第7話 下水の銀貨

詰所の壁に貼られた木札は、どれも「信用」の値札だった。

 依頼。報酬。期限。

 読み書きができるようになったせいで、逆に逃げられない。


 俺は息を止めて、ひとつの札を見た。


【下水清掃 報酬:銀貨一枚】


 銀貨。

 銅貨一枚の重さで、心が落ち着いた俺が――銀貨一枚なんて握ったら、どうなる。


 ……でも、俺に必要なのは、落ち着きじゃない。

 期限だ。金だ。入れる値札だ。


 俺は小さく呟いた。


「解析」


 視界の中央に、“板”が割り込む。


『対象:依頼札(下水清掃)』

『報酬:銀貨1(換算:銅貨50相当)』

『危険:中(汚染/害獣)』

『備考:衛兵詰所の許可が必要』


 銅貨五十。

 村の滞在札が銅貨二枚だったことを思い出して、喉が鳴った。


 ……危険:中。

 でも、教室の危険は「高」でも誰も表示してくれなかった。

 こっちは、少なくとも分かりやすい。


「おい。何見てんだ」


 衛兵が覗き込んできた。

 俺は札から目を離さずに言った。


「これ。下水清掃。受けたい」


「……はぁ? ガキが?」


 笑われると思った。

 いつも通り、馬鹿にされて、終わると思った。


 でも、衛兵は次に俺の腰――短剣と、手に持った箒を見た。

 笑いは消えた。代わりに、面倒そうな顔。


「掃除屋か?」


「……掃除なら、できる」


 嘘じゃない。

 俺の武器は剣でも魔法でもなく、段取りと掃く手首だ。


 衛兵は舌打ちして、顎で奥を指した。


「勝手に潜って死なれても困る。衛生係に回す。署名できるか?」


 署名。

 手続き。

 現実で一番嫌いなやつ。


 でも、今は逃げない。


「……できる」


 俺は炭みたいなペンを渡され、紙に名前を書いた。

 歪んだ字でも、読めるだけで少しだけ救われる。


 すぐに別の男が来た。

 革の前掛け。鼻に布。手は荒れている。


「下水番のブラムだ。……お前が志願者?」


 俺は頷いた。


「ユーマ」


「ユーマね。……細いな。死ぬなよ。死なれると掃除が増える」


 冗談か本気か分からない声で言って、ブラムは先に歩き出した。

 俺は、箒を握り直してついていく。


 ***


 下水の入口は、町の端の石畳にあった。

 鉄の蓋。鎖。鍵。

 開けた瞬間、匂いが殴ってくる。


 腐った水。酸っぱい汚れ。

 それに――鼻の奥に貼り付く、黒い臭い。


 俺は反射で顔をしかめた。

 特殊清掃の現場の匂いとは違う。

 “生きてる汚れ”の匂いだ。


 ブラムが松明を突き出した。


「持て。落とすな。落としたら拾うな。拾うなら腕が腐る」


「……分かった」


 階段を下りる。

 石が湿って滑る。

 水音が近い。暗い。


 数段降りただけで、喉が乾いた。

 俺は口の中の唾を飲み込みながら、板を呼んだ。


「表示」


――――――――――

【八咫優馬】

Lv:3

HP:16 / 16

MP:5 / 5

――――――――――


 状態異常は出ていない。

 でもこの匂い、長く吸ったら体がやられる気がする。


 俺は布袋から石鹸と布を取り出し、布を鼻と口に当てた。

 石鹸を少し擦って匂いを誤魔化す。


 ブラムが鼻を鳴らした。


「道具持ちか。……悪くない」


 下水路は、思ったより広かった。

 人がすれ違える程度。水が足首まで。

 壁には苔。床には泥。


 ブラムが言った。


「詰まりが出てる。上の通りで水が逆流した。原因はここだ」


 指さされた先、曲がり角の奥に――黒い塊があった。

 泥じゃない。

 油みたいに光っていて、じわじわ動いている。


 俺の背中が冷えた。


「解析」


『対象:下水汚泥(塊)』

『状態:汚染(小)』

『危険:低(接触)/中(摂取)』

『備考:継続的に発生中』


 ……村の水場で見た“汚泥”と似ている。

 同じ文字――汚染。


 ブラムが鼻布の上から声を落とす。


「触るな。削って流すな。広がる。……だから、困ってる」


 俺は頷いた。

 段取りを組む。


 汚れを広げない。

 動線を作る。

 塊を“包んで”取る。


 俺は布を二枚重ね、石鹸を擦り込む。

 濡れた壁に布を押し当てて、滑らせる。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


 板が淡々と出る。

 今はありがたい。俺の手が正しいって、勝手に証明されるから。


 黒い塊に布を近づけた瞬間、ぬるり、と嫌な冷たさが指に伝わった。

 痛みが走りそうになって、俺は息を止める。


「……清掃技術」


 言葉にした瞬間、布がほんの少し温かくなる。


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『簡易除菌/消臭(小)』

『汚染を中和しました(微)』


 “微”でもいい。

 ゼロよりは、ずっといい。


 俺は布で塊を包むように押さえ、外側から少しずつ削っていく。

 泥じゃない。

 削ってるのに、戻ろうとする。


 ……生きてる。


 ブラムが低く唸った。


「……やっぱりか」


「やっぱり?」


 俺が聞き返した瞬間だった。

 黒い塊の中心が、びくり、と跳ねた。


 次の瞬間、塊が膨らんだ。

 水が盛り上がり、黒い膜が立ち上がる。


 “板”が勝手に表示する。


『対象:ブラック・スライム(汚染個体)』

『Lv:4』

『HP:18 / 18』

『特徴:粘着/腐食/汚染拡散』

『弱点:乾燥/アルカリ/火』


 Lv4。

 俺より上。


 でも、弱点が出てる。

 段取りは組める。


 ブラムが後退した。


「おい、冗談だろ……! 俺は戦えねぇぞ!」


「……俺も、戦える顔じゃない」


 口に出して、少しだけ笑いそうになった。

 でも、笑えない。


 スライムが、ずるり、とこちらへ伸びる。

 水が跳ね、黒い滴が飛んだ。


 腕に当たりそうになって、俺は反射で箒を振った。

 払う。掃く。

 穂先が粘液を弾く。


『ブラック・スライムにダメージ:1』

『HP:18 → 17』


 ……効いてない。

 でも、止まった。ほんの一瞬。


 弱点は乾燥とアルカリ。


 俺の荷物の中には――石鹸。

 アルカリかどうかは知らない。でも、村の水場の汚泥は中和できた。


 それと、ここには“灰”があるはずだ。

 下水の臭い消しに使うやつ。現実でも、灰や石灰は使う。


 俺は周囲を見回して呟く。


「解析」


『対象:木桶』

『内容:灰(乾燥)』

『用途:消臭/滑り止め』

『備考:アルカリ性(弱)』


 あった。


 ブラムが叫ぶ。


「おい! 何して――」


「借りる」


 俺は桶に手を伸ばし、すぐ止めた。

 持ち上げるには重い。STRは1。


 だから――。


「整頓」


 次の瞬間、桶が“正しい位置”へ滑った。

 俺の足元、スライムの進路の先。

 倒せば当たる角度。


 俺は箒の柄で桶を叩いて倒した。

 灰が舞う。乾いた粉が、黒い膜に張り付く。


 スライムが、ぎゅっ、と縮んだ。

 動きが鈍る。


『ブラック・スライムに状態異常:乾燥(微)』

『移動速度が低下しました』


「今だ……!」


 俺は中古の短剣を抜いた。

 狙うのは核。

 スライム核とは違う。黒い塊の中心に、濁った光が見える。


 スライムが伸びる。粘液が足元に絡みつこうとする。

 俺は石畳の欠片を拾った。


「整頓」


 石が、スライムの足元――いや、粘液の薄い部分に並ぶ。

 踏めば滑る配置。

 回り込む隙間を潰す配置。


 スライムの動きが、さらに一拍遅れた。


 俺は踏み込んだ。

 短剣を、まっすぐ。


 ぶつり、と手応え。


『ブラック・スライムにダメージ:6』

『HP:17 → 11』


 当たった。

 でも、終わらない。


 黒い膜が暴れ、腐食した滴が跳ねた。

 頬に熱い痛みが走る。


『HP:16 → 15』

『状態:軽度腐食(微)』


 視界が滲みそうになって、俺は歯を食いしばった。


 ここで引いたら、スライムはまた汚染を広げる。

 村の水場みたいに。町の水も、同じになる。


 ……それは、嫌だ。

 誰かが腹を壊して、誰かが死ぬ匂いがする。

 俺は、その匂いだけは知ってる。


 俺は布を引き千切るみたいに掴んで、石鹸を擦り込んだ。

 そして、自分の頬を拭った。


「清掃技術」


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『腐食を中和しました(微)』

『炎症を抑えました(微)』


 痛みが引く。

 理屈は分からない。

 でも――使える。


 俺はもう一度、灰を蹴り上げた。

 黒い膜に粉が張り付く。


 スライムが縮む。核が、はっきり見える。


 俺は短剣を捻った。

 核に引っ掛けるように。抜かない。逃がさない。


『ダメージ:7』

『HP:11 → 4』


 スライムが、喉のない声で鳴いた気がした。

 水が跳ねる。汚れが暴れる。


 ――最後。


 俺は箒を突き出して、核の周りの膜を押し固める。

 逃げ道を潰す。

 動線を潰す。

 掃除屋の段取りで、モンスターを“片付ける”。


 短剣を、深く。


『ダメージ:5』

『HP:4 → 0』


 黒い膜が、ぺたり、と落ちた。

 水に溶けるみたいに広がり、中心に濁った珠が残る。


 板が光る。


『モンスターを討伐しました』

『経験値:――』

『レベルアップしました』

『Lv:3 → 4』


 膝が笑いそうになった。

 でも、倒れない。

 倒れたら、下水に顔を突っ込む。


 ブラムが、しばらく固まってから言った。


「……お前、何者だ」


「……掃除屋」


 それ以上、言いようがない。


 俺は濁った珠を拾い上げた。


「解析」


『対象:汚染核(小)』

『用途:汚染素材/研究素材/換金(特殊)』

『価値:銀貨2(相場:銀貨1~3)』

『注意:破損で汚染漏出の恐れ』


 銀貨二枚。

 でも――今ここで見せたくない。

 価値が高いものほど、奪われる。


 俺は即座に言った。


「収納」


 珠が消える。

 指先が、やけに冷たくなった気がした。


 板が続けて出る。


『スキル〖清掃技術〗:熟練度 5 → 6』

『効果:汚染中和(微)→(小)』

『追加効果:悪臭耐性(微)』


 ……悪臭耐性。

 今の俺に、一番要るやつかもしれない。


 ***


 地上に戻ると、空気が軽くて、逆に怖かった。

 鼻が、匂いのないことに戸惑う。


 衛生係の小屋で、俺は報酬を受け取った。

 銀貨一枚。小さく、白い光。


 手のひらに置かれた瞬間、重さが来た。

 銅貨の比じゃない。

 重いのに、落ち着く。


 俺は無意識に呟く。


「解析」


『対象:銀貨』

『価値:銅貨50相当』

『備考:町内で通用』


 ……通用。

 それが、刺さる。


 現実の俺は、どこにも通用しないって言われ続けてきた。

 でも今、これは“通用する”って表示された。


 衛生係が言った。


「下水の詰まりは流れた。……それと、その黒いの。あれが出たなら、また起きる。上からの指示で調査隊が組まれるが、手が足りねぇ」


 俺は銀貨を握ったまま、黙って聞いた。


「お前みたいに、汚れを怖がらねぇ奴は貴重だ。次の札も見とけ」


 貴重。

 値札を貼られた気がした。

 悪い値札じゃないやつ。


 俺は銀貨を落とさないように、指を強く曲げて言った。


「……分かった」


 そして、最後に。


「収納」


 銀貨が消える。

 手の中は空になったのに、重さだけは胸に残った。


 奪われない形で。

 片付けた形で。

 俺の手元に残る、信用の重さ。


 夕方の光が町の壁を赤く染めていた。

 今日中に、空き家へ戻らないといけない。

 戻って、境界を再展開して、現実へ帰らないといけない。


 ――でも。


 下水の黒い膜が最後に見せた、濁った光が頭から離れない。

 村の水場の汚泥と、同じ匂いだった。


 汚れは、繋がっている。

 町と村と、どこかの“水源”で。


 俺は箒を握り直した。


「……結局、掃除かよ」


 でも、悪くない。

 汚れは、片付けられる。

 値札だって――拭いて、稼げる。

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