第1話 悟りの主任に出会う

 配属初日って、人生の中でもわりと上位に入るくらい、心臓がうるさい日だと思う。


 私は葛西夢乃かさいゆめの、二十二歳。元気が取り柄――って自分で言うと急に安っぽいけど、少なくとも「静かに緊張を味わう」みたいな上品なことはできない。

 だから今も、フレバ若葉店の従業員通用口の前で、深呼吸を三回してから四回目に失敗して、ただの息切れになっていた。


 通用口のドアは「いらっしゃいませ」と言わない。

 代わりに、開いた瞬間に冷たいバックヤードの匂い――段ボールと洗剤と魚と、あと何か生活の匂いがまとめて鼻を殴ってくる。

 表の売場が「買ってね」と微笑む場所だとしたら、裏は「回してね」と真顔で迫ってくる場所だ。


 廊下の先に事務所。

 バックヤードは迷路みたいで、曲がるたびに台車が走り、伝票が飛ぶ。

 スーパーってほのぼのして見えるけど、ほのぼのを維持するために裏で何人も走っている。そういう矛盾の塊みたいな場所だ。


 事務所で店長の三浦さんに挨拶をして、書類と説明を一気に浴びた。優しい人の声って、忙しいときほど早口になるんだな、と変な学びも得る。


「葛西さん、今日からよろしくね。最初はサービスカウンターとレジ周りを中心に。現場は……まあ、現場だから」


 現場は現場。

 つまり、何かが起きる。私はうなずきすぎて首が取れるかと思った。


「レジの操作自体は、研修で一通りやってるって聞いてる。フルセルフが六台、セミセルフが六台。若葉店は有人レーンは無い。だから、誘導とフォローが命」


 そう。私は配属前の研修期間に、別のフレッシュバスケット店舗でレジ研修を受けてきた。

 手順は体が覚えている……はずだ。

 問題は手順の外側、つまり人間の方。

 機械はだいたいマニュアル通りに動くけど、人間はその日の天気と睡眠時間と財布の中身で仕様が変わる。


「担当のチーフが五十嵐さん。今、前に出てるから。ついて行ってみよう」


 その名前を聞いた瞬間、なぜか空気が一段落ち着いた気がした。

 店長の声にも、電話の鳴り方にも、「大丈夫、あの人がいる」みたいな余裕が混じる。

 名前だけで場の圧が変わるって、何者なんだ。


 サービスカウンターに出ると、表の世界は明るかった。

 惣菜の湯気、パンの甘い匂い、冷ケースの低い唸り。買い物かごがガラガラ鳴って、セルフ端末の「ピッ」という電子音が小気味よく刻まれている。


 なのに、胸の奥が、ほんの少しだけざわつく。


 レジ前には、見えない潮目がある。


 列が伸びると、人の目が細くなる。さっきまでスマホを見ていたはずの人が、急に顔を上げて、レジの動きだけを数え始める。時計なんて見てないのに、「遅い」って言葉だけが先に来る。待つ時間って長さじゃなくて、気持ちの置き場がなくなったときに増えるんだと思う。


 置き場を失った気持ちは、たいてい一番近いところに落ちる。制服を着て、にこっと笑っている人間の足元とかに。


 サービスカウンターの横、セミセルフエリアの手前で、一人の女性が周囲を見渡していた。

 背は私より少し高い。髪はきっちりまとめていて、表情は穏やか――というより、静か。嵐の中で水平線だけ見ているみたいな顔。


 その人が、私を見る。目が合う。


「葛西夢乃さん?」


 呼ばれた。フルネームで。怖い。いや、正しい。正しいんだけど、正しさって人を緊張させる。


「は、はいっ! 今日からお世話になります!」


「五十嵐成美です。サービスカウンターとレジのチーフ。よろしくね」


 名乗り方がさらっとしていて、余計な飾りがない。

 なのに、立っているだけで「現場の中心」ってわかる感じがした。人って、肩書より先に仕切れる人の気配が出る。


「今日、最初は私の横で見てて。研修でセミセルフとフルセルフ触ってきたって聞いた。操作は大丈夫だと思うけど、若葉店のクセはあるから」


 クセ。スーパーにクセって何。と思ったけど、たぶんすぐわかるやつだ。


 そのときだった。


「ちょっと! いつまで待たせるの!」


 セミセルフの列の先で、低い怒鳴り声が上がった。怒鳴る、というより、苛立ちが声の形になって落ちてきた感じ。


 振り向くと、セミセルフ六台のうち、明らかに一台が止まっている。支払い端末の画面が固まっていて、そこに人が集まっている。


 しかもスキャン担当のスタッフがその端末に張りついてしまい、結果としてスキャンの流れが遅くなって、列が伸びていた。


 小さな事件。毎分起きるやつ。


 私の体が勝手に反応して、一歩踏み出しかけた。クレーム処理が苦手なくせに、元気だけで前に出ようとする癖がある。

 火事を見ると、バケツを持たずに走るタイプ。走ったところで私の手は空っぽなのに。


 でも、その一歩の前に、成美主任が動いた。


 速い。速いのに、走らない。水が流れるみたいに、すっと列の前へ行く。声のトーンも、歩幅も、変わらない。私だけが勝手に心拍数を上げて、置いていかれる。


「お待たせしてしまってすみません」


 まず謝る。こちらが悪いことにして丸く収める謝罪じゃなくて、「不快にさせた事実」だけを受け取って、感情の火に油を注がない謝罪だった。


「今、こちらの支払い端末が一台、確認に入っていて流れが遅くなっています。ここから、解決策を二つご案内しますね」


 二つ。私はそこで変な感心をした。普通、焦ると説明が長くなる。長くなると相手は「言い訳」として受け取る。だから怒りが増える。成美主任は逆に、情報を絞って、しかも選択肢にして渡した。


「一つ目は、このままセミセルフでお待ちいただく方法。復旧はもう少しです。二つ目は、フルセルフへご案内して、こちらで操作を横でお手伝いする方法です。早いのは二つ目です」


 怒っていた人が、一瞬だけ言葉を止めた。怒りって、行き先がなくなると止まるんだ。

 私がやるとたぶん「申し訳ありません、ただ今確認しておりまして、その……」って長文を出して、相手の怒りに火種を追加してしまうだろう。


「……フルセルフって、全部自分でやるやつでしょ?」


「はい。スキャンもお支払いもお客様の操作になります。ただ、操作が不安なら横につきます。最初だけ一緒にやりましょう」


 「不安」。言葉の選び方が上手い。「できない」じゃなく「不安」。相手のプライドに刃を当てない。すごい。


 客が少しだけ声を落とした。


「でも、私そういうの苦手で……」


「大丈夫です。苦手な人のために私たちがいます」


 その返し、ずるいくらい優しい。そういう人が言う「大丈夫」は、本当に大丈夫にしてしまう言葉だ。


 成美主任は、ふっとこちらに視線を向けた。


「葛西さん」


 突然名前を呼ばれて、私は心臓が跳ねた。


「はいっ!」


「フルセルフ二番、空いてる。こちらのお客様をご案内して、最初のスキャンから一緒に。研修で触ってるなら、いける」


 指示が短い。具体的。新人にもできる範囲に切ってある。いきなり一人で回せ、じゃない。できるところまで一緒に。それだけで、足元が少し安定した。


「わかりました!」


 私はフルセルフへ向かった。走るな、走るな、と思いながら、結局ちょっと小走り。元気って罪。


 レジの画面が、いつもの顔で待っている。機械は穏やかだ。人間だけが勝手に戦っている。なんだこの世界。


「こちらです。最初だけ一緒にやりますね。まず、商品をここにかざして……そう、ピッて音が鳴ったらOKです」


 研修で覚えた手順が、指先から出てくる。バーコードの角度、スキャンの音、次の商品への移動。

 問題は、横にいる人の表情を読むことだ。私は読書よりそっちの方が苦手だ。


 お客様の手が少し震えている。怒りじゃない。たぶん、できるか不安の震えだ。私は思わず、声を明るくしすぎてしまいそうになった。


 その横で、成美主任が一歩引いて見守っている。見守っているのに、背中が落ち着く。どういう理屈?


 お客様が商品をかざす。……鳴らない。


「あれ?」


 もう一回。……鳴らない。


 空気が戻りかける。さっき沈んだ苛立ちが、また浮き上がる前兆。

 私は「すみません!」と言いかけて、舌の先で止めた。謝ると、また誰かのせいだと始まる。


 成美主任が、さらっと商品を持ち上げ、バーコードをくるりと裏返した。


「こちら、バーコードが内側で、いま布団かぶってました」


 え。布団?


 成美主任は真顔のまま、バーコードを読み取り面に向ける。機械が「ピッ」と鳴った。


 お客様が一瞬、きょとんとしてから、口元だけを動かした。


「……布団?」


「はい。寒いので」


 寒いのは人間の都合だ。バーコードは寒さを感じない。

 私は笑いそうになって、慌てて口を引き結んだ。でも、口角が勝手に上がる。


「ふふ……なるほどね」


 え。今ので何がわかったの? そう思ったが、お客様が笑っている姿を見て私は安心した。笑ったことで、怒りがスルッと落ちたような気がした。


 成美主任は何事もなかったように続ける。


「次からは、バーコードに布団をかけない向きでお願いします。……もし布団をかけても、私たちが剥がします」


 剥がします。言い方が妙に頼もしい。


 お客様が小さく息を吐いて、今度はちゃんとバーコードを向けた。機械が素直に「ピッ」と鳴る。列の向こうから聞こえていた苛立ちの音が、少し遠くなる。


 私は心の中でつぶやいた。


 ――この人、悟ってるのに、たまに変なことを真顔で言う。しかも、効く。


 そこへ成美主任が私の横に立って、画面を一瞥するだけで状況を把握する。


「いいですね。お支払いは最後にここです。途中で止まったら、私が解除します」


 解除。言い方がまた強い。機械に止められても「あなたが悪い」じゃなく「こちらが解除する」。人間の自尊心を守る人って、現場で最強だ。


 数分後、会計は終わった。お客様は最後に小さく頭を下げて、「……ごめんね、さっき」と言った。


 私は、その言葉が胸に刺さって、思わず大きめの声で返してしまった。


「いえ! 全然! ありがとうございます!」


 元気って罪。でも、この罪なら許されたい。


 セミセルフの列も、いつの間にか少し短くなっていた。


 成美主任が裏で導線を変えたからだ。


 止まっていた支払い端末の前には「ただいま確認中」の札が置かれ、列の先頭が迷子にならないようにロープの位置まで変わっている。さらに、サービスカウンター側に「お困りの方はこちらへ」の臨時案内が出ていて、イレギュラーはそっちで吸っている。


 仕組みで殴られないように、仕組みで守っている。言葉だけじゃない。配置と札と導線で、人の怒りの行き先を変えている。


 私は成美主任の横に戻って、息を整えた。


「……すごいですね」


 言葉が勝手に漏れた。敬語が追いつかない。感心が追い抜いていく。


「何が?」


 本気でわからない顔をする。自覚がない。怖い。いや、尊い。


「だって……怒ってた人、最後、謝ってましたし……列もいつの間にか……」


「列は流れれば短くなるよ」


 当たり前みたいに言う。そりゃそうだけど、それができないから戦場なんだってば。


「こういうときは、相手を説得しない方が早い。相手が選べる状態にするのが一番」


 悟りだ。宗教じゃない、現場の悟り。心を救うというより、現場を救う悟り。私は内心で拍手した。拍手しすぎて心の手のひらが赤い。


 成美主任は少しだけ首を傾けて、真顔のまま言った。


「セルフが多い店って、怒りもセルフで増えるよね」


「え?」


「自分でやらされてるって思うと、心が忙しくなる。だから、こっちはひとりにしないを売る」


 ここで「売る」って言うの、ずるい。ちょっとかっこいいと思ってしまった。


 私は成美主任の名札を見た。

 五十嵐成美。サービスカウンター兼レジのチーフ。仕事は超できて、本人は無自覚で、ときどき真顔で変なことを言う。


 この人みたいになりたい。

 ……いや、でも。


 あそこまで悟りたくは、ないかもしれない。


 悟りって、手に入れたら最後、私の元気が居場所を失いそうだ。

 走り出す前に落ち着けるなんて便利すぎて怖い。

 人間、便利になると別の面倒が増えるって、フレバのバックヤードの段ボールが言ってた(言ってない)。


「葛西さん」


「はいっ!」


「次、サービスカウンターでポイント後付け来そう。顔、作れる?」


 戦場の次の小さな事件が、もう来る。毎分起きるやつ。


「作れます! 研修で笑顔だけは叩き込まれました!」


「それは強い。元気は導線を変える前に、空気を変える」


 その言葉の意味は、まだ半分もわからない。でも私はうなずいた。


 フレバ若葉店の戦場は、今日も穏やかな顔をしている……しているように見えるだけで、たぶん忙しい。けれど少なくとも、その忙しさを日常に戻してしまう人が、ここにはいる。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇

2026/01/07 改稿しました


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