第4話 森の値札

森の匂いが、肺の奥まで入り込む。

湿った土。青い葉。――獣の匂い。


俺は空き家の玄関の敷居をまたいで、一歩だけ外へ出た。


その瞬間、視界に“板”が割り込んだ。


『警告:管理者が建物外に出ました』

『境界通路は閉鎖状態へ移行します』


「……やっぱり、閉じるか」


振り返る。

家の中――壁にあったはずの白い線は、もう見えない。


さっきまで俺の部屋のクローゼットに繋がっていた道は、きっちり“片付けられた”。

誰にも見つからないのは都合がいい。……でも、戻れなくなったら意味がない。


俺は板を呼び出した。


「表示」


――――――――――

【八咫優馬】

Lv:2

HP:14 / 14

MP:5 / 5

――――――――――


MPは満タン。

再展開に1消費するなら、あと5回は“帰り道”を作れる。


回数制限みたいに見えるだけで、急に怖い。


……そのとき、板がまた勝手に切り替わった。


『拠点を登録しました』

『拠点:空き家』

『機能:拠点方向表示(簡易)』


視界の端に、小さな矢印が浮かぶ。

家の方向を指していた。


「……迷子対策まで付いてんのかよ」


便利すぎて、逆に信用できない。

俺は“矢印”を信じつつ、それでも保険を作ることにした。


足元の石と枝を拾い集める。

段取りが頭の中に組み上がるのが、自分でも分かる。


「……整頓」


石が滑り、枝が揃う。

道の脇に、矢印みたいな目印ができた。枝の先を家の方へ向けて、石で固定して倒れないように。


板が短く表示する。


『整頓による配置が成功しました』


……こういう“当たり前”に、いちいち結果を付けられるのが腹立つ。

でも、腹が立つのに、安心するのも事実だった。


俺は箒を握り直し、腰の短剣を確認する。

耐久は少ない。だが今は贅沢は言えない。


「……行くぞ」


俺は森の道を歩き始めた。


***


森は静かだ。

静かすぎて、逆に耳が痛い。


教室のざわつきも、いじめの笑い声もないのに。

それなのに、心臓の音だけがうるさい。


……いや。森には、別の音がある。


枝が折れる音。

遠くの鳥の鳴き声。

そして、ときどき――低い唸り。


俺は足を止め、地面を見た。泥に残った足跡。


大きい。四足。

昨日のレッドアイ・ハウンドより小さいが、数が分からないのが嫌だ。


「解析」


『対象:足跡』

『推定:魔獣(小型)』

『経過時間:新しい』

『危険:低(単独)/中(群れ)』


「群れは……勘弁してくれ」


森での段取りは、“戦わない段取り”だ。

見つかったら逃げる。逃げ場がないなら戦う。

それだけは、頭に叩き込んで進む。


しばらく歩くと、木々の隙間が少し明るくなった。

小さな沢が流れている。水は透明で、冷たそうだった。


喉が渇いていたことに、ここでやっと気づく。


俺はしゃがみ、手で水をすくい――止まった。


知らない水は怖い。

現実で染みついた癖が、勝手にブレーキをかける。


「……解析」


『対象:沢の水』

『状態:清浄(飲用可)』

『備考:寄生虫リスク:低』


低。ゼロじゃない。


でも、喉の乾きが勝った。

俺はできるだけ上流で、そっと飲んだ。


冷たい水が喉を通って、胸の奥まで落ちていく。

……少しだけ、生き返る。


その時。


「――きゃっ!」


女の子の声。


反射で顔を上げる。


沢の向こう、草むらが揺れ、その場に尻もちをついた少女が見えた。

俺と同じくらいの歳。茶色い髪をまとめ、肩から籠を下げている。中には薬草みたいな葉が詰まっていた。


そして――彼女の足首に、緑色の塊が絡みついていた。


粘液。

ゼリー。

……スライム。


板が勝手に情報を出す。


『対象:グリーン・スライム』

『Lv:1』

『HP:6 / 6』

『特徴:粘着/軽度腐食』

『弱点:乾燥/火』


腐食。触れたら危ない。


少女は短いナイフで切ろうとしているが、刃が粘液に取られて動かない。

スライムがじわじわ足首を包むたび、彼女が顔を歪める。


「……!」


考えるより先に体が動いた。


俺は沢を飛び越えた。

水が跳ね、靴が濡れる。滑りそうになりながら踏ん張る。


箒を構え、スライムの上に叩きつけた。


掃く。

払う。

汚れだけを飛ばす時の、あの手首の返し。


粘液が散る。だが散った分だけ、また集まろうとする。


弱点は乾燥。

なら――乾かす。


俺は箒で地面の乾いた砂を掻き集め、スライムにぶちまけた。

砂が粘液を吸って重くなる。


動きが鈍った。


「今だ……!」


俺は短剣を抜き、粘液の中心を狙う。

解析で見えた“核”。外したら終わる。


段取り。

箒で砂を押し込んで核の位置を固定し、逃げ道を塞ぐ。


短剣を、まっすぐ。


ぶつり、と手応え。


『グリーン・スライムにダメージ:4』

『HP:6 → 2』


まだ生きてる。


スライムが暴れ、粘液が跳ねた。

腕に飛んできて、熱い痛みが走る。


『HP:14 → 13』

『状態:軽度腐食(微)』


「くそ……!」


俺は反射で沢の水で洗った。

――でも、洗うだけじゃ痛みが残る。


その瞬間、板が切り替わる。


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『簡易除菌/消臭(微)』

『腐食を中和しました(微)』


痛みが、すっと引いた。


……除菌と消臭で、腐食が中和?

理屈は分からない。だが助かった。


俺は息を吐き、もう一度スライムへ。


粘液が戻る前に、箒で砂を寄せ、短剣を捻る。


『ダメージ:2』

『HP:2 → 0』


スライムが、ぺたり、と崩れた。

ゼリーが溶けるみたいに広がり、中心に小さな透明の珠が残る。


『モンスターを討伐しました』

『経験値を獲得しました』

『レベルアップしました』

『Lv:2 → 3』


掃除して、戦って、片付けたら――レベルが上がる。


教室でどれだけ耐えても上がらなかった“俺の価値”が、ここでは数字になって増える。


板が続けて表示する。


『ステータスポイント:3』

『スキルポイント:1』


……今は振ってる場合じゃない。


俺は板を消し、尻もちをついた少女の方を見た。


彼女は足首を押さえたまま、呆然としている。

目が見開かれて、俺を見ていた。


俺は一歩近づき――止まる。


距離の取り方が分からない。

現実では近づけば殴られるか、笑われるか。

“近づく”こと自体が怖い。


それでも放っておけない。


俺は腰を落として、できるだけゆっくり声をかけた。


「……大丈夫か。足、見せて」


返ってきたのは、聞き慣れない言葉だった。


「――っ……(※異世界語)」


意味が分からない。


そりゃそうだ。異世界なんだから。

……詰んだ。


そう思った瞬間、板が割り込む。


『条件達成:異世界住民との接触』

『スキル〖言語理解(共通語)〗を獲得しました』

『備考:基礎会話のみ』


少女の口が動く。


「た、助けてくれて……ありがとう」


……分かった。

分かってしまった。


便利すぎて、怖い。


俺は喉を鳴らして、短くうなずく。


「……いや。放っとけなかっただけ」


少女はおそるおそる足首を見せた。

赤く腫れ、粘液が少し残っている。


俺は沢の水を布に含ませ、そっと拭った。


「痛かったら言って」


「……うん」


拭った瞬間、板がまた光る。


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『簡易除菌/消臭(微)』

『炎症を抑えました(微)』


少女が目を丸くした。


「いま、何をしたの……?」


「拭いただけ」


嘘じゃない。

ただ、俺の“拭く”が普通じゃなくなってるだけだ。


俺はスライムの残骸に目をやり、透明の珠を拾う。


「解析」


『対象:スライム核(小)』

『用途:素材/換金』

『価値:低(一般)』


低。

でも、ゼロじゃない。


俺は珠を握り、板に言った。


「収納」


珠が消える。

少女の目がさらに見開かれた。


「いまの……魔法?」


「……たぶん、そう」


説明できない。俺自身が一番分からない。


少女は胸の前で手を組み、深く頭を下げた。


「私はリナ。近くの村で薬草を集めてる。助けてもらったお礼をしたい」


村。

人がいる。店がある。


……売れる場所が、ある。


胸が少し軽くなって、同時に怖くなる。

人がいる場所には、面倒がある。現実で嫌というほど知ってる。


でも、金がないと、現実の俺は詰む。


俺は短く息を吐いた。


「……俺はユーマ。村って、この森の外か?」


「うん。ここからなら近いよ。日が落ちる前に戻らないと危ないけど……一緒に行く?」


“一緒”が刺さる。

現実では、誰かと並んで歩くことなんてなかった。


……それでも。


この子は、さっき俺に頭を下げた。

それだけで信じたくなる自分が、怖い。


疑う癖を飲み込んで、俺はうなずいた。


「……案内してくれるなら助かる」


リナは、少しだけ笑った。


「じゃあ急ごう。森は夜が早いから」


俺たちは並んで歩き出した。


***


森を抜けると、景色が変わった。


木の密度が薄くなり、遠くに草原が見える。

畑らしき区画もある。

人が作った道が、ちゃんと続いている。


……文明だ。


リナが道の先を指さす。


「あそこ。見える? あの煙。あれが村」


煙。屋根。小さな柵。


村の入口には、槍を持った男が立っていた。見張り――門番だ。


リナが手を振る。


「ただいまー!」


門番は笑って手を振り返し――次の瞬間、俺を見て表情が硬くなった。

槍先が、少しだけ上がる。


「リナ。そいつは?」


……来た。


俺は反射で背筋を伸ばした。

教室で浴びた“先生の視線”みたいな冷たさが、胸の奥に刺さる。


リナが門番に言う。


「森でスライムに襲われたときに助けてくれたの。旅の人みたい」


旅。

……そういうことにしておこう。


門番の目が、俺の短剣と箒に移る。


「身分証は?」


「……ない」


言った瞬間、空気が冷えた。

リナの顔が少し青くなる。


門番は短く息を吐き、槍を地面に打ちつけた。


「なら、村長のところへ来い。勝手に入れると思うな」


……そうだよな。


俺はうなずくしかなかった。


でも、逃げなかった。

逃げるのは、もう飽きた。


俺は箒を握り直し、門の向こうへ一歩踏み出した。


――ここが、俺の“金になる場所”の入口だ。

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