内する。こっち」
リナは迷いなく先に立った。
路地を抜けるたび、町の音が増える。
呼び込み。荷車。鍛冶場の槌。人の声。
それに――視線。
汚れた服。腰の短剣。手の箒。
勝手に貼られる値札が、肌に刺さる。
慣れてる。
慣れてるけど、胃が縮むのも同じだ。
***
治療院は、白い布の匂いがした。
扉を開けた瞬間、鼻の奥がふっと軽くなる。
床は木。壁は白い。どこも整っている。
……掃除屋として、落ち着く場所だ。
受付の女性が、俺とリナを見て眉を上げた。
「診療? それとも――」
リナが封の紙束を差し出す。
「村長の紹介状です。水のことで……」
女性の表情が変わった。
「……奥へ。先生に渡して」
通された部屋は、薬草と消毒みたいな匂いが混じっていた。
机の向こうにいたのは、眼鏡をかけた治療師。三十代くらい。目が疲れているのに、視線は鋭い。
「村からの紹介状……?」
封蝋を割って、紙を読む。
治療師の眉が、少しずつ寄っていく。
「……汚染の疑い、か」
背筋が冷える。
俺が下水で見た文字と同じだ。
治療師は俺を見る。
「君が、村長が書いた『外の者』だな。名は」
「……ユーマ」
「村で、どんな症状が出ている? 腹痛か、発熱か、皮膚の炎症か」
「腹を壊す家があるって。水場が臭かった。……俺が掃除したら、匂いは薄くなった」
リナが小さく頷く。
「ほんとです。水、少し変わりました」
治療師は顎に手を当てた。
「汚れが溜まって臭っただけならいい。だが、“汚染”となると話が違う」
彼は続ける。
「水源由来なら、上流で何かが起きている可能性がある。死骸、排泄物、もしくは――」
言いかけて、言葉を止めた。
「……魔力の淀み」
下水の黒い膜が、頭に浮かぶ。
生きてる汚れ。広がる汚れ。
治療師の声が落ちる。
「君は、町でも似たものを見たか」
見た。
ブラック・スライム(汚染個体)。汚染核(小)。
……でも、俺は言えなかった。
価値が高いものほど、奪われる。
現実で染みついた癖が、勝手に口を閉じる。
嘘はつかなかった。
ただ、言わなかった。
「……下水で、黒い汚泥は見た。詰まりの原因だった」
治療師の目が細くなる。
「下水か。町の水路も繋がっている。村が汚れているなら、町にも影響が出る」
彼は立ち上がり、机の上に別の紙を置いた。
「商人組合にも同じ内容を回す。衛生係にもだ。……動く」
“動く”。
その言葉が、刺さる。
現実で俺が何を言っても誰も動かないのに。
ここでは、動く人がいる。
治療師は視線を俺の手元――箒に落として言った。
「君は掃除屋と言ったな。汚れの扱いに慣れているなら、協力できることもあるだろう」
「……分かった」
「それと、君自身も洗浄しておけ。治療院の水場を使え」
使っていい、と言われることに慣れていない。
でも、口は動いた。
「……ありがとうございます」
***
治療院の裏の小さな水場で、俺は腕と顔を洗った。
石鹸を泡立て、段取り通りに汚れを落とす。
『経験値を獲得しました』
『清掃行為が“成長”として認識されました』
……どこでも出る。
俺のやることが、俺に返ってくる。
それが、少しだけ嬉しい。
リナは少し離れて待っていて、俺が終わると小さく笑った。
「だいぶ、匂い取れたよ」
「……下水の中で、板に“臭いに少し強くなる”って出た」
「板?」
「……いや、なんでもない」
説明を始めたら、俺が一番詰む。
俺は話題を変えるように言った。
「次、商人組合。村長の手紙、もう一つ」
「うん。行こ」
***
商人組合は、治療院より騒がしかった。
帳簿と声と、金の匂い。
受付の男が紹介状を見て眉を上げた。
「村長の印……。水の件か」
「治療院にも渡した」
「なら話が早い。衛生係と、水売りにも回す」
男は俺を見る。
「名前は」
「ユーマ」
「身分証は?」
「……ない」
空気が一瞬だけ硬くなる。
でも俺の首には、村の滞在札が下がっている。
俺は木札を見せた。
【期限:三日】
【保証:リナ】
受付の男が鼻を鳴らす。
「村の札か。町は別だが――」
男の視線が、俺の服の汚れの残りと、箒に落ちる。
「……下水清掃、受けたのはお前か?」
「受けた。詰まりは流した」
「衛生係の印は」
俺は衛生係にもらった受領の紙片を差し出した。
男はそれを確認し、短く頷く。
「よし。臨時だ。七日だけ、町を歩ける札を出す。保証人はいない。問題を起こしたら即追放だ」
追放。
怖いけど、分かりやすい。
「……起こさない」
男が木札を一枚、机に置いた。
【期限:七日】
【臨時】
俺は指でなぞって、読めることを確認する。
読めるだけで、少し安心する。
受付の男が続けた。
「水の件は上も動くが、人手が足りねぇ。汚れ慣れがいるなら依頼も回せる」
「……どんな依頼」
男が掲示を指す。
木札がずらりと並ぶ中に、目につく文字があった。
【水路清掃/上流点検 報酬:銀貨一枚】
……上流。
受付の男が笑った。
「掃除は金になる。嫌なら帰れ」
帰れる場所がある。
その事実が、胸の奥を少し軽くする。
「受ける。……でも今日は無理だ。日が落ちる前に戻らないと」
「好きにしろ。札は逃げねぇ」
逃げるのは、俺の方だ。
でも今日は逃げるためじゃない。“帰るための段取り”で帰る。
***
町の門を出る前、リナが小さく言った。
「ユーマ、次は上流に行くの?」
「たぶん。汚れは繋がってる。……放っておけない」
放っておけない。
その言葉が自分の口から出るのが不思議だった。
現実の俺は、放っておかれてきた側なのに。
リナは少しだけ笑って、頷いた。
「じゃあ、私も。森は危ないから、一人はダメ」
“一人はダメ”。
刺さる。でも、嫌じゃない。
「……ありがとう」
俺はそれだけ言って、町を出た。
***
夕方の森を、拠点方向表示の矢印と目印の枝と石で辿る。
空き家の玄関が見えたとき、やっと息が吐けた。
扉を開け、敷居を跨いだ瞬間。
『管理者権限を確認』
『境界通路:再展開しますか?』
『消費MP:1』
「……再展開」
『MP:5 → 4』
『境界通路が安定しました』
廊下の壁に白い線が走る。
鍵穴も取っ手もない扉が割れて、向こう側――俺の部屋のクローゼットが見えた。
俺は境界をくぐる。
***
現実の空気は冷たくて薄い。
暖房の効きが悪い部屋。薄い壁。近い生活音。
ここが俺の現実だ。
でも、俺の中身は少しずつ変わっている。
俺は布袋を床に置き、板を呼び出した。
「表示」
――――――――――
【八咫優馬】
Lv:4
HP:15 / 18
MP:4 / 5
STR:1
VIT:2
AGI:2
DEX:2
INT:3
LUK:2
スキル:
〖整頓〗Lv2
〖解析〗Lv2
〖清掃技術〗Lv6
〖言語理解(共通語)〗Lv2
称号:
〖境界に触れた者〗
〖空き家の管理者〗
――――――――――
『ステータスポイント:3』
迷わない。
倒れないために。
外さないために。
段取りを組むために。
『VIT:2 → 3』
『DEX:2 → 3』
『INT:3 → 4』
頭の中の線が、少しだけ太くなる感覚。
「……よし」
そして、俺は収納枠を開いた。
『収納枠』
・銀貨×1
・汚染核(小)×1
その瞬間、板が赤く光った。
『警告:汚染素材を収納しています』
『隔離を推奨します』
『備考:収納枠の汚染リスク:低→中』
「……は?」
隔離。
汚染リスク。
収納は“片付け”のはずなのに、片付けた先で増える汚れがある?
もし、この汚染が――境界を越えて、この部屋に漏れたら?
俺は反射でクローゼットを見た。
白い線は閉じている。けど、ここは繋がっている。
異世界の汚れと、俺の現実が。
息を吸って、俺は呟いた。
「……まずは、隔離だ」
掃除屋として。
管理者として。
そして、自分の人生を片付け直すために。
俺は布袋を掴み、立ち上がった。
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