第2話 氷解するロジック、侵食するバイノーラル
あたしは、近くにあった丸椅子を引き寄せると、クルリと回して逆向きに跨った。
背もたれに腕を乗せ、顎を載せて、栞の顔を真正面から覗き込む。
「……何ですか?」
栞が不快そうに眉をひそめる。
「いやー、月城さんさあ」
あたしは人差し指で、自分の目の下をトントンと指差した。
「そのクマ、すごくない? ちゃんと寝てる?」
空気が凍る音がした。
栞の表情から、一切の感情が抜け落ちる。
触れられたくない核心。
一番隠したかった弱点。
そこを、無神経なクラスメイトに土足で踏み込まれた。
そんな顔だ。
「……あなたに、関係ありますか?」
声の温度が、数度下がった。
「あなた」という丁寧な二人称が、逆に冷徹な距離感を感じさせる。
「関係はないけどさー。心配じゃん? クラスメイトだし」
「……余計なお世話です。これは、ただの……体質です」
「体質? 嘘だあ。だって今、すっごい辛そうな顔して寝てたよ?」
「……っ」
栞が言葉に詰まる。
図星だったらしい。
「効率が悪いから、夜遅くまで予習復習をしているだけです。……睡眠時間は確保しています。質の問題も、アロマや寝具で対策済みです。だから、あなたにとやかく言われる筋合いはありません」
早口だ。
論理で武装して、自分を正当化しようとしている。
典型的な、真面目すぎて自分を追い込むタイプ。
「ふーん……。効率、ねえ」
あたしはニシシと笑った。
彼女の論理武装なんて、あたしの前では紙切れ同然だ。
だって、あたしは知っているから。
「対策済み」と言い張る不眠症患者が、どれだけ孤独な夜を過ごしているか。
どれだけ必死に、眠れない天井を見つめているか。
「ねえ、月城さん」
あたしは少しだけ、声のトーンを落とした。
教室内で使う「陽キャボイス」から、少しだけ「SORA」の成分を混ぜる。
「……本当は、眠りたいんでしょ?」
「……は?」
「アロマも、高い枕も、ホットミルクも試した。スマホも手放した。羊も数えた。……でも、眠れない。違う?」
栞の瞳が揺れた。
動揺。
あたしの言葉が、彼女の心のプロテクトをすり抜けて、内側に届いた証拠だ。
「……な、何を根拠に……」
「根拠なんてないよ。勘!」
「……バカバカしい。帰ってください」
栞は顔を背け、再び机に突っ伏そうとした。
拒絶。
これ以上踏み込むなら、本当に嫌われるかもしれない。
でも、あたしは引かなかった。
だって、今の彼女の背中は、泣いているように見えたから。
誰にも頼れず、一人で夜と戦い続けて、ボロボロになった背中。
それを知ってしまった以上、見過ごすなんてできない。
「ぐぬ……それは聞き捨てならないな。バカバカしいとは心外だよ、月城さん」
あたしは椅子から立ち上がると、彼女の隣に立った。
そして、彼女の耳元に顔を近づける。
「……ねえ。ちょっとだけ、実験してみない?」
「……実験?」
怪訝そうに、栞がこちらを見る。
距離、30センチ。
パーソナルスペースを侵食する距離。
「そう。あたしが、月城さんを寝かせてあげる実験」
「……は? 意味がわかりません。あなたが子守唄でも歌うつもりですか? 笑わせないでください」
「子守唄かあ。……うん、まあ、似たようなもんかな」
あたしは口角を上げた。
自信満々の笑み。
でも、内心では心臓が少しだけ早鐘を打っていた。
これは賭けだ。
もし失敗したら、ただの「痛い奴」認定されて終わりだ。
でも、もし成功したら。
「……いいわよ」
意外な言葉が返ってきた。
栞は、挑発的な目で私を見返していた。
「どうせ無理に決まっています。でも、あなたがそこまで言うなら、その無意味さを証明してあげます。……それで気が済んだら、さっさと消えてください」
「あはは、おっけー! 言ったね?」
交渉成立。
あたしは心の中でガッツポーズをした。
「じゃあ、そのまま楽な姿勢でいて。……あ、目は閉じててね」
「……早くして」
栞は不服そうに言いながらも、再び実験台に腕を組み、そこに顔を埋めた。
視界が遮断される。
これで、彼女の世界は「音」だけになる。
理科室には、夕暮れの静寂が満ちている。
遠くで微かに聞こえる吹奏楽部の練習音。
カラスの鳴き声。
そして、栞の浅く、緊張した呼吸音。
あたしは、大きく息を吸い込んだ。
肺の中の空気を、全て入れ替えるイメージ。
喉の筋肉をリラックスさせ、声帯のチューニングを行う。
ターゲットは、目の前の強がりな眠り姫。
さあ、SORAの時間だ。
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