207号室のドビュッシー

エノウ アカシ

207号室のドビュッシー

 私のアパートの隣の部屋からは、いつもドビュッシーの『月の光』が聞こえてくる。


 だれでも聞いたことのある、あの名曲だ。


 やわらかいベルベットのような、あるいは深夜にともる街灯のあかりのようなそのピアノ曲は、奏者によって様々な表現で演奏されている。


 表現者の情緒がはっきりと表れる、それはまるで写鏡だった。


 ただ、これだけは言える。


 ドビュッシーは、見るものによっていかようにも姿を変える月の光を、見事に再現したのだと。


 ……話を戻そう。


 私の部屋は206号室。10畳1Kの、小ぢんまりとした独身者向けの物件だった。持ち物があまりない私にとっては充分な広さだ。唯一の欠点を挙げるとするならば、風呂がユニットバスくらいのものか。


 築二十五年、家賃三万二千円の、地方都市によくある格安物件。


 そして、当然206号室の隣は207号室だ。


 207号室は角部屋で、私以外の隣人はいない。上の階も下の階も空室だった。


 ……初めて『月の光』を意識したのは、そのアパートに引っ越してきた当日、荷解きが一段落した夕方のことだった。


 隣の部屋から、ピアノの音が聞こえてくる。


 もちろん、生音ではない。なにかのデバイスで出力しているスピーカーの音だろうか、その曲ばかりが延々と途切れることなく流れてきた。


 最初は、あれ、なんの曲だったっけ?と思った。気になってネットで調べてみたところ、該当したのがドビュッシーの『月の光』という名前だった。


 なるほど、とうなずく曲だ。クラシックに疎い私でも、その曲が良いものであることくらいは理解できる。


 隣人はクラシックが好きなのだろうか。引越しの挨拶をするつもりもないので、どんな人間かはわからなかったが、今度ゴミ出しやなにかで鉢合わせしたら顔を拝んでおこう。


 そのときは、ただそんな風に考えていた。


 しかし、次第に私は207号室の住人に不気味さを覚えるようになっていった。


 止まらないのだ、ドビュッシーが。


 『月の光』は、いついかなるときも隣室から聞こえてきた。朝目覚めるときも、仕事から帰ってきたときも、食事をしているときも、シャワーを浴びているときも、眠りに落ちる瞬間も。


 おそらくは、私が仕事に行っている間も、寝ている間も流れているのだろう。二十四時間三百六十五日、それは途切れることなく続いた。


 一体、どういう意図で常に『月の光』を流しているのだろうか。


 隣人はいつ眠って、いつ仕事に行っているのだろうか。


 なぜドビュッシーの『月の光』ばかりなのか。


 私はそこに、偏執狂じみた不気味さを覚えてしまった。なにか暗く、しかし煮えたぎるような情念を感じ取ってしまった。


 あんなに静かでやさしい音が、私にとっては日常を侵食する毒のように聞こえた。


 もしかしたら、隣人は発狂しているのかもしれない。精神に致命的なやまいを抱えているのかもしれない。


 そう思った私は、一時期軽いノイローゼになった。


 しかし、いくら睡眠薬を飲んで眠っても、目覚めるとまたあのドビュッシーが流れているのだ。


 大家にそれとなく苦情を言ったこともある。


 すると大家は、『ああ、あのひとは、ね……』と顔を曇らせて意味深な濁し方をした。


 やはり、207号室の隣人にはなにかあるのだろう。


 私にはどうしても止めることのできない『月の光』は、とめどなくループを繰り返した。


 もうやめてくれ。


 何度そう思ったことか。


 ……しかし、ある日のこと。


 私は仕事で大きなミスをして、上司に大目玉を食らって泣きながら帰ってきた。いい大人がみっともないとは思いながらも、自分の不甲斐なさで涙が止まらなかった。


 そんなときでさえ、隣室からは『月の光』が聞こえてきていた。


 思わずカッと来て、今夜こそ怒鳴り込んでやろうとした。


 その前に、いつもは吸わないタバコを吸おうと、私はサンダルをつっかけてベランダに出た。


 ……まぶしい。


 そういえば、今夜は満月だ。


 太陽のような生命力は、月光には見当たらなかった。


 その代わり、そっぽを向きながらもしっぽでじゃれてくる猫のような温度があった。


 太陽が『がんばれ』と励ましてくれる存在だとしたら、月は『無理しないで』と労わってくれるような存在だ。


 そのときの私にとっては、そんな月の光が一番の癒しとなってくれた。


 まばゆい青白さのもと、百円ライターでタバコの穂先に火をつける。煙を吸い、吐きながら手すりに肘をつく。


 その間も、ずっとドビュッシーは隣室から聞こえてきていた。


 だが、もう私の中に殴り込んでやろうという気持ちはなくなっていた。


 あれだけ気味悪がっていた『月の光』が、こんなにもこころに染みるとは思いもしなかったからだ。


 泣いて帰ってきたからだろうか、月光に照らされているからだろうか、タバコのせいだろうか。


 おそらく、そのすべての要素が合わさって、私は気づいたのだ。


 ああ、こんなにも愛すべき音楽だったのか、と。


 乱れていた精神の均衡が取り戻され、感情が凪の海のようにフラットになる。タバコを一本吸い終わるころには、すっかり涙も乾いていた。


 夜の静けさと『月の光』のコントラストが鮮やかに浮き彫りになる。


 月光の海に沈んだ世界には、それはもっともお似合いの曲だった。


 もう、『なぜ』とは思わない。


 ただ、『ありがとう』という思いだけで胸がいっぱいになった。


 弱っている人間特有の、これはただのセンチメンタルに過ぎないのかもしれない。


 それでも、私はその夜、生まれて初めてドビュッシーの『月の光』を愛した。


 ……それからの日々は、以前とはまったくちがったものになった。


 家に帰ってきて『月の光』が聞こえてくると、無性にほっとする。聞いていると食事がよりおいしく感じられた。風呂場でシャワーを浴びながら、下手くそな鼻歌でメロディラインをなぞる。そして、ドビュッシーに見守られていることに安らぎを感じながら眠りにつくのだ。


 どんなときでも、そばにいてくれる。


 いつしか、私にとっての『月の光』はかけがえのない存在になっていた。


 ……しかし、そんな蜜月もやがて終わりを迎えることになる。


 ある晩、仕事から帰ってくると、207号室の前にちょっとしたひとだかりができていた。警官らしき制服の男女が無線でなにごとか連絡をしたり、作業着姿の人間が出入りしたり、ちょっとした騒ぎだ。


 居合わせた大家に、なにかあったんですかと尋ねると、隣人が死体で発見されたという返事があった。


 途端に顔から血の気が引いていった。


 薄い壁一枚隔てたところにずっと死体があったことに対してではない。


 死体が横たわっている間じゅうも、ずっとドビュッシーが流れていたことに対してでもない。


 ……もう、私の安らぎである『月の光』が聞こえなくなってしまう。


 いつだってそばにいてくれた存在が、急にいなくなってしまう。


 伴侶に先立たれたものの気持ちというのは、きっとこういうたぐいのものだろう。


 その時点で、私はようやく自覚した。


 私は、207号室の隣人を、こころから愛していたのだ。


 顔も名前も年齢も、性別すらもわからない人物がドビュッシーを流してくれることに、こころから感謝していたのだ。


 たったひとつ、『月の光』をいっしょに聞いてくれているというその一点においてのみ、私たちは繋がっていた。


 それはきっと、どんな肉体的な交わりよりも私たちらしい情交だったに違いない。


 ずっとずっと、私たちはいっしょにいたのだ。


 おそらく、肉親よりも近くに。


 しかし、今さら気づいたとこで、もう遅い。


 愛すべき隣人はもう、死んでしまったのだから。


 私は、ブルーシートを被せられた担架に歩み寄ろうとはしなかった。


 ただ、死体が発見されたその瞬間でさえ流れ続けるドビュッシーの美しさに胸を引き裂かれたようなここちがして、突っ立ったまま滂沱の涙を流していた。


 ……だが、話はそこで終わらない。


 今もまだ聞こえているのだ、『月の光』が。


 まるであるじを亡くしたことがウソのように、そのピアノ曲は隣室から流れ続けていた。


 初めは幻聴を疑った。


 なのでスマホを録音モードにしてしばらく置いておいた。


 その結果、たしかに実際に聞こえているということがわかった。


 幻聴などではない。


 『月の光』は、本当に今も流れているのだ。


 途切れることなく、連綿と。


 まるで部屋自体に取りついている霊魂のように。


 不思議と、恐怖は感じなかった。


 ただ、腹の底からじわりとよろこびが込み上げてきた。


 またいっしょにいられる。


 207号室の隣人は、死んでも私をひとりにしなかった。


 なんていとしいひとなんだろう。


 これからも、ずっとずっといっしょにいよう。


 私が死んでしまうまで、この音楽は鳴り止まない。


 どこへ行ってもついてきてくれる月のように、寄り添って離れない。


 だから、私は今夜も、安らぎのメロディの中で眠りにつくことができる。


 207号室のドビュッシーに、こころからの愛を込めて。

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