第3話

夕日が、さらに赤みを増していた。

理科室の空気は、埃の一つ一つが止まって見えるほどに凪いでいる。


あたしは、実験台に突っ伏して目を閉じている月城栞の、すぐ左側に立った。

距離は、およそ20センチ。


他人が踏み込めば不快に感じる「密接距離」。

けれど、ASMRにおいてはこの距離こそが「スイートスポット」だ。


(……よし)


あたしは一度、深く息を吐き出した。

肺の中にある「宇都宮そら」としての高いテンション、明るい響き、道化の仮面。


それらをすべて、呼気と共に排出する。

そして、吸い込む。


静寂を。夕暮れの湿度を。

喉の奥のスイッチを切り替える。


声帯の締め具合を調整し、共鳴腔を胸の奥へと下げる。

準備完了。


ここからは、配信者『SORA』の時間。

あたしは、ゆっくりと腰を落とし、彼女の耳元に唇を寄せた。


「……ねえ、栞ちゃん」


第一声。

それは、自分でも驚くほど甘く、低く、湿り気を帯びた音になった。

空気の振動が、直接彼女の鼓膜を撫でるようなウィスパーボイス。


「……っ!?」


栞の肩が、ビクリと跳ねた。

伏せている顔が見えなくてもわかる。

今、彼女の背筋を、得体の知れない電流が駆け抜けたはずだ。


「……な、何、今の声……」


栞が顔を上げようとする。

けれど、あたしはそれを許さない。


そっと、彼女の頭に手を乗せた。

触れるか触れないか、ギリギリの優しさで。


「……動かないで。目は閉じたまま」


命令ではない。

懇願でもない。

ただ、そうすることが世界の理(ことわり)であるかのような、絶対的な誘導。


「……っ」


栞の動きが止まる。

彼女の理性は「振り払うべきだ」と叫んでいるはずだ。

けれど、本能がそれを拒否している。

あたしの声に含まれる「強制的な安らぎ」の成分に、脳がバグを起こしているのだ。


「……そう、いい子」


あたしは、さらに声を潜める。

マイクを通さない、生のバイノーラル。

吐息の成分を多めに混ぜて、言葉の輪郭をあえてぼやかす。


「……肩に、力が入ってるよ」


あたしの声は、音波となって彼女の体を包み込む。


「……眉間のシワ、ほどいて」

「……奥歯の噛み締め、ゆるめて」

「……そう、だらーんと。……重力に、身を任せて」


言葉の一つ一つが、呪文のように機能する。

栞の体が、目に見えて弛緩していくのがわかった。

強張っていた肩のラインが落ち、握りしめていた拳が解け、指先がだらしなく開く。


(……すごい)


あたしは内心で舌を巻いた。

感受性が高いとは思っていたけれど、ここまでとは。


彼女はまるで、音を吸収するスポンジだ。

あたしの声が、彼女の神経回路に直接侵入し、強制的に「リラックスモード」のコマンドを書き込んでいる。


「……な、に……これ……」


栞の唇から、途切れ途切れの言葉が漏れる。

それは抗議ではなく、困惑だった。


「体が、勝手に……重く……」

「うん、それでいいの」


あたしは彼女の耳元で、フフッ、と小さく笑った。

その吐息が耳殻にかかり、彼女の耳が真っ赤に染まるのが見えた。


「怖くないよ。……今は何も考えなくていい」

「……でも……予習、が……」


まだ理性が抵抗している。

真面目すぎる彼女らしい。

でも、その抵抗すらも、今のあたしには愛おしい。


「……頑張り屋さんだね、栞ちゃんは」


あたしは、トントン、と一定のリズムで実験台を指先で叩き始めた。

心拍数よりも少し遅い、入眠のためのテンポ。


「……でもね、脳のメモリがいっぱいだと、新しい知識は入らないよ?」

「……メモリ……?」

「そう。今の栞ちゃんは、オーバーヒート寸前。……一度、再起動(しなきゃ」


理系女子の彼女に合わせて、比喩を選ぶ。

納得感を与えることで、理性のガードを下げる作戦だ。


「……再起動……」

「うん。……だから、今はシャットダウンの時間」


あたしは顔をさらに近づけた。

唇が、彼女の耳たぶに触れる寸前。

熱を感じる距離。


「……今日一日、お疲れ様」


その言葉が、決定打(トリガー)だった。

誰にも言われなかった言葉。

孤高を貫き、一人で戦い続けてきた彼女が、一番欲しかった肯定。


「……あ……」


栞の喉から、空気が抜けるような音がした。

張り詰めていた糸が、プツリと切れる音。


「眠いね?」

「……う、ん……」

「深く、深く……海の底に沈むみたいに」

「……しず、む……」


彼女の意識が、急速に混濁していく。

あたしの声だけが、彼女の世界を繋ぎ止める唯一のアンカーだ。


「……大丈夫。あたしがここにいるから」

「……あなたが……?」

「そう。……あたしが、あなたの眠りを守ってあげる」


甘く、重く、逃げ場のない約束。


「……だから、安心して……おやすみ」


最後のフレーズを、吐息だけで囁いた瞬間。

カクン。


栞の頭が、完全に落ちた。

自分の腕の中に顔を埋め、全身の力が抜ける。

まるで、電池が切れた人形のように。


「…………」


数秒の静寂。

やがて、スー、スー、という、深く規則正しい寝息が聞こえ始めた。


「……うっわ」


あたしは、ゆっくりと体を起こし、大きく息を吐いた。


「……マジか。即落ちじゃん」


声のトーンを、いつもの「そら」に戻す。

いや、戻そうとしたけれど、少しだけ震えていた。

目の前の光景が、あまりにも衝撃的だったからだ。


あの「氷の女王」が。

誰の言葉も聞き入れなかった月城栞が。

あたしの声だけで、ものの数分で意識を手放した。


(……あたしの声、そんなに効くの?)


配信のコメント欄で『SORAさんの声は麻薬』なんて書かれることはあったけれど、リアルでここまで効果が出るとは思わなかった。

それとも、彼女との相性が良すぎるのか。


「……ふふ、無防備すぎでしょ」


あたしは、眠り姫の顔を覗き込んだ。

夕日に照らされたその顔は、起きている時の険しさが嘘のように穏やかだった。

少し開いた口元。


あどけない寝顔。

そして、目の下のクマは痛々しいけれど、眉間のシワは綺麗に消えていた。


「……可愛い」


思わず、本音が漏れた。

クラスの皆に見せたら、きっと大騒ぎになるだろう。

でも、見せない。

この顔を見れるのは、今、この理科室にいるあたしだけだ。


(……なんか、征服感あるなあ)


彼女の意識を、あたしが奪った。

彼女の安眠を、あたしが支配している。


その事実が、胸の奥をくすぐった。

これは、優越感? それとも――。


「……んぅ……」


栞が小さく身じろぎをして、何かを呟いた。


「……ママ……?」

「……ぶっ」


あたしは吹き出しそうになるのを必死で堪えた。

ママて。

普段あんなにツンケンしてるのに、夢の中では甘えん坊かよ。


ギャップ萌えで殺す気か。


「……残念ながら、ママじゃないよ。ただの通りすがりの陽キャですー」


あたしは小声でツッコミを入れつつ、彼女の髪をそっと指で梳いた。

サラサラとした感触。

シャンプーのいい匂いがした。


「……ゆっくり寝なよ、栞ちゃん」


あたしは近くの丸椅子に座り直し、スマホを取り出した。

LIMEの通知が溜まっているけれど、今は返す気になれない。


この静寂な理科室で、彼女の寝息をBGMに、夕日が沈むのを見届ける。

それは、いつも騒がしい世界に生きるあたしにとっても、思いがけない「癒やし」の時間だった。


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