Episode 4. 赤き瞳の執事

「――天よ……どうして、こんなにも愚かなことを……!」


恐怖で震えていた私の背後から、少しかすれた男の声が響いた。


「岸へ走れ!」


私は反射的に岸へ向かって泳ぎ出した。

背後では、水面を裂くような音と、低く唸る咆哮。


振り返った一瞬、見えてしまった。


川の中で暴れていたのは――ドラゴン。

だが、その喉元に、赤い閃光が突き刺さる。


赤い髪が風に煽られ、血と水を散らしながら舞っていた。

淡く青い肌。

赤く染まった白目。

獣のように鋭く、黒く細い瞳。


その男は――執事の制服を纏ったまま、ドラゴンと斬り結んでいた。


次の瞬間、巨大な水柱が上がり、

ドラゴンの悲鳴が川に吸い込まれる。


私は岸に辿り着いた。


そこに、彼がいた。


風に揺れる長い赤髪。

濡れた制服。

そして、あの異様な眼。


彼は私の手首を強く掴んだ。


「――急げ、間に合う!」


そう叫ぶと、私を引き寄せ、川から遠ざけた。


ずぶ濡れのドレスでは走りづらかったが、幸いにもドラゴンは陸へは上がれないらしい。

城に近づいたところで、私たちはようやく足を止めた。


「……誰が、こんなことをした」


怒りと悲しみが入り混じった視線が、私に向けられる。


「……い、いえ。気にしないでください」


知らないふりをするしかなかった。

この世界のことを、私は何も知らない。


「気にしない……だと?」


彼の赤い白目が、さらに濃く光った。

だが、その怒りは私ではなく、“誰か”に向けられているようだった。


「君は、死にかけたんだ」


「……大丈夫です」


その言葉に、彼は凍りついた。


まるで、どんな答えも想定していたのに、それだけは予想外だったかのように。


彼の顔には、眼を裂くような深い傷跡があった。

獣の爪――おそらく、過去の戦いの痕。


「……俺はガストだ。

ガスト・ラングドン」


「レジーナ・ア=ミンヴィ・タンペットです」


この名前を口にするだけで、妙な現実感が胸に刺さる。


「ア=ミンヴィ……。

失礼しました、姫殿下。

私はあなたの父君に仕える執事です」


彼は深く一礼した。


「必ず、あなたを川へ突き落とした者を見つけ出します。

調査を始め、見つけ次第――」


まずい。


本気で調べられたら、私は愚かな姫扱いされるか、

最悪、あの侍女たちが罪を負う。


「待ってください。……私が、自分でやったんです」


「……は?」


彼の瞳が、怒りで燃え上がった。


「正気ですか!?

……いえ、失礼。

あの川がどれほど危険か、ご存じでしょう!」


「……ええ。知っていました」


知られてはいけない。


「では、故意に……!?

なぜ!?

あなたは“真夜中の姫君”でしょう!

何が不満だったのですか!」


私は俯き、黙り込んだ。

苦しそうな表情を作り、涙を滲ませる。


――最低だ。


ガストは何も言わず、静かに手を差し出した。

私たちは城へ戻った。


「……誰にも言いません、姫殿下」


振り返った彼の目には、深い同情があった。


「約束します」


宮殿の庭。

銀のように輝く噴水と、女神の像。


私はそのそばのベンチに腰を下ろした。


「……本当に、大丈夫ですか?」


「ええ。もう下がってください。

助けていただき、感謝します」


「……何かあれば、必ず知らせてください」


彼は一礼し、去っていった。


――不思議な人。


なぜ、皇帝の娘である私を、あそこまで気にかける?


もし、これが演技でないなら――

この世界は、本物?


「……お母さん」


口に出した瞬間、全身に冷や汗が走った。


息ができない。

膝から崩れ落ちる。


「……お母さん……」


視界が暗転した。


「おい! 死ぬな!」


冷たい水が顔にかかる。


「悪い。他に水がなかった」


目を開けると、赤毛の青年がいた。

人間に近い肌色、目の下には濃い隈。


彼は私の手を包み、鼻の前へ持っていく。


「呼吸しろ。

吸って……吐いて……

俺のシャツのボタン、いくつある?」


一つ、二つ……。


次第に、息が戻る。


「落ち着いたか?

ガストに何か言われたのか、レジーナ」


「……いいえ。自分でも分からなくて」


「今日は訓練に来なかっただろ。

だから様子を見に来た」


――訓練?


「最近、シマへの依頼が来た。

皇太子妃暗殺だ」


頭が真っ白になる。


「俺たちなら可能だが、

帝国の連中は鋭すぎる。

だから……お前の人生を壊したくなかった」


――前の私は、何者?


「明日は来い。

首都外れの原っぱだ」


「……はい」


「じゃあな。

俺は道化の仮面を被って、

王女殿下の元へ行く」


彼は去った。

名前も告げずに。


その夜、私は侍女たちを呼んだ。


「……今日、姉の元に来た方の、正式なお名前を教えて」


「レイ・アク=サン=ドゥール様ですわ。

殿下のご婚約者、ヘル・アク=サン=ドゥール様の弟君です」


――ヘル。


一瞬、背筋が凍る。


……地獄?


「皇太子妃殿下が、兄君ばかり見ておられるのが切なくて……」


……最悪だ。


婚約者の弟は暗殺者で、

婚約者の名前は“ヘル”。


しかも、皆が私を哀れんだ目で見る。


――この世界、本当に呪われている。

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