第3話 掃除当番の経験値

朝、目を覚まして、最初にやったことは――クローゼットを開けることだった。


白い線。


鍵穴も取っ手もない、あの境界。


昨夜、確かにここに“設置”した。

でも、朝になったら消えているんじゃないかって、どこかで思っていた。


俺の人生は、そういうふうにできているからだ。

手に入れたと思った瞬間に、奪われる。


なのに。


線は、まだそこにあった。


「……よかった」


声が漏れた。

誰に聞かせるでもないのに。


手のひらを当てると、境界がすっと割れる。

向こう側から、木の匂いが流れ込んできた。暖炉の煤。乾いた床板。


この匂いだけで、胸の奥が軽くなるのが怖い。


視界に、いつもの“板”。


『HPが回復しました』

『MPが回復しました』


――回復するんだ。

寝ている間に。


俺は「表示」と呟いた。


――――――――――

【八咫優馬】

Lv:2

HP:14 / 14

MP:5 / 5


STR:1

VIT:2

AGI:2

DEX:2

INT:1

LUK:1


スキル:

〖整頓〗Lv2

〖解析〗Lv1

〖清掃技術〗Lv3

称号:

〖境界に触れた者〗

〖空き家の管理者〗

――――――――――


数字は少ない。

でも、昨日の俺よりは確実に増えている。


現実の世界じゃ、俺の“増えた”が誰にも分からない。

分かるのは、削られたところだけだ。


俺は、クローゼットの隙間から空き家の玄関を覗いた。


……赤い目の山犬の死体は、まだそこにあるはずだ。

昨日は血だけ拭いて、魔石だけ回収して、必死で現実に戻った。


片付けるなら、今だ。

でも――時計を見る。


学校。


遅れたら遅れたで、また面倒になる。


「……夜にする」


俺は境界を閉じた。

クローゼットの扉も閉める。


この世界で、俺が生き残るには、“隠す”ことも仕事だ。


***


学校への道は冷たい。

でも、今日は息が上がらない。


鞄が軽い。

坂道が苦じゃない。


気のせいじゃない。

体が変わっている。


俺は手の甲の傷を見た。

昨日、獣の爪が掠めたところ。まだ薄く赤いが、腫れはほとんどない。


「VIT……か」


小さく呟いて、すぐに口をつぐんだ。

こんなこと、誰にも言えない。


校門をくぐると、胃が縮む。

空気が変わる。


ここは、俺を“ゴミ”と呼ぶ場所だ。


教室に入った瞬間、笑い声が聞こえた。


「来た来た」

「掃除屋」


視線が刺さる。

耳に入れるだけ無駄だと思って、俺は席に向かった。


その背中に――衝撃。


ドンッ。


肩を押された。

鞄が机に当たって、中身が少し飛び出す。


「わりぃ。手が滑った」


わざとだ。


俺は落ちたプリントを拾った。

拾うしかない。


さらに、もう一撃。


ドンッ。


今度は机を蹴られた。

椅子が鳴って、膝が机に当たる。


痛い。


――でも、倒れない。


いつもなら、ここで体が縮む。

呼吸が苦しくなる。


今日は、息が詰まらなかった。


俺は顔を上げた。


相手の笑みが、ほんの一瞬だけ揺れた。

“いつも通り”じゃない俺を見たから。


俺は何も言わない。

代わりに、飛び出したプリントを机の上に揃えた。


角を合わせる。

端を揃える。


整える。


胸の奥の騒音が、少しだけ静かになる。


「……ムカつくんだよな、そういうの」


低い声が落ちた。


俺は返事をしない。

返事をしたら、そこに“会話”が生まれる。

会話は、俺に許されていない。


授業が始まっても、先生は何も言わなかった。

いつも通り、黒板に字を書いて、いつも通り、見て見ぬふり。


……これが現実だ。


***


放課後。


掃除の時間。


箒と雑巾が配られる。

今日の当番表を見た誰かが、面白そうに口を開いた。


「八咫、廊下とトイレな。お前、得意だろ?」


笑い声。


掃除が“罰”扱いされるのが、昔から嫌だった。

掃除は、誰かのために場所を整える仕事だ。

馬鹿にされる筋合いはない。


でも――ここで反抗したところで、状況は変わらない。


俺は箒を手に取った。


やる。


ただし、俺のために。


廊下に出る。

窓から風が入り、床には砂と黒い土が薄く広がっている。


俺は掃いた。


角から角へ。

ゴミを散らさず、寄せて、集めて、まとめる。


その瞬間、視界に文字が浮かんだ。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


「……」


喉が鳴った。


本当に、ここでも出る。


俺の“仕事”が、学校の廊下でも経験値になる。


俺は箒を動かす手を止めずに、床の隅までゴミを寄せた。

砂が散りにくい。まとまりがいい。


これが〖清掃技術〗の効果なのかもしれない。


背後から足音が近づいた。


「まだやってんの?」

「早く終わらせろよ」


振り返ると、さっき机を蹴ってきたやつが立っていた。

手には、昼の給食で出た牛乳の紙パック。


嫌な予感がした。


次の瞬間、わざとらしくパックが傾く。


白い液体が床に広がった。


「うわ、やっべ。こぼしちゃった」


笑い声。


「掃除屋なんだから、拭けよ」


……こいつらは、俺に汚れを投げてくる。

自分の手を汚さないまま。


俺は黙って雑巾を取り出し、しゃがんだ。


拭く。


乳臭い匂いが立ち上がる。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


――出る。


俺は、心の中でだけ笑った。


こいつらが投げた汚れが、俺の経験値になる。

奪えない形で。


俺は雑巾を絞りながら言った。


「……もう、終わるから」


それだけ。


喧嘩じゃない。

でも、俺の声は思ったより震えていなかった。


相手は一瞬だけ黙って、舌打ちして去っていった。


俺は最後まで廊下を掃き、拭き、ゴミをまとめた。


次。


トイレだ。


***


トイレは、臭い。


掃除当番がサボると、すぐ分かる場所だ。

床の隅に埃。便器の縁に汚れ。手洗い場に水垢。


……ここなら、俺の手が慣れている。


特殊清掃ほどじゃない。

でも、嫌なものから目を逸らさずに“終わらせる”って点では同じだ。


俺はバケツの水を替え、雑巾を濡らして、無言で拭き始めた。


便器の外側から。

床の隅。

手洗い場の排水口。


順番を間違えると、汚れは広がる。

段取りがすべてだ。


『経験値を獲得しました』

『経験値を獲得しました』

『経験値を獲得しました』


板が、立て続けに出る。


俺は無視して手を動かした。


最後に、床を水拭きして、乾拭き。


臭いが少しだけ薄くなった気がした。

その瞬間、板が切り替わる。


『スキル〖清掃技術〗:熟練度 3 → 4』

『効果:簡易除菌/消臭(微)を獲得しました』


「……除菌?」


思わず声が漏れた。


掃除が、ただの掃除じゃなくなる。


汚れを落とすだけじゃない。

“衛生”そのものが強化される。


俺は、手洗い場の鏡に映る自分を見た。


顔は変わってない。

目の下のクマも、消えてない。


でも――俺の中身は、確実に変わっていく。


それを、俺だけは知っている。


***


帰り道、冷たい風を受けながら、俺は考えた。


明日も、きっと同じことが起きる。

むしろ、もっと酷くなるかもしれない。


“いつもと違う”俺に気づいたら、面白がる。


だから、強くならないといけない。


殴り返すためじゃない。


倒れないために。

奪われないために。


部屋に戻ると、俺は真っ先にクローゼットの前に立った。


白い線は、待っている。


俺は境界に手を当てる。


割れる。


木の匂い。


俺は空き家に足を踏み入れた。


玄関には、まだ死体がある。


腐らせる前に片付ける。


……掃除屋として。

管理者として。


まず、解析。


『対象:レッドアイ・ハウンドの死体』

『分類:素材(魔獣)』

『注意:腐敗により衛生リスク増大』


俺は短剣を拾い上げた。


『対象:錆びた短剣』

『効果:攻撃力+1』

『耐久値:3 / 10』


「……今日で終わりだな」


使い捨てでもいい。

今の俺には、これが必要だ。


俺は床の汚れを確認し、雑巾を濡らした。


拭く。


すると、さっき獲得した効果が働く感覚があった。

手が速くなるとか、力が出るとかじゃない。


汚れが、落ちきる。

臭いが、残らない。


『スキル〖清掃技術〗の効果が適用されました』

『簡易除菌/消臭(微)』


「……すげぇ」


現実だったら、道具がないとできない。

でも、ここでは俺の手が“道具”になる。


俺は死体の下に布を滑り込ませ、息を吸って言った。


「……整頓」


布がすっと広がり、死体の下に“ちょうどいい位置”で収まる。

物が勝手に正しい場所に行く感覚。


俺は布の端を掴んで、床を傷つけないように引いた。


重い。

でも、絶望するほどじゃない。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


外へ出したい。


でも、俺が建物の外に出たら、通路が閉じる。


だから――出ない。


玄関の扉を開けた。

森の冷気が流れ込む。


俺は敷居の内側に足を残したまま、布を引いて死体を外へ滑らせた。


ずるり、と土に落ちる音。


板が割り込む。


『境界通路:維持中』

『備考:管理者が建物内に存在』


――維持できる。


昨日は、俺が外に出たから閉じかけた。

なら、俺が中にいる限り、ここは繋がり続ける。


少しだけ安心して、俺は死体の上に落ち葉をかけた。

土をかけるには道具が足りない。今は“目隠し”でいい。


臭いが広がらないように、落ち葉を厚く。


それだけで、玄関の空気が少しだけ良くなる。


俺は扉を閉め、もう一度床を拭いた。


……これで、ひとまず“家”は守れた。


問題は次だ。


金。


俺は板を呼び出して、収納枠を開いた。


『収納枠』

・魔石(小)×1


石が一つ。

これだけじゃ、何も変わらない。


――売る場所が必要だ。


異世界の人間。

町。

店。


俺は箒を握り、短剣を腰に差した。


玄関の扉に手をかける。


外は森だ。

あの草むらの奥には、赤い目みたいなものがまだいるかもしれない。


それでも。


現実の教室よりは、分かりやすい。


危険なら逃げればいい。

倒したら経験値になる。


そして――俺は、掃除で強くなる。


「……行くぞ」


俺は、空き家の扉を開けた。


森の匂いが、流れ込んできた。

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