第2話 赤い目の山犬

赤い目が、草むらの奥で光っていた。


森は静かだ。風が枝を揺らす音だけ。なのに、俺の鼓動だけがやけにうるさい。


犬……いや、山犬だ。首が太くて、前足が短い。地面を掻く爪が、こちらの世界の土を抉っている。


俺は一歩、下がった。


背中に、家の木の扉が当たる。


戻る。戻って、境界の扉へ――。


そう思った瞬間、視界に“板”が割り込んだ。


『警告:管理者が建物外に出ました』

『境界通路は閉鎖状態へ移行します』


「……は?」


閉鎖。


さっきの解析が頭を殴る。――権限保持者が離れると、扉は閉じる。


俺は、今、家の外だ。


つまり――帰り道を、自分で閉めにいってる。


鳥肌が立った。


そのタイミングで、赤い目が動いた。


低い唸り声。葉を踏む音。


獣が、俺を“獲物”として見定めた。


「くそ……!」


考えるより先に、体が逃げた。


扉を押し開け、転がり込むように家へ戻る。反射で扉を叩きつけた。


ドンッ!


すぐ外から、何かがぶつかる衝撃。扉が撓む。木が鳴る。


俺は箒の柄で扉を支えた。……武器じゃない。けど、今の俺にはこれしかない。


もう一撃。


ドンッ!


このままじゃ、破られる。


俺は玄関の狭い空間を見回した。壁際に古い棚。無骨なテーブル。――重そうだ。


俺のSTRは1。持ち上がる気がしない。


なのに、頭の中に“段取り”が浮かんだ。


分類して、動線を作って、配置を決めて、固定する。


掃除の前に、片付ける。


俺は息を吸って、言った。


「……整頓」


次の瞬間。


棚が、すっと滑った。


テーブルが、床を擦る音すら立てずに動いた。


俺の力じゃない。物が勝手に“正しい場所”へ収まる感覚。


扉の前に棚を立て、隙間をテーブルの脚で噛ませる。ぴたり、と。


外からの衝撃が来る。


ドンッ!


さっきより揺れが小さい。棚が受けている。


視界に文字。


『スキル〖整頓〗:熟練度 1 → 2』

『整頓による配置が成功しました』


「……冗談だろ」


冗談みたいな現実が、今日だけで何個目だ。


だけど、助かった。


俺は棚越しに息を整え、廊下の奥を見た。


――白い境界。


あの“鍵穴のない扉”が、細く、薄くなっている。


まるで、目を閉じるみたいに。


喉が鳴った。


閉じたら終わりだ。俺は現実に帰れない。現場に置き去りにした道具。班長の怒鳴り声。……いや、そんな軽い話じゃない。俺が消えたら、もっと面倒なことになる。


俺は棚を飛び越え、廊下を走った。


境界に触れる。


板が光った。


『管理者権限を確認』

『境界通路:再展開しますか?』

『消費MP:1』


MP……。


ゲームみたいな言葉が、急に命綱になるのが怖い。


「再展開……!」


『MP:5 → 4』

『境界通路が安定しました』


白い線が息を吹き返す。向こう側――事故物件の廊下が、はっきり見えた。


戻れる。


それだけで、膝が笑いそうになる。


……でも。


玄関の方で、ガリガリ、と棚を引っ掻く音がした。


獣は、まだいる。


帰るだけなら、今すぐ帰れる。境界をくぐって現実に戻って、仕事を片付けて、家に帰って寝ればいい。


でも、次に来た時も同じだ。外には獣がいる。扉を開けた瞬間、またこうなる。


それに――。


逃げるのは、慣れすぎていた。


教室でも、家でも、俺は逃げ続けてきた。逃げた先にも居場所はなかった。


だから今、初めて出てきた“居場所”を、簡単に手放したくなかった。


俺は壁際に立て掛けられた錆びた短剣を手に取った。


視界に情報。


『対象:錆びた短剣』

『分類:武器(短剣)』

『効果:攻撃力+1』

『備考:耐久値 3 / 10』


「使い捨て……上等だ」


俺は左手に箒、右手に短剣を握った。


玄関へ戻る。


棚の隙間から、赤い目が覗いていた。距離が近い。息が生臭い。


解析。


『対象:レッドアイ・ハウンド』

『種族:魔獣』

『Lv:2』

『HP:9 / 9』

『状態:興奮』

『危険:中(単独)』


単独。


群れじゃない。


なら――段取りで勝つ。


俺は玄関の床の埃を、箒で集めた。隅に寄せて、塊にする。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


今はそれどころじゃないのに、板は容赦なく出る。


……いや、今こそだ。


俺は棚の固定を確認し、扉の閂に手を掛けた。


開けた瞬間、獣は飛び込んでくる。


だから、その瞬間だけ――目を潰す。


息を止める。


閂を外し、扉を一気に開けた。


冷たい空気が流れ込む。


同時に、獣が突っ込んでくる。


「――っ!」


俺は箒を振った。


掃くんじゃない。払う。


床を傷つけずに、汚れだけを飛ばす時の手首の返し。あの動きが、そのまま攻撃になる。


穂先が獣の鼻先を打った。


キャンッ!


短い悲鳴。獣が一瞬ひるむ。


俺は用意していた埃を蹴り上げた。


灰色の粉が舞い、赤い目を覆う。


獣が目を擦る。動きが鈍る。


「今だ……!」


俺は玄関の狭さに体を寄せ、短剣を突き出した。狙いは胴じゃない。外したら終わる。だから――腿。


ブシュッ、と湿った感触。


『レッドアイ・ハウンドにダメージ:2』

『HP:9 → 7』


数字が出た。


ゲームみたいだ。でも、血の匂いは本物だ。


獣が暴れる。爪が俺の腕を掠めた。


熱い痛み。


『HP:12 → 11』


俺のHPも減った。


怖い。


でも、この痛みは、理不尽じゃない。


俺が“やる”って決めた痛みだ。


獣が後退した。目を擦りながら、牙を剥く。


噛まれたら終わる。だから、近づかせない。


俺は箒の柄で獣の肩を押し、距離を固定する。整頓で作った“狭い動線”が、獣の回り込みを許さない。


短剣を、もう一度。


浅く。


『ダメージ:2』

『HP:7 → 5』


獣が唸り、口を開く。白い牙。


俺は反射で箒を横に振った。穂先が頬を打つ。獣が目を閉じた瞬間――短剣を深く。


心臓の位置。


『ダメージ:3』

『HP:5 → 2』


まだ倒れない。


獣は最後の力で突っ込もうとする。俺は歯を食いしばり、柄ごと押し返しながら、短剣を捻った。


『ダメージ:2』

『HP:2 → 0』


赤い目から光が消えた。


獣の体が、床に崩れる。


玄関に静寂が落ちた。


俺の耳には、自分の心臓の音だけが残る。


視界に、文字。


『モンスターを討伐しました』

『経験値:15』

『レベルアップしました』

『Lv:1 → 2』


「……はぁ、はぁ……」


息が苦しい。手が震える。短剣の柄が汗で滑る。


それでも、俺は立っている。


殴られても立てなかった俺が、今は立ってる。


板が切り替わった。


『ステータスポイント:3』

『スキルポイント:1』


ポイント。


俺に、選ぶ権利がある。


現実では、ずっと奪われ続けたのに。


俺は迷わず振った。


STRじゃない。殴り返すためじゃない。


倒れないために。外さないために。動けるように。


『VIT:1 → 2』

『DEX:1 → 2』

『AGI:1 → 2』


数字が変わる。


たったそれだけなのに、胸の奥の重りが少しだけ外れた気がした。


俺は倒れた獣を見下ろす。


血。毛。唾液。


特殊清掃の現場なら、ここからが仕事だ。


俺は苦笑した。


「……結局、掃除かよ」


でも、嫌じゃない。


俺は血が広がる前に拭った。埃を寄せ、布でこそげ取る。床板の目に染み込む前に。


『スキル〖清掃技術〗:熟練度 2 → 3』

『衛生管理が強化されました』


現実で身につけたはずの技術が、ここで“強化”される。


無駄なことなんて、ひとつもしてこなかったのかもしれない。


獣の胸元から、小さな石が転がり出た。濡れた光。心臓のあたりに埋まっていたのか。


解析する。


『対象:魔石(小)』

『用途:魔力資源/換金素材(一般)』

『注意:破損により魔力漏出の可能性』


換金。


金になる。


喉が鳴った。


だけど、現実で売れる場所があるわけじゃない。持っていれば、また奪われるだけかもしれない。


迷った瞬間、板が別の選択肢を出した。


『スキル〖整頓〗:収納枠を解放しました』

『アイテムを収納しますか?(魔石(小))』


見せないで持てる。


俺は、うなずいた。


「収納」


魔石が、ふっと消えた。


手の中から消えたのに、不思議と怖くない。綺麗に片付いた、って感覚だけが残る。


……整頓って、そういうことか。


俺は境界の扉へ戻った。白い線は、今は安定している。


向こう側の廊下――湿った臭いが見える。


現実に戻らないと。まだ仕事が残っている。


俺は境界をくぐった。


瞬間、肺に湿気が絡む。鼻の奥が痛い。――生きている世界の匂い。


でも、体が軽い。


道具箱を持ち上げるときの腰の重さが、少し薄い。


「……気のせいじゃないよな」


俺はステータスを呼び出した。


――――――――――

【八咫優馬】

Lv:2

HP:11 / 14

MP:4 / 5


STR:1

VIT:2

AGI:2

DEX:2

INT:1

LUK:1


スキル:

〖整頓〗Lv2

〖解析〗Lv1

〖清掃技術〗Lv3

称号:

〖境界に触れた者〗

〖空き家の管理者〗

――――――――――


HPの最大値が増えている。


俺の体も、現実で変わっている。


俺はゴミ袋を一つ持ち上げた。いつもなら腕が悲鳴を上げる重さ。今日は――持てる。


『経験値を獲得しました』

『清掃行為が“成長”として認識されました』


現実でも。


掃除で、強くなる。


笑えない冗談みたいなのに、俺は笑いそうになった。


俺は黙々と作業に戻った。燃える。燃えない。資源。危険物。


分類して、片付ける。


いつもと同じ仕事のはずが、今日は違う。


俺がやったことが、俺に返ってくる。


誰にも奪われない形で。


***


夕方、現場を終えた俺は、最後に廊下の奥へ向かった。


白い境界は、ぱっと見ではただの壁だ。でも、手を伸ばすと分かる。そこに“境目”がある。


――問題は、ここだ。


この家の鍵は、会社が管理する。今日の現場が終われば、俺はここに来られない。


せっかく見つけた居場所を、住所ごと失う。


そんなの、嫌だ。


俺は境界に触れた。


『対象:境界の扉』

『状態:待機』

『機能:回収/設置』

『備考:接続先は固定(異世界の空き家)』


回収。


設置。


……“拾う”って、そういうことかよ。


俺は息を呑んで、選んだ。


「回収」


白い線が、すっと消えた。


壁が元に戻ったわけじゃない。境界そのものが“片付けられた”みたいに、存在感がなくなった。


視界に表示。


『アイテム:境界の扉を収納しました』


これでいい。


これなら、誰にも見つからない。


俺は道具箱を持ち、現場を後にした。


***


夜。


狭い部屋に戻ると、空気が冷たかった。暖房の効きが悪い。壁も薄い。ここは俺の家で、俺の居場所じゃない。


俺はクローゼットの前に立った。


もし、ここに扉が出せるなら。


誰にも邪魔されない場所に、俺の“行き道”を作れる。


俺は、板を呼び出して言った。


「設置」


クローゼットの内側の壁に、白い線が走った。


鍵穴も取っ手もない。だけど、俺はもう知っている。


手を当てると、境界が割れた。


向こう側には、木の匂いがあった。


暖炉の煤。乾いた床板。――俺を拒絶しない空気。


俺は、息を吸い込んだ。


現実の臭いが、少しだけ遠くなる。


「……明日も、掃除しよう」


現実のゴミも。


俺の人生のゴミも。


片付け直すために。

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